ジュダルとが呼び出しを受けて皇太子である練紅炎に会いに行ったのは、が襲われた三日ほど後のことだった。
「あっれーじゃーん!」
紅覇が明るい口調でを迎え、絨毯に乗っているに抱きつく。その拍子に紅覇と一緒に絨毯から落ちたは床に落っこちたが、柔らかい毛皮の敷き詰められた床は何とかに痛みを与えずを支えてくれた。
「ほんとーにってぇ、細いよねぇ!」
紅覇は笑いながらごろごろとすり寄る。
「いい加減にしろよ。」
ジュダルは無理矢理紅覇を引きはがし、を抱き上げる。は自分の体を支えるようにジュダルの肩に掴まったが、ふと視界をかすめた人物に目をぱちくりさせた。
「・・・あ!」
部屋の中央に座っている男に、見覚えがあった。
「おまえ、紅炎のこと知ってんの?」
ジュダルはを横抱きにしたまま驚く。
を宮廷に出した事はほとんどない。皇族で知っているのは白瑛と紅玉、そして皇后の玉艶など女だけだ。紅炎に会わせた記憶はない。
「部屋の窓のところにいたおじさんだよ」
が窓辺で歌っている時に邪魔をしてきたおじさんだ。変な三角形の髭が印象的だったので間違いない。そういえば名前を聞いていなかった。
「無礼なガキだな。」
おじさんと言われたのが心底嫌だったのだろう。紅炎は眉間に皺を寄せて、不機嫌そうに低い声で言った。だがはそれに気づかない。ジュダルは少し腕を組んで考え、口を開く。
「あはははは、確かに、そのだっせえ服装、髭、ついでに頑固そうな顔。おやじだよな。」
ジュダルは何の遠慮もなく笑い飛ばす。
ましてや10代半ばのジュダルとにとってみれば、20代半ばの老け顔の男はおじさん以外の何物でもない。じじいと呼ばないだけましだ。紅炎の表情が殺意に満ちて、隣に控えている紅明が真っ青な顔をしていたが、ジュダルの恐れるところではない。
そしても存外鈍いのか、平気そうな顔をして近くに置いてあったお菓子を貪った。
「まぁ良い、座れ。」
紅炎は気を取り直すように息を吐き、とジュダルに席を勧める。ジュダルはを横抱きにしていたためカウチに下ろし、その隣に座った。
「まず、尋問の結果だが、」
紅炎が先に口を開き、報告を求めるように紅明を見る。
「はい。とらえた魔導士のフィルーズが言うには、彼のご両親、要するに様の叔父上方ということになりますが、ヴァイス王国の国王に人質に取られ、彼が様を殺さなければ、ご家族を殺すと言われたそうです。」
紅明は何とも言えない表情で報告を口にした。要するに彼は理由があってを殺しに来たということだ。
「なんで、そんなことになってんだよ。」
ジュダルは拍子抜けして頭をかく。がヴァイス王国の国王に狙われていると言われても、正直日頃の間抜け面を目の当たりにしているジュダルとしては全くぴんとこない。
だが、紅炎がそんなジュダルにため息をつく。
「おまえ、ヴァイス王国の主席魔導士だったマフシード・スールマーズを直接見たことがあるか?」
「あるわけねぇじゃん。会ったとしても、覚えてるかよ。」
マフシードが死んだと言われているのは10年ほど前であり、ジュダルはまだ4,5歳。仮に会っていたとしても記憶なんて残っているはずがない。
「俺は見たことがある。」
「私もです。」
紅炎と紅明はまじまじとを見る。は小首を傾げたが、その拍子にさらりと白銀の三つ編みが肩から滑り落ちた。
「あまりにそっくりだから、初めて会った時から、そういうことで宮廷に身を寄せてきたのかと思っていた。」
目の色は確かに違うが、はマフシードかと言うほどに、そっくりだった。
もちろん辺境の国の主席魔導士を知っている人間は少ない。ましてや煌帝国が大国になる随分と前の話だ。女官や知らない武官などはをただのジュダルのお気に入りだと思っていただろうが、マフシードを知っている人間は政変のことも知っており、政治的な理由から政治的に力を持たない巫女などに引き入れられたのかと思っていた。
「皇后陛下も、ご存じのようでして、直接下命をいただきました。」
紅明は口元を袖で隠しながら言う。
