目の前にいつの間にか男の人がいた。

 漆黒の長い髪を細い三つ編みにした男が地べたに座り込んでいるの頭をぽんと撫でて、にっと人なつっこい明るい笑いを浮かべている。




「だぁれ?」




 は彼を見上げた。彼は澄んだ翡翠の瞳をしている。年の頃はだいたい20代後半くらいで、白い服を着ていた。

 彼はの疑問に翡翠の瞳を瞬いたが、むっとした顔をしてぺちっとの額を叩いた。




「え、え?」





 叩かれた意味がわからず、額を押さえて彼を見上げる。




「あー仕方ねぇよなー。」




 彼は少し悲しそうに目尻を下げて、でもの事情も納得しているのか腕を組んで頷き、を優しい目で見た。




「俺はおまえの父ちゃんだよ。」

「え、お父さん?」





 は意味がわからず、首を傾げた。





「なぁんだよ。反応薄いな。」

「…だ、だって、わたし、」





 育ての親を本当の親だと思って生きてきた。赤い髪の、とても力の強い人たち。幼い頃から彼らを両親だと思って育ってきたし、違うと言うことを知ったのも、本当に商人に売られるほんの少し前のことだ。だから実の両親のことは何も知らない。





 ――――――――――――貴方の父君もマギでした





 両親だと思っていた人たちから、父親がマギだと言うことだけは聞いていた。だからはいつかマギを探していれば父親に会えるかなと思っていたが、が出会ったマギは父ではなく、ジュダルだった。

 自分の父親と言うことは、彼がマギなのだろうか。でもジュダルもマギだ。

 よくわからず戸惑いばかりに心が満たされ、呆然としていると、彼はにっこりと笑って、の長い髪を撫でた。






「そっかぁ、おまえ、マフシードにそっくり、よく似たなぁ。顔もそっくりだ。」






 なにやら彼はの容姿をまじまじと眺めてから、嬉しそうに笑う。

 目の前の彼とが似ているところはあまりない。彼は背も高いが、はまだ成長期が来ていないのか背も高くないし、華奢だ。けれどその大きくて人なつっこい翡翠色の瞳だけは、自分とよく似ている気がした。

 ただの彼に似ていない容姿は少なくとも彼の“期待通り”だったのだろう。






「お父さん?」

「ん?」





 が呼ぶと、彼はとても、とても幸せそうに目を細める。泣きそうなその笑顔に、は手を伸ばした。





「おとうさん、」






 抱きつくと、温かい。迎えに来てくれなくたって、彼がマギだったとしても、どうでも良い。目の前に自分の父親がいることが嬉しくて嬉しくて、涙が出そうだった。彼も嬉しそうに受け止めて、を抱きしめてくれる。

 柔らかで力強いその腕に、遠い日の既視感を覚える。きっとが彼に抱かれたのは本当に幼いときだろうから、記憶にあるはずがない。でもその感触を何故かはよく知っていた。

 同時に温かさは、育ててくれた自分の両親を思い出させる。

 もう帰ることが出来ない故郷。会うことの出来ない人たち。それを思い出せば、の目尻に勝手に涙が浮かぶ。





「ほらほら、泣くんじゃねぇよ。」




 彼は少しから体を離すと、そっとの目尻にたまった涙を拭う。





「寂しかったんだよ、村は出ないといけないし。」





 今までいた村を出て、育ててくれていた両親から離れてから、ジュダルに拾われるまで、たった数ヶ月の間だったが、寂しかったし、辛いこともたくさんあった。生きろと言われたから、必死で駆け抜けてきたが、辛くなかったわけではない。

 ぽつぽつとジュダルに拾われるまでのことを訴えると、彼は優しい目をしながらもうんうんと聞いてくれた。

 金色の鳥があたりを舞っている。それが自分を守ってくれる、何を言っても許される気がして、は今まであったこと、育ててくれた両親が自分を商人に売り、もう戻ってきてはいけないと言われたことも、ジュダルに買われたことも、全部を話した。





