目を覚ましてもは寝台から身を起こす気にはなれなかった。

 動かそうとすれば体の節々が痛む。べたつく肌が気持ち悪く、足の間には気持ちが悪い感触が残っている。手首は紐につながれていたため、すれて傷だらけになっていて、血すらもにじんでいた。痕を残されることはこれまでもあったが彼が血やあざが残るほどを痛めつけたのも初めてだった。

 やはり紅玉とともに勝手に出かけたのが響いたらしい。




「うっ、」





 寝返りをうつ気にもならず、呻くと隣で動く気配がした。




「起きたのか?」




 ジュダルは僅かに弾んだ声で問う。彼の方にゆっくり目を向けると、彼は嘲るような酷薄な笑みを浮かべていた。寝台が軋んで、の頭の横に手をつき、の表情を窺うようにのぞき込んでいる。




「・・・」




 怖くてが目をそらすと、手が伸びてきて強く首を掴んだ。





「良いか?二度と勝手なまねはするんじゃねぇ。」





 見下す緋色の瞳は、闇を見るようで、は思わず逃げようと軋む体で下がろうとするが、首を捕まれているその手に力がこもる。





「おまえは俺のものだ。忘れんな。」

「・・・」

「返事は?ここで俺に殺されたいか?」





 ジュダルの目は殺意にまみれて、本気だった。それだけはわかる。の命は彼によって守られ、彼によって奪われてもおかしくない。



 ―――――――――――――だから、貴方は強く生きねばなりません。なんとしても生き抜かねば。




 母と慕った女性はにそう言った。それには頷いたのだ。最後まで、どんなことをしてでも生き抜くことが、彼女たちの望みだったのなら、それを託されたは自分にできる限りそれを果たす義務がある。






「・・・う、うん、わかった、」





 首にかけられた手に圧迫されながら、何とか言葉を絞り出す。ジュダルは酷く冷たい目をしていたが、僅かに安堵が混じる。はそれを見上げて、何故彼がこんなに必死で、悲しい目をしているのだろうと思う。

 マギとはなんなのか、そしてマギだという彼は何なのか。





 ――――――――――――自分を知るのは、自分だけよ。




 玉艶はそう言った。ならば彼は自分のことを知っているのだろうか。はこれほどに自分のことを何も知らないというのに。




 ――――――――――――だめ、よ





 途切れがちの苦しげな声が、思考の片隅に引っかかる何かを探ろうとするの思案を留める。その優しくて、それでいて強さを含んだ声をは知っている。だがどうしても思い出せそうになかった。







「風呂、入るぞ。」








 ジュダルはいつもの調子で投げやりに言って、今度はを抱きかかえる。

 彼の部屋は大浴場が近く、いつでも湯で満たされている。通路が別にあるので誰かに見られることもない。一糸まとわぬ姿であるのは恥ずかしかったが、疲れ切って体を動かす気にもなれないは身を小さくしてされるままになるしかなかった。

 ジュダルは大浴場につくと、すぐにを湯の中に放り込んだ。





「いっ、」





 あちこちに擦り傷があるせいか、お湯がしみて痛い。目尻に涙がたまる。それを濡れた手で拭って、綺麗なお湯を見る。あちこちに擦り傷や鬱血痕があるが、右太ももの内側あたりには、銀の縁取りのされた菱形の翡翠とそれを囲む独特の文様を描いている銀色の欠片があった。

 それは二つの金属器。そこにはそれぞれジンと呼ばれるものが宿っていて、主に力を与えてくれるという。片方の白銀のものはに何の返事もしない。力は宿っているとジュダルは言うが、結局のところが扱えるのは翡翠の方だけだ。といってもそれも完全ではない。

 には魔導士としての力もあるそうで、莫大な魔力を使って魔法を使うという方法もあるらしいが、こちらは基本的な防御魔法と些細な魔法以外才能がないようだった。

 他人の魔力や魔法の増幅は役立つとジュダルは言うが、本人であるにとっては役に立たない。魔力を周囲から得られたところで、には全く利用できないので、の力にはなり得ないようだった。






「これ、嫌だな。」





 普通の人にも、はこれがあると思っていた。だがジュダルにも、誰にも体にこういった金属が埋まっているわけではないらしい。宿す力もまた、誰もが持っているものではなく、特別なものだという。にはあまりそれが良いことであるように思えなかった。






、おまえ白いお化けみたいだぞ。」







 体を洗っていたジュダルが振り返って言う。




「・・・」

「あはは、安っぽいお化けみてぇ!」






 白銀の髪は水に濡れてぺったりしていて、しかもすっぽりとの体を覆うほど長いため、ちゃんと髪をかき上げなければ、確かにお化けみたいかもしれない。

 ジュダルは軽い足取りでやってきて、の髪を引っ張る。






「いった!」

「あ、そういや、」

「わ、ぼががががが」






 突然髪を離され、バランスを崩したはお湯の中に顔面からダイブした。空気が吸えず、パニックになり水の中で意味もなく手をばたつかせる。





「おまえ、とろくせぇなぁ。泳げねぇのかよ。」






 ジュダルは呆れたように言って、もう一度の白銀の長い髪を掴んで自ら引き上げた。





「かっ、けほっ、いたたたたた、」

「鈍くせっ、」





 今度はが手をちゃんと水の中についたのを確認して、ジュダルは白銀の髪から手を離した。がのみ込んでしまった湯をあらかたはき出してから顔を上げると、ジュダルが楽しそうにを見つめていた。

 王の選定者なんて崇高なことを言っても、彼はにとってはただのいじめっ子のような存在だ。寒村にいた時歩けないを馬鹿にして、トカゲなどをけしかけてきた子供がいたが、まさにあぁいった感じだ。今となってはその子供を怒ってくれた育ての親たちもいない。

 偉い人というのはそれなりに何かあると思っていたにとって、彼はどこまでも普通の人間だ。もちろん彼に買われたという事実に変わりはないのだが。






「鼻が痛い・・・」





 先ほど鼻にまで水が入っていたのか、鼻の奥が酷く痛む。

 が困り顔で鼻をさすっていると、ばしゃりと顔にお湯をかけられた。顔を上げれば、目の前のジュダルがにんまりと笑っていた。どうやら彼が手で波を作ったらしい。

 はぐっと唇を引き結んだが、ジュダルになんて言ったら良いのかわからず、一応睨むだけ彼を睨む。





「何か言いたいことあんのかよ。」

「・・・ないかな。」






 唇をとがらせて言うと、彼はそのの顔がおもしろかったのか、腹を抱えて笑った。

 穏やかに身を浸していれば、お湯は気持ちが良い。村の方では豊かな方だったので、よくお風呂に入っていたが、奴隷や遊郭の下働きではそういったことは出来なかった。とはいえ、もちろんこんな大きなお風呂に入ったことはなかったが。

 たまに色の違うお湯が入っていることもあり、の楽しみの一つでもあった。

 浮かんでいる花をつついて遊んでいると、ジュダルがよってきて、水の中にあるの太ももに触れる。大きな手が肌を這う感触が苦手で、だが拒むわけにもいかず目をきつく閉じると、突然ぺちっと頬を叩かれた。





「目ぇ閉じてんじゃねぇよ。こっち見ろよ。」





 ジュダルが怪しく笑う。

 湯に濡れているせいか艶やかな緋色の瞳にぞくりとする不思議な高揚感を味わい、は自分がよくわからなくなる。

 マギとは何だろう、彼はなんだろう、そして自分は。

 疑問に思ったことのどの答えもまだにはわからないものだったが、はまだそれの答えを探そうとはしていなかった。



鞭と飴