確かに玉艶は元々を気にかけており、一度のジンが玉艶を襲った後も、お茶に呼んだり、贈り物が来たりと不安定なの後ろ盾になっていた。それ故に女官たちも迂闊にに手を出すことが出来ないのだ。
しかもの処遇について直接下命を皇太子である紅炎にするとは、前例がない。
「どんな下命だよ。」
ジュダルは聞いていない話に、眉を寄せる。
「あぁ、一つはこのチビを保護し、すべての生活、自由意志をつつがなく保障すること。」
紅炎は言葉を切り、を見た。
「もう一つはこのチビの主席魔導士としての権限と地位を確保すること。」
「ん?」
は訳がわからないのか、菓子の次に手を出していたリンゴを食べる手を止めて、首を傾げる。
根本的に彼女にとって紅炎や紅明の話は難しく、興味もないのだろう。記憶もないようだから、なおさら実感もない。だからこそ、彼女の代わりにジュダルの方が口を開く。
「仮にがマフシードの娘だったとしても、そりゃちょっとこじつけすぎなんじゃねーの?」
主席魔導士の地位は確か、世襲ではないはずだ。仮にがマフシードの娘だったとしても、そのこじつけは少し厳しい気がする。しかし、紅明は首を横に振って話を続けた。
「ヴァイス王国の主席魔導士は終身で、主席魔導士は賢者によって指名されるそうです。」
その特殊な主席魔導士の選出方法は、を殺しに来てジュダルに返り討ちに遭った魔導士から聞き出したものだ。
ヴァイス王国において主席魔導士は国家の人間が決めるのではない。国王や前の主席魔導士ですらも次世代を定めることは出来ない。賢者―マギが決めるのだ。時のどのマギでも構わない。利害関係の少ないマギに頼んで、次の主席魔導士を定めるのだ。
「そして、マフシードの次の主席魔導士として定められていたのが、彼女の一人娘だったそうです。」
「賢者って、マギだろ?どいつが決めたんだよ。」
「シェヘラザードです。」
レーム帝国のマギだ。レーム帝国とヴァイス王国は直接国境を接していない。だからこそ、ヴァイス王国は主席魔導士の選定を直接的な利害関係がないシェヘラザードに頼んだのだろう。
「シェヘラザードは言ったそうです。」
それは幼子にその行く末の提示とともに与えられた予言。
――――――運命が守れば汝が子は繁栄をもたらす、運命を拒めば子は滅びを連れてくる
本来なら生まれながらにヴァイス王国の司法を司ることを運命づけられた子供。その運命を拒んだのは誰だったのか、誰も知らない。だがは国境近くの村で血のつながらぬ親に育てられ、司法を司ることはおろか、表舞台に出ることもなかった。
運命は誰かによって拒まれたのだ。
「ま、予言自体は眉唾だが、ヴァイス王国の国王派はどうやら、主席魔導士としての権限のあるを殺したいと願っているらしい。」
紅炎はカウチに座っているを見やる。
彼女は同年代のジュダルより遙かに小柄で、歩けないせいか足も細い。白い服を着ている上、元々色が白く、銀色の髪をしている彼女はなおさら頼りない。どんな力を持っているのか紅炎にはわからないが、どう見ても国政に関わるような教育は受けてきていないだろう。
紅炎は宮廷にいる時に一度を見かけているが、ただ愛情ある両親に育てられた、歌の好きな少女だ。その評価は未だに変わっていない。
だが、彼女はその身に主席魔導士としての権限を宿された存在なのだ。元来ヴァイス王国では政治を国王が、立法を議会が、司法を主席魔導士が担っていたはずだ。その一つの権利を、は生まれながらに未だに保持している。
その意味は、にとって大きくなかろうと、ヴァイス王国にとっては、また専制政治を望んでいる国王にとっては大きいし、邪魔なのだ。そして、同時に、煌帝国にとっても意味がある。
「わたし、ヴァイス王国に行かない方が良いね。」
はリンゴを貪るのをやめて、翡翠の瞳を紅炎に向けた。
「は?」
紅炎はの答えに目をむく。それは紅明やジュダル、紅覇も同じで、言っている意味が一瞬理解できなかった。
「だって、予言が怖いなら、王様にわたしはヴァイス王国に入らないよって言えば良いよ。」
「しかし、それで国王が納得するとは思えませんし、あちらに行って権限を行使するのが一番、」
