与えられた祝福が体の中からを呼ぶ。



 ――――――――――――――愛しい愛しい、ソロモンの娘、智慧の娘よ




 誰の声だったか、は覚えていない。でも柔らかな温もりに包まれていたことだけは覚えている。繋がれた命が誰の者だったのか、誰のためだったのか、にはよくわからない。ただたくさんの愛情によって支えられていたことだけは覚えている。




 ――――――――――――――俺は、おまえに、




 何も背負わせたくないんだ、と苦しげに呟くその人は、誰だったのだろうか。低い声は悲しげで、は胸を締め付けられるような心地がした。

 与えられなかったものも、与えられたものも、どちらもきっと愛情だった。

 光に満ちたすべての景色が、徐々に黒く染まり、ふわりと黒い鳥が羽ばたいて視界をふさいでいく。翻る銀色の長い髪と、青い瞳。緋色に濡れた大理石の床と、青みがかった髪をした少年の悲鳴。心が悲しみと憎しみに染まっていく。



 ――――――――――――だめ、よ、






 高く、優しい声音とともに、世界をまた光が満たしていく。

 大きな祝福と、空っぽの器。犠牲に犠牲を重ね、黒に白を重ねて、は歪なそれを知ってはならないとどこかで、覚えていた。




 ――――――――――――その時はおまえが俺のマギになってくれ




 その願いを叶えてはならない。知ってはならない。は“人間”であらなければならないのだ。多くの犠牲を払い、他人に運命を押しつけて、守られ、幸せに生かされてきたの傲慢の代償。それはが作り出した物ではないが、背負ったものに違いはないのだから。





「おい、起きろよ。」





 ジュダルに肩を乱暴に揺すられ、はゆっくりと瞼を開けた。

 こすった目に入ってくるのは驚くほどすがすがしい、日の光だ。もう日は高いらしく、目を焼く太陽の光はまぶしい。どうやらは布団に完全に潜り込んで眠っていたらしい。





「ぅー、もう少し寝たいよ。」

「あぁ?もう11時だぜ。」

「いつもは寝てるのに、」

「なんか言ったか?」






 不機嫌そうに聞き返されて、は一応首を横に振って身を起こした。体の節々が軋むように痛んだが、気づかないふりをする。

 すぐに女官がやってきて、とジュダルの間に衝立を作ってを着替えさせた。ジュダルと対をなすような白い服に、鮮やかな翡翠色の帯。金の耳飾りや服は基本的にジュダルの趣味だが、それに何か言う気もにはない。

 女官は鏡での姿を一度確認すると、頭を下げて出て行った。





「飯、食うぞ。」






 ジュダルは待ちくたびれたとでも言いたげな表情で、に小さなスモモを投げつける。はそれを顔面で受け止めることになったが、女官が用意してくれた食事の方が魅力的で、何も言わずにジュダルに手を伸ばした。

 ジュダルは椅子から立ち上がり、を抱き上げて食事の席に座らせてくれた。

 足の悪いはまだ浮遊魔法がうまくないため、武官か誰かに運んでもらわなければならない。だがそう言った移動に関して日頃いじめてくるジュダルが嫌がったり、面倒くさがったりすることはなく、自然にに手を貸してくれていた。

 そういうところが、が何をされても根本的にジュダルに不満を持てない理由なのかもしれない。





「どうして煌帝国の人はパンを食べないのかな。」





 は並べられた朝食を見て小さく首を傾げる。

 煌帝国での主食は米だが、が住んでいた北方では小麦で練られたパンが主食だった。そのためはあまり箸の使い方がうまくはなかった。遊郭ではさじで食べるようなかゆばかりだったため、なおさらだ。

 宮廷にいるようになっても、やはりは箸の使い方がうまくなく、苦慮していた。





「市場とかには売ってるぜ。」

「いちば?」





 は首を傾げる。





「なんだよおまえ、市場を知らねぇのか?」







 ジュダルは馬鹿にしたように笑って、箸をくるりと回した。






「なにそれ?」






 の村では基本的に物は自給自足で、たまに商人が物を売りに来るくらいだった。遊郭にいた頃は、基本的に外出は禁止。宮廷に来て芸妓になってからも食事は宮廷から支給されていたので、市場など見たことも聞いたこともない。






「あっちこっちから食い物とか、物が集まる場所さ。」

「ふぅん。おいしい?」

「・・・おまえ、本当にそればっかりだよな。他のことに興味ねぇのかよ。」





 ジュダルは心底呆れたようにを見る。

 基本的には食事以外にあまり興味がない。マギには興味を示すが、それ以外のことは右から左。何も聞いていない。ただ唯一食事に関しては大食漢なだけあって熱心に聞く。





「うん。おいしいしものすきだよ。」

「おまえ本当に残念な奴だよな。」






 楚々とした容姿に綺麗な声。竪琴の腕。ジュダルが囲わなかったとしても、将来的には宮廷で芸妓をやっていれば貴族の子弟が彼女を愛人か妾に引っ張り込んだだろう事が予想できる程度に、は可愛い容姿をしている。

 だが、中身は従順と言えば聞こえはいいが結構バカで、大食漢だ。どんなふうに自由に育てたらこんな人の話を全く聞かない、食事だけに興味がある女ができあがるのか、彼女の育ての親に本当に聞きたい物だとジュダルは常々思っていた。





「そこにはチーズとかパンもあるかな?」

「あったと思うぜ。最近何でも手に入るからな。」





 煌帝国では貿易も盛んだ。当然首都の市場には様々な物品が世界中から集められているので、チーズや北方の珍しい食べ物もあるだろう。





「ふぅん。いろいろなところがあるんだね。」





 は少しだけ興味をそそられたのか、そう笑って、茶碗の中身を箸でかき集めようとするが、全くうまくいっていなかった。





「後で行くか?」

「え?市場?」

「あぁ、どうせ毎日やってるし、暇だしな。」





 ジュダルには別段することもない。神官など形ばかりで、決まった仕事は全くないのだから、戦争がなければジュダルにすることはない。組織の連中も用事がなければジュダルに干渉しないので、今のところ暇そのものだった。

 をつれて市場に出かけるくらい問題はない。





「うーん、でも、わたし歩けないから困ると思うよ。」







 は手をひらひらさせてジュダルの案を否定した。

 彼女は足が悪く自分で歩くことが出来ない。市場に行こうにも武官の手を煩わせることになるか、絨毯を使うかになる。流石に人のたくさんいる場所で魔法を使えば、大騒ぎになるだろう。普通の人間たちは魔法を使うと言うことが、どういうことなのかしらないのだ。





「良いじゃん。おまえ軽いし、俺が途中から負ぶっていけば変わらないって。」




 まさか煌帝国の神官として市場に行くわけではない。お忍びなのだから、誰も二人を気にしないだろう。は軽いし小柄だし、マントを被っていくから、ジュダルが彼女を背負っていたとしてもそれほど目立たないだろう。





「荷物みてぇなもんさ。どうせそういうの背負ってる奴らもたくさんいるし。」

「わたしは荷物?」

「完全にお荷物だろ。」






 ジュダルが笑ってやると、は少し不満そうな顔をしたが、小さく頷いて、行ってみたいと小さく呟いた。





「んじゃ、決まりだな。」





 今日やることも決まった。食事が終われば外に出ると思えば、気分も自然と上がる。だがが食事を終えるまではもう少し時間がかかりそうだった。





市場と予感