ジュダルはの育ての親である赤い髪のファナリス、セピーデフを眺める。
育ての親だというだけあって、と容姿の部分は全く似ていない。だがのことを話す時の彼女の愛情の深さだけは読み取れる。事情はともかく、娘を手放したくはなかっただろう。そしてもまた、彼女の元から離れたくなかっただろう。
「あの子は、マフシード様が亡くなった時、全部忘れてしまったの。でも、あんな辛いこと、覚えていないほうが良いのかも知れない。」
セピーデフは悲しそうに目尻を下げる。
は実の両親の顔も何も覚えていない。得た金属器の使い方も、どうして手に入れたかも覚えていない。それは幼かったからというのも大きいだろう。マフシードが死んだのは政変の末だったと言うから、が記憶をなくしたのは、母を亡くしたショックもあったのかも知れない。
「・・・最後に一つ、聞きたいことがある。」
ジュダルは黙ってセピーデフの話を聞いていたが、前置きをして口を開く。
「あいつの父親は誰だ。」
「・・・」
今までさらさらと話していた表情を消してセピーデフが黙り込む。重たい沈黙があたりを支配して、つばを飲み込むのすらも躊躇われる。
の母親であるマフシード・スールマーズの話はジュダルも理解した。が彼女の娘だというのも、金属器のこともだ。だが、の父親は、一体誰だったのだろう。
「・・・魔導士だったとだけ、言っておくわ。」
たっぷり時間をかけて、懐かしそうに目を細めてジュダルを見てから、セピーデフはそう答えた。
「すでに死んでるんだな。」
「間違いなく、死んでるわ。それも、がとても幼い頃に。あの方がお亡くなりでなければ、こんな事にはならなかったでしょう。」
ジュダルの確認に彼女は表情を曇らせる。
「彼が言ったのよ。いつかをマギが迎えに来る、って。」
セピーデフはずっとそれを待っていた。
でも迎えは来ず、ヴァイス王国に見つかり、を商人に売る以外、無事にこの国から脱出させる方法はなくなってしまった。それでも、ジュダルがを買い取るという形で“迎えに来た”と言うことは変わりなく、彼の言った予言は正しかったのだろう。
そう、彼はどこまでも奔放で、そのくせに約束事には律儀だった。
「随分昔の事よ。」
すべては、すでに10年以上前、遠い昔のことだ。
当事者たちのほとんどは死に絶え、に命を繋いだ。たくさんのものをに託した。それをセピーデフたちは誇りに思い、例え命つきても良いと覚悟して生きてきた。そのために、自分たちは存在しているのだから。
彼女は気を取り直すように立ち上がり、近くにあったものを順番にゴミ箱に入れていく。
白瑛は彼女の様子を目で追っていた。そういえばここにはすでに生活していくものは少なく、ある程度食べ物なども処分されているように見えた。茶器すらも捨てるのを見て、白瑛は眼を丸くする。
「どこかへ、行かれるのですか?」
「・・・えぇ、私の旅もここで終わりだわ。」
セピーデフは柔らかくほほえんで、白瑛を振り返る。
ジュダルもはっとして彼女を見て気づいた。ここは洞窟の中で、薄暗くてよくわからなかったが、台所近くの明かりの中でうっすらと彼女の体には黒い痕が見えた。最初にあった時はフードをかぶっていたので、わからなかったのだ。
「呪い、か。」
「えぇ。」
複雑な命令式の呪いだ。もしかするとこのヴァイス王国から出ると死ぬのかもしれないし、逆にずっと彼らに追いかけられる呪いなのかもしれない。ひとまず、その呪いが全身に広がれば彼女は死ぬだろう。それはそれほど遠いことのようには思えなかった。
「私は暗黒大陸まで行けないから、ここに残ったの。」
男たちはとらえられ、逃げ延びた者たちは暗黒大陸の向こうにあるという自分たちの故郷に帰っていった。セピーデフが帰れなかったのは、この呪いがあったからだ。とはいえ、呪いがなかったとしても、セピーデフは自分たちの祖国へ戻ろうとは思わなかっただろう。
「そ、そんなっ、もしかしたら助かる方法があるかもしれないのにっ、」
白瑛はセピーデフの呪いを見て、やりきれない表情で詰め寄る。だがセピーデフの表情はどこまでも穏やかで、すでに死を受け入れていた。
「良いのよ。私は人として、マフシード様が眠る、そしての生きる、この地で眠ることが出来れば。」
マフシードは奴隷として扱われていたファナリスたちに自由と、温かい家族を与えた。セピーデフにとって自分の恩人であるマフシードが眠るこの地こそが、故郷なのだ。そして、ファナリスとして、セピーデフは魂に刻まれた約束を、捨てることが出来なかった。