「そっか。今は不満はないんだな。」
「でもジュダルは頭を叩くし、髪の毛を引っ張るし、痛いかな。」

「そっかぁ、俺も同じ事をマフシードに言われたなぁ。」




 懐かしそうに目を細めて、彼は屈託なく笑う。




「でも、魔法上手じゃないからって、ばかばか言うんだよ。」




 は頬を膨らませて言った。だが、父にはこの自分が嫌がっている気持ちは理解できなかったらしい。むしろジュダルの方に共感しているようで、むっとして眉を寄せる。






「すぐに魔法もうまくなるさ。これからは。」






 軽くふにっとの頬をひねって、彼は笑う。




「どうして?」

「俺が起きたからだ。」

「起きた?」

「そうさ。でも、俺はおまえを普通の人間にしてやりたかったのになぁ。」




 寂しそうに、語尾が消えていく。それがあまりに悲しげで、は首を横に振った。




「そんなこと、ないよ。もっともっと力があれば、兵士さん守ってあげられるのに。」




 兵士たちだって、あんな苦しい思いをさせずに守ってやれただろう。ジュダルに魔法防壁で庇ってもらう必要もなかったと思う。もっと簡単に魔導士たちを追い返せただろうし、苦しむ兵士や苦しんでいる人たちをもっと助けてやれただろう。

 には出来ることが少なすぎて、何になりたいか、みたいな夢を持つことが出来ず、出来ることしか見つめることが出来ない。




「そっか。俺は力が有り余ってたから、よくわからなかったな。」





 彼はの頭をまた大きな手で撫でて、長い銀色の髪に愛しそうに手を絡める。




「マフシードも死んじゃったんだな。」

「マフシード?」

「おまえの母ちゃんさ。ファナリスの奴らが、おまえの家族になってくれたんだな。あいつらとは喧嘩ばっかりしたけど、感謝しねぇと。」




 は優しい両親に育てられた。血がつながっていなかろうが愛された経験は、を常に支え続けている。彼がそのことに敬意を示してくれたことは、何も知らない父親をが心から認める大きな理由になった。

 例え血がつながっていないとしても、実の父親が傍にいても、彼らが育ててくれた大切なの親であると言うことに変わりはないから。




「ファナリスたちがなんて言っていたのかわかんねぇけど、自分の父親がマギであると言うことは言うなよ。それはおまえを危険にさらす。」

「・・・どうして?」

「狙われることがあるからだ。」






 マギが大きな力を持つ存在であることはジュダルを見ていればわかる。彼が煌帝国で高い地位を得ているのは彼がマギだからだろう。きっとその名前は、が考えるよりもずっと大きくて、力のあるものなのだ。

 一通り今までにあったことを話せば、いつの間にかすごく時間がたっているような気がした。でも、彼は笑っているし、自分を囲んでいる金色の鳥たちも別に変わらない。自分の周りは温かな光だけに満ちていて、彼と自分以外何もいない。


 そういえば何時なのだろう。自分はどうしてここにいるのだろう。


 ここには太陽もないし、景色らしきものもない。不思議になって辺りを見回すと、ぽんっと彼がの頭の上に手を置いた。






「もう、戻らないとな。そのマギのとこに。」




 は声に促されるように顔を上げて、少し考える。

 そうだ、は戻らなくてはならない。早く帰らないとジュダルが怒ってまた髪の毛を引っ張ってくるかもしれない。それに、あまりここに長い間いてはいけない気がした。でも、はもう少し父親と話したかったので、首を横に振る。




「もうちょっと、お話をしたいよ」

「おまえを、待ってるんじゃないか。」



 彼はここにいたがるをなだめるように言った。




「…ジュダル?また、髪の毛ひっぱられるかな。」

「な?」




 はわがままを諫められている気がして、渋々頷く。



「良い子だ。」




 彼はを最後に強く抱きしめた。



「せっかく会えたのに、」

「大丈夫だ、これからはいつでもここで会える。な。」




 金色の鳥がの体を包み込む。そして額にそっと口づけられた。それは幼い頃に与えられたのと同じ、




「またな。」





 温かい、それは確かに母親の胎内で揺られていた頃に聞いた低い声だ。自分に祝福と智慧を与えた、優しい声だ。

 はルフに導かれるがまま目を閉じた。







幻想の夢と現実