黒い液体が死をもたらすものだとにもわかっていた。

 戦いなんて嫌いだ。誰かに攻撃されるのは自分が思っていた以上に怖くて、すぐに逃げ出したかった。だが、が絨毯で逃げ出さなかったのは、地面に足をつき、逃げることも出来ず、ただ蹂躙されるためにいる怯えた兵士たちだった。

 ジュダルは絶対に兵士を庇わない。白瑛は根本的に兵士たちを理解していない。ならばここで魔導士や金属器使いの前で戦うべきなのは、彼らが怯えていることを理解し、話を聞き、一緒に過ごしただった。


 逃げることは出来るかもしれないが、どうせが逃げたとしても、捕まるかもしれない。



 それに兵士たちはどうせ戦っても殺されてしまうだろう。でも、マギであるジュダルにも認められるほどの魔力と金属器を持つはもしかしたら、兵士を助けられるかもしれない。どうせ逃げても捕まって殺されるかもしれないなら、ここで兵士を助けて死んでも一緒だと思った。

 だが、黒い液体が落ちてくるのに、はどんな抵抗の手段もなかった。

 あれだけ高濃度の魔力と魔法をまとっていれば、魔法防壁など簡単に破壊されてしまうだろう。兵どころか自分の身すらも守れない。




 ――――――――――――責任を持てねぇなら、首だけ突っ込むのは偽善だろ?




 ジュダルは言った。生半可に手を貸すのは、無責任だと。


 確かに兵士たちの病を治して助けた。でも結局こうやって、魔導士との戦いに巻き込み、殺したのならば、が助けた意味などない。まさに偽善だ。僅かに命を延ばしたに過ぎない。


 には出来ることが少ない。






 ――――――――――――が、がもっともっと







 強かったら、良かったのに。

 それはずっと、魂の奥に刻まれていた悲しみと、願い。遠い日に強く強く願い、叶わなかった。それを、繰り返し心に描いて、情けなさに目尻に勝手に涙がたまる。




 ――――――――――――様、お会いしとうございました。




 自分は何も出来なかった。何も出来ないんだよ。でも、諦めたくない。まだ今は、諦めたくない。

 重たいぼたぼたという音が響いて地面とあたりに漆黒の液体が落ちてくる。兵士たちの悲鳴が聞こえる。地面に絨毯ごと着地して、は自分の頭を庇うようにした。それは多分、生存本能のようなものだっただろう。

 だが、ふわりと目の前を金色の鳥たちが舞い、突然の周囲を八芒星の命令式が浮かび上がる。周りのルフが急速に収束し、前髪に隠れていた額に縦向きの目が現れ、日頃はまったく反応しない、の白銀の金属器が輝いた。

 光の促されるようにして、は目をきつく閉じる。衝撃はいつまでも来ず、代わりに顔を上げると、ばしゃっとと兵士たちの周りに、黒い液体の代わりに銀色の水のようなものが落ちてくる。





「あ、れ?」





 はおずおずと目線を上げて、自分の上を見る。




「あ、あれ?え?」





 すでに自分の上には漆黒の液体はなく、空が見えていた。上空にはぽかんとした表情をしている白瑛とジュダルがいる。老齢の魔導士も呆然としたような面持ちでこちらを見ていた。おそらく、自身も同じような表情をしていただろう。

 銀色の液体に満たされたたちから少し離れた漆黒の液体の上に、胸を氷に貫かれた男がたちの周りにあった黒い液体の中にばちゃっと音を立てて落ちる。彼がこの技を放った張本人だろう。だが、次の瞬間彼の体は漆黒に変色して言っていた。




「ぎゃあっ!!」




 から少し離れたところにいた兵士たちが、悲鳴を上げる。

 の周囲の漆黒の液体を防ぎきったのはどうやら、この白銀の液体らしい。だがすぐにそれは溶けるようにしてあたりの空気に消えていった。だが少なくともそれが球体となりと兵士たちを黒い水から守ったのだ。

 しかし、の傍にいなかった兵士たちが漆黒の液体に触れ、肌の色が徐々に変色していく。それは酷い苦痛を伴うのか、叫び声があちこちから上がる。




「大丈夫か・・・うわぁ!!!」




 黒い液体に覆われてしまった兵を助けようと彼に触れた兵もまた、黒い液体に覆われる。触ればそれだけで、伝染するのだ。




「え、そんなっ、」 




 は絨毯に命じて彼らの元に行こうとするが、黒い液体に触れた絨毯は壊れたのか、の命令に従おうとしない。足の悪いはここから動くこともできなかった。




「ちっ、失敗したか。」




 上空にいた老齢の魔導士と、若い魔導士の姿が消える。だがはそのことにも気づかないくらい慌てていた。

 早く兵士たちを助けてあげなければならない。でないと彼らは死んでしまう。




「た、たすけ、」




 一人の兵士が黒に染まりつつある手をに伸ばす。は体を伸ばして必死でその手に触れようとしたが、の手を掴んだのはジュダルだった。




「やめとけ、おまえも死ぬぞ。」




 いつの間にか空から下りてきていた彼は兵士たちを見下ろす。

 漆黒の液体を浴びた兵士たちは次々に苦しみ、悶える。じわじわと他人を蝕み、死に至らせる液体なのだ。あたりにいたたくさんの兵士すべてが倒れ伏し、触れればうつるため介抱されることもなく、遠巻きにされている。