そして、に会うことが出来た。
大陸を超えて、故郷に帰ったものはいるが、それはとても少ない。それは魂に刻まれた約束のために、強く、強くを求めている、そしていたからだ。10年前に反乱を起こした人々もまた、同じ思いでこの地に眠ったことだろう。
ファナリスの全てがを求めている。
「それに私はマフシード様に一生分の幸せをいただいたわ。だって娘を得ることが出来たんですもの」
セピーデフは、自らの人生の幸せを確信している。終わりすらも、受け入れて。それはのおかげだった。
「で、でも、」
「私は奴隷だった頃に、薬で子宮をつぶされているの。化け物が増えないようにって。」
奴隷への扱いはどこでも酷いものだ。セピーデフもかつてはそうして虐げられ、ただ自分の運命を嘆いて生きてきた。そんなセピーデフに家庭の温かさを教えてくれたのも、家族を与えてくれたのも、マフシードだった。
そして持てるはずのなかった娘を彼女は誰でもない、自分と夫に託してくれた。彼女が一番大切にし、慈しみ、愛した娘を託してくれた。それがセピーデフの生きがいであり、そして同時にマフシードが生きた意味を守る行為でもあった。
魂に刻まれた約束だけではない。自分の意志で、セピーデフはこの運命を選んだ。
「あの子に、私は一生分の幸せをもらったわ。」
どんなに血がつながらなくても、親子としてと過ごした日々が変わることはない。それは離れてしまっても、セピーデフが死んでも変わらない。彼女を支えるよすがになれば良い。それでこそ、自分は母であり、生きた意味がある。
セピーデフはにこりと白瑛に笑ってみせた。その柔らかな笑顔は血のつながりなどなくても、によく似ている。
「ありがとう。貴方たちが来てくれたから、これで思い残すことは何もない。」
セピーデフは白瑛の手に自分の手を重ねて、笑う。
「の友達が来てくれるのは、初めてのことだったのよ。」
村に子供は少なく、ファナリスで乱暴な動きばかりする子供たちと、足の悪いは根本的に相容れず、友達はほとんどいなかった。
それに事情を知っている大人たちは、を敬うだけで、友人になろうとはしなかった。
「あの子ったらぼんやりしているから、心配だったの。」
セピーデフは、娘の性格をよくわかっている。
正直の性格は、昔から少し変わっていた。単純明快、天真爛漫、難しいことは嫌いのお馬鹿さんだったが、だからといって騒がしいかと言えば大人しく、感情的でもなく、少しぼんやりした子供だった。
もしかするとこの村での牧歌的で穏やかな生活が、彼女にそうさせたのかも知れない。少し抜けていて、頼りない。目が離せない。身を切るような思いでを見送った日を、心の痛みを、差ピーで符は忘れることなんて出来ない。
「でも、貴方のようなまっすぐで強い人がの隣にいてくれると、嬉しいわ。」
セピーデフは穏やかに白瑛に目を向ける。
白瑛は年の割に随分としっかりしているし、を心配してここに来た。それに、彼女はを迷いなく友人だと言った。身分が高いにも関わらず、それを行動で示すために、自らこんな辺境までやってきたのだろう。
「私は何も・・・」
白瑛は言葉を詰まらせ、俯く。
本当はを母に会わせてやりたいと、セピーデフを連れて帰るつもりでここに来たのだ。こんな形になり、お礼を言われるようなことは何もしていない。だが、セピーデフは首を横に振った。
「いいえ、私の心残りを解いてくれたわ。」
縋るような目を向ける白瑛を、セピーデフはそっと抱きしめる。
「ごめんなさい。せっかく来てくれた貴方に、辛い思いをさせてしまう。」
優しい白瑛はきっと、にセピーデフの最期を告げることは出来ないだろう。
彼女は本当は、セピーデフを連れて帰りたかったに違いない。なのに父親は捕らえられ、母親は死にましたなど、優しすぎる白瑛には言う勇気がないだろう。その事実はきっと心に重くのしかかり続ける。そのことをセピーデフは心の底から申し訳なく思う。
「には故郷に帰ったと、伝えて頂戴。」
「は、はい・・・」
真実をに告げるのはあまりにも残酷すぎる。セピーデフの言葉に、白瑛は震えた声で頷き、体を離した。
「ありがとう。あと・・・マギとふたりで、少しお話出来るかしら。」
セピーデフは穏やかな声音で申し出る。白瑛と青舜は少し警戒した目をジュダルに向けたが、納得したように地下室を後にする。その後ろ姿を見送って、ジュダルは彼女に向き直った。
これまでとこれから