夜中にもかかわらず機嫌がよいのか、は楽しそうに耳心地のよい旋律を紡ぎ出す。

 毛布だけで体を包んでいる彼女の白銀の髪が夜の闇に淡く光を放っていて、闇夜の中でもいまいち焦点の合わないジュダルの目に酷くまぶしい。ふわふわと金色のルフをまとって歌う彼女の姿は酷く神聖なもので、たまに触れるのが怖くなる。

 この世のものではないような、誰も聞いたことのない言葉で、誰も聞いたことのないような柔らかな旋律を紡ぎ出す。




「・・・」




 うとうとしているジュダルを起こさないほど柔らかい旋律はやはり子守歌を思い出させた。

 自分に親がいたのか、家族がいたのか、それさえジュダルは知らない。だって実の親は記憶にないうちに死んでしまっていることだろう。でもには優しく抱きしめてくれる育ての母親がいて、父親がいて、穏やかな森の中で、のんびりと幸せな日々を過ごしてきたのだろう。

 まるで普通の子供たちと変わらず、親の愛情を一身に受けて、当たり前のように抱きしめられて育ってきたのだ。

 優しい歌が、包み込むような旋律が、まるで彼女が過ごした幸せな日々を思い出させるように響く。


 運命に対する憎しみもなく、ただ流れるままに流されてきたはこれからどんな風に運命にとらわれて行くのか、ジュダルにはわからない。




 ―――――――あの子を人として死なせてあげて。





 の母親は言った。時が来ればわかるから、と。だが、時とは一体いつなのだろうか。

 運命がすべてを決めているのならば、ジュダルがマギとして生まれたのも、偶然でもと出会ったのも、それは運命なのかもしれない。



 ――――――運命が守れば汝らが子は繁栄をもたらす、運命から逃げれば子は滅びを連れてくる




 ヴァイス王国の主席魔導士となるべく定められていた子供は何の権利も義務も与えられることなく、ただヴァイス王国の端で愛情深いファナリスたちに囲まれて平和に、穏やかに、そして何よりも当たり前の幸せをたくさん受けて暮らしていた。

 予言が本当ならば、運命は未だにを守っているのだろうか、それとも運命は誰かによって拒まれ、はヴァイス王国を滅ぼす子供なのか。




「ジュダル?眠いの?」



 が柔らかい声で尋ねてくる。現実味のかけたのんびりとした声音が彼女らしい。



「・・・おまえは、何なんだろうな。」




 ジュダルはの頬に手を伸ばして、親指で彼女の頬を撫でた。白い頬は先ほどの行為の余韻か色づいていて、柔らかい。

 は一体何なのだろう。

 その答えも含めて、の母親は間違いなく、のことについて隠していることがまだあったはずだ。の父親の事に関しても、答えなかった。それでも、の母親の言葉に従うのならば、今ではなく、いつかはすべてがわかるのだろう。

 それぞ本当に、運命という名の下に。




「わたしは、だよ。」




 はいつも通り、のんびりとした口調で、疑問自体が理解できないというように不思議そうに、そう答える。強さなどない、ふんわりとした声音はまるで流されるように生きてきた彼女という存在そのものを示すようだ。

 自分が誰かなど、多分はそれほど興味がないのだろう。マギという存在に興味を持っていたのだって、それはただ単に母親がマギが迎えに来ると言い聞かしたから、という興味でしかなく、己とは関係ない。彼女は己と向き合うこともなければ、ただ流されるままにここに来た。

 そしてはいろいろな人に守られながら、本人はただ穏やかにそれを甘受している。本人は何も知らされることなく、ただ生かされている。それを無責任だというならばその通りなのだろう。彼女は彼女のために失われた命も、失われる命も何も知らない。


 今はただ、ジュダルの庇護下で穏やかに幸せに生きている。


 それ以上でもそれ以下でもなく、は自分をちっぽけなだけだと感じている。何も特別な存在だとは思っておらず、普通の子供で、出来ることが何か、それだけを見つめている、なりたいものも何もない、その辺にいる今風な少女だ。そしてこれからも変わらないのだろう。

 実際にファナリスたちは当たり前のような家庭を与え、を普通の子供として育てた。






「おまえって、本当に馬鹿だよな。」





 ジュダルはだるい身を起こす。一応毛布で体を隠しているは「そう?」と不思議そうな顔をした。

 ただ村の中で守られて育ったには遊郭にいた時間も短く、店に出されたこともないため、ひもじいとかご飯が食べられなかった以外の奴隷としての苦労はほとんど知らない。ジュダル買われたのも実質的には村から売られてから本当に数ヶ月ほどの話だから、酷い扱いを受けた時間は長くない。

 だから結局は今も結構お人好しでぼやっとして、流されるままに流される少女だ。

 正確なの生年など聞いたこともないし、ジュダルとおそらく同年代だがは小柄だ。北方系だからこれから背が伸びるのかもしれないが、今のところその傾向はない。むしろ成長が止まっているのではないかと思えるレベルだ。





「それでも、おまえは俺のだからな。」





 皇后の玉艶がジュダルの玩具であるを取り上げる気がないと言ったことから、間違いなく今のところ直接に何かするつもりはないだろうが、玉艶は元々、ある程度がどういった人物なのか、知っていたのかもしれない。

 彼女ならばマフシードの顔も知っていただろう。紅炎ですらわかるほど、はマフシードによく似ているらしいから。



『月光の銀の髪、幸いなる者の翡翠の瞳。傲慢なるソロモンが与えた奇跡の力と、人としての歪さ』



 玉艶は確かにそう言っていた。

 の実の母親マフシードは月光を表す言葉だ。の長い銀色の髪は、彼女と同じだという。ならば幸いなるものの翡翠の瞳とは何だろう。彼女の実の父親の名前を指し示すのか、それとも別の意味があるのか。

 ソロモンが与えた奇跡の力というのは、マギのように周囲から魔力を集める能力か、それとも本来ならマギによって導かれるはずの王の資格を有していると言うことなのか。




「ま、いっか。」




 ジュダルは積もる疑問を一言で思考の枠外にはじき飛ばした。

 いろいろなことを深く考えるだけ無駄だ。は何も考えていないのだから、自分が考えるだけ馬鹿みたいな話だろう。マフシードのこともよく覚えていないから、大して考えていないだろうし、白瑛が母の無事を確認してくれて安心しているはずだ。

 それで良い。彼女の母がきっと長くないであろう事も、彼女の父がヴァイス王国にとらわれたかもしれないことも、知らなくて良い。幸せに育った彼女は、きっと縛られて動けなくなってしまうだろうから。

 ジュダルはそう結論づけて、近くにあったクッションに顔を押しつける。

 も少し眠たくなったのか、くわっと欠伸をしてジュダルの隣に毛布にくるまったまま横たわった。今日は珍しく少し