紅明たちとしても直接を掲げて乗り込むのが一番簡単なやり方だと考えている。だが、はその気が全くないらしい。権力を欲してもいない。したいこともないから、争いに巻き込まれないのならば何でも良いのだろう。
「難しいことはわからないよ。別に何でも良いし。」
は目尻を下げて、あっけらかんと言う。
興味のなさを、隠そうともしない。彼女のあからさまな態度に、常に責任を理解してきた紅炎は、心底軽蔑の眼差しを向けた。
教育を受けていないとか、いるとか、そういう問題ではない。
それなりに金属器を持っている人間は王としての理想や特別なものがある。だが、この少女が何故“王”としての力を持っているのか、紅炎は認めることが出来ない。従者もいない、命を捧げるほどこの少女を慕う人間もいない。
なのに、王としての資格を持つ。この矛盾が何を指し示すのか、どちらにしても現状彼女の存在と態度は、責任逃れのようで不快だった。
「わたしはジュダルの傍にいれたらそれで良いかな。」
の理想はあまりにも小さい。そして同時に彼女が知る世界もあまりに小さい。
育ての親たちは、二度と帰ってきてはいけないと言っていた。だからその約束は守らなければならない。行くところもないし今が快適なのでそれを手放すのも出来れば避けたい。ジュダルの傍は居心地が良いのだ。
それ以外は、どうでも良い。
「ですが、実質的に貴方が本物かどうかの証明をするには、行くのが一番・・・」
紅明は僅かに眉を寄せてを説得しようとしたが、紅炎はの意思表示に口を開いた。
「どちらにしろまだわからん。その話は後だ。」
皇后である玉艶の命令は二つ、の身の安全の保証と、ヴァイス王国の征服との主席魔導士としての地位の確保だ。そのためにヴァイス王国に乗り込んでいくのは確かに簡単な方法だが、を殺されるかも知れないと言う危険も伴う。早急の決定はするべきではない。
だががあまりに煌帝国国内でも狙われるようならば、考えていかねばならないし、ヴァイス王国側も必ずしも一つではない。ヴァイス王国との折衝を重ねた上で、もつれて軍を率いるべきか、置いていくべきかを判断すべきだ。
どのみち交渉をするのは本人ではない。座っている必要はあるかもしれないが、ではどうにもならないだろう。
それにを単独で帰らせるわけには、煌帝国側もいかないのだから、結局の所こちらである程度の調査が必要だし、相手の出方を見る必要もある。むしろが何も言わないのならば、紅炎たちとしてはありがたいところだ。
紅炎はひとまず、権力欲も、自分のことに対しても興味がない少女の問題を、自分の手元に置ければそれで良かった
「交渉に関しては誰に任せる?」
「え、ど、どうしよう。」
はそんなことは何も考えていなかったので慌てて隣に座っているジュダルを見る。に政治的なことなどわかるはずもない。
「じゃ、ま、俺と紅炎が適当に話し合って決めんぞ。」
「うん。良かった。」
は安堵の息を吐き、ジュダルに全てを任せることにした。ジュダルとしても別に問題はない。
を暗殺しようとしたという相手方に不利な証拠もある。を主席魔導士として証明され、それを表明すれば、少なくとも法律上司法権は彼女が持つことになるのだ。ヴァイス王国において行政を司る国王派が、そして立法を司る議会派がどういう手に出てくるか、見物だ。
「あと、議会側は、国王派と敵対しているらしいから。連絡を取る予定だ。」
紅炎はこの短期間にヴァイス王国の政治体制と、問題をすでに把握している。主席魔導士であったマフシードが死んでから、国王派と議会派は苛烈な争いを続けているのだ。故に不確定要素のを、国王派は早く始末してしまいたいし、議会派は利用したいと願うだろう。
「馬鹿な奴らだな。突っつかからなけりゃ、良かったのに。」
ジュダルはカウチの背もたれに背中を預けて、笑う。
こちらにいらない情報を与えなければ、煌帝国軍もをただの神官付きの巫女と思って終わったのだ。ジュダルに買われたのだって、偶然だったのだから。
だが、誰もこの時、定められていた運命の歯車が回っていることを知らなかった。
おじさん