窓辺で歌を歌いながらジュダルの帰りを待っていると、通りかかった人が声を上げたため、は歌を止めざるを得なかった。





「おまえ、」






 少し陰った赤い髪と三角形の口ひげ。傍らには書物を持ち、どう見てもそのあたりの武官のようではない。質の良さそうな服からどう見ても高官だろうが、はほとんどこの部屋からジュダルの許可なしに出たことがないので、全く知らなかった。






「おまえ、マフシード様の娘か?」






 嘲るように彼は小さく笑って、に言う。その台詞の意味がよくわからなかったが、歌を邪魔されたは流石にむっとして、彼を見た。





「おじさんは、だぁれ?」





 がゆったりした口調でそう口にすると、彼の表情があからさまに凍った気がした。

 このあたりはジュダルの私室で、誰も基本的には近づかない。もちろん女官などはいるが、それでもやってくるのはジュダルに用がある人間だけだ。彼が誰なのか、宮廷に来て日が浅いにはわからない。






「人にものを尋ねる時は自分からと教わらなかったのか?」







 男はそう言った。だがあからさまに不機嫌そうで、は首を傾げる。





「おじさんはなんで怒っているのかな。」






 歌を邪魔されて、怒りたいのはの方だ。なのに、彼はの今の発言にますます気分を害したようで、どんよりと曇った空気を醸し出している。






「名は何という。」






 問い返され、は翡翠の瞳を瞬いたが、軽く首を傾げて口を開いた。






「人にものを尋ねる時は自分からじゃなかったのかな。」

「・・・」






 の返しが意外だったのか彼は眼を丸くする。







「そうか。それもそうだな。」







 彼は納得したように頷いたが、自分から名乗るのは嫌なのか、名を名乗らなかった。





「珍しい髪の色だな。」





 彼はまじまじとの顔を見てから、の長い銀色のお下げをひっぱる。

 の髪は色の抜け落ちたような銀色の髪だ。祖国の村でも皆赤い髪をしているのに、一人だけが白銀の髪だった。それは確かに黒髪の人間がほとんどをしめる煌帝国では酷く珍しいことなのだろう。





「北の方の出身だから、だよ。芸妓としてここにいたんだけど、今はジュダルに買われたの。」






 は何の気もなく返した。前にジュダルが、の髪の色を見て北方では珍しくない色だと言っていたのだ。肌が白く、目の色が明るく、金髪や銀髪は北方系に多いらしい。






「それにあの歌も珍しい。トラン語か?」

「わからないよ。いつの間にか覚えていた歌だから。」





 が歌う歌のほとんどは、が幼い頃から知っていた歌だ。育ててくれた両親たちも、村の誰も知らない歌で、それでもはただ覚えていた。育ててくれた両親が知らなかったというその歌は、きっとの実の両親が歌って聞かせたものだったのだろうと今は考えている。

 ある意味で、にとって唯一実の両親との思い出だと言っても良いのかもしれない。






「北というが、おまえ、ヴァイス王国から来たんじゃないのか?」

「おじさんよく知っているんだね。うん。どのあたりかは、国境付近ってことしかわからないよ。」







 商人が来ていたくらいだから、国境近くなのは間違いないが、は詳しく自分の村がどこにあったのかを知らない。ジュダルが調べようとしたようだが、が芸妓として遊郭に売られる前どこにいたかをたどることは現地まで行かねば簡単ではないようだった。

 ジュダルは存外の過去に興味があるようだが、は戻ることの出来ない故郷にあまり興味がなかった。





「ならば、それは北の歌か?トラン語はそんなところにまで残っているものなのだな。」





 男は深々と頷き、嬉しそうに言った。何が嬉しいのかにはよくわからなかったが、どうでも良い。





「おまえは、どうして芸妓なんかになって神官に買われるようなことになったんだ?」






 男は再びに尋ねる。彼は全くそれを違う意図で尋ねていたが、の答えはあっさりしていた。





「多分、わたしがきぞくい?っていうのを持っている上に変だから、かな。」





 確かに夜とぎも命じられているが、実質的に彼がを囲っている原因はその一言に尽きるだろう。には自分で理解できないが、ジュダルにはが特別に見えるのだ。





「おまえ、金属器使いなのか?」






 彼は酷く驚いた顔をした。





「なんで芸妓なんかしていたんだ?ましてや迷宮攻略者ならば。」

「わたし、足が悪いし、あんまり人を攻撃する力は持っていないから。」




 の金属器には他人の治癒は出来ても、基本的に自分に対しては何も出来ない。芸妓として竪琴を奏でる以外、自分で走ることの出来ないには何も出来なかったし、逃げることすらも簡単ではなかった。

 彼はやはり呆然とした面持ちでを値踏みするように見ていたが、大きくため息をつく。





「おまえは、こんなところにいて良いのか?」

「こんなところ?」

「何故力を持っているのに、それを使おうとしない。」





 神官に囲われる必要などないはずだ、と言外に彼は言う。だがにはその意味がよくわからなかった。





「前いたところと違って、ご飯もいっぱい食べられるし、温かいお布団があるし、ちょっとジュダルは意地が悪いし、髪の毛を引っ張ってくるのは痛いけど、魔法を教えてくれるし良い場所だよ。」

「くだらない理由だな。」

「大事なことだよ。お腹がすくことはとてもひもじいことだから。」





 村にいた頃は飢えるようなことはなかったが、遊郭にいた頃は下働きごときのにはなかなかご飯が与えられず、衰弱して死にかけていた時期もある。お腹がすくというのがどれほどに悲しいことなのか、はよく知っている。

 真剣な顔でが言うと、彼は眉を寄せて、それから呆れたような顔をした。





「どちらにしても、おまえが煌帝国の金属器使いであることに変わりはない。」






 彼はの長い銀色の髪をくしゃりと撫でてくる。その手はジュダルのものよりもずっと大きくて、故郷にいる、育ててくれた父親の事を思い出させた。もう帰ることは出来ないけれど、彼もいつもの頭を優しく撫でてくれた。





「もう一度あの歌を聴かせてくれないか、」





 彼はに懇願するように言う。も悪い気がせず、口を開いた。

 紡ぎ出す旋律はいつも歌う独特のものだ。言葉にはならない。だがそれは言葉なのだろう。確かにどこの遠い、誰も知らない国の、世界の言葉。だが優しいそれは子供に向けて親が歌うような独特の、緩やかな旋律を持っている。

 歌い終わるまで、彼は近くの岩に座っていたが、歌が終わると腰を上げ、ぽんぽんと自分の服についた砂を払った。





「もしもおまえに何か困ったことがあれば、言え。一曲ぐらいの手伝いはしよう。」

「おじさん、二曲目だよ。」





 がのんびりと返すと、彼はむっとした顔をした。それで初めては彼が“おじさん”と呼ばれることが不本意だったと気づく。






「・・・おにいさん?」

「そうだ。」








 彼は本を小脇に抱えると、そのままのことを振り返ることもなく去って行った。
















おじさん