「複雑な命令式だ。こんなの、本人にもとけねぇよ。」




 ジュダルの目はすでに命令式がどの程度のものなのか、見抜いていた。その上で、をその緋色の瞳で見下ろす。




「おまえ、あの白金の金属器を使ったのか?」




 ジュダルはの体に黒く染まっている場所がないことを確認して、不思議そうに問う。

 は金属器の力によって完全に極大魔法を防ぎきった。無事だったのはの傍にいた他の兵士たちも同じだ。彼らもまた呆然とした面持ちで、ただの傍にいて助かった自分と、漆黒に染まって苦しむ兵士たちを見ていた。




「な、なんで、こ、こんなことになってるの?みんな黒く・・・」

「・・・極大魔法の効果だ。」





 ジュダルは何の感慨もなく、あっさりと言った。はその答えから、どうしようもないのだと知る。

 そういえば金属器使いの話をした時に、彼は確かに金属器使いが極大魔法という強力な魔法を使うと言っていた。それは魔法防壁でも到底防げないため、それを使わせないようにしろと。だが極大魔法を使わせなくするほどの実力が、にはなかった。




「た、助けて、たすけて、」




 黒く染まった兵士が、に手を伸ばしてくる。

 に出来ることは少ない。歩くことも出来ない。ジュダルのようにマギとして莫大な魔力とともに魔法を操ることも、迷宮攻略者として金属器を完全に操ることも出来ない。でも、には出来ることがないわけじゃない。


 ふわりと頭の中に声が響く。それは忘れていた、酷く懐かしい声だった。





 ―――――――――――――――我が王よ、誰でもない、貴方に従います





 低く響く、遠く、本当に遠く、実際に聞いた、遠い日の記憶。包まれるほどの柔らかな温もりと、満たされるような優しい祝福。遠い日、多くの人々が人生をかけて、きっと運命に精一杯抗って、だからが人としてここにある。

 金色の鳥がの周囲に集まる。





「わたしは、」




 はマギではない。だから周囲から魔力を取り込むことが出来たとしても、王を選ぶことは出来ない。迷宮を作ることも破壊することも出来ない。出来ないことは山のように積み上がって、を蝕む。

 でも、出来ないことばかりじゃない。

 はその与えられた翡翠の瞳をゆっくりと開く。そこに映るのはルフだけではない。漆黒の液体の複雑な命令式そのものだ。




「見つけた、」




 は自分の翡翠の金属器に命じてその命令式を写し取り、反転させて解法をはじき出す。

 金属器がの魔力を遠慮なく吸い込んでいく。それは自身の魔力であり、急速に命すらも失っていくような心地がして、目眩がしたが、それでも何とか踏ん張る。

 倒れ伏している兵士は約30人と言ったところだ。

 大きな命令式を描かなければならないため、使う魔力は莫大だ。大抵解法の方が極大魔法よりも下手をすれば魔力が必要になる。それでも、これしか兵士たちを助ける方法はない。




「やめろ!」




 ジュダルがそう言っての手を握るが、はその手を振り払った。




「おうちに、帰ろう、」




 は必死で助けてほしくて伸ばされている、黒く染まった兵の手に両手を重ねる。

 自分を育ててくれた人たちのところに、はもう帰ることは出来ない。きっと魂に刻まれたあの場所にも帰ることは出来ない。会いたい人々はそこにはいない。でも彼らは生きている限り、愛しい人たちの元に生きて帰ることが出来る。

 彼は黒い液体に侵食されてもう声も出ないほどに衰弱していたが、それでもの手を弱々しく握り返してきた。誰もが生きたいと、生きて大切な人の元に帰りたいと思っているのだ。その小さな手伝いを、は出来るかもしれない。


 兵士たちの周囲を解法の命令式が囲む。


 兵士たちの体から黒い液体が一瞬で消えていき、呻いていた人々が体を撫でながら立ち上がる。周囲から、そして本人たちから歓声が上がる代わりに自分の体からたくさんのものが抜け落ちる気がして、は目を閉じた。


行軍と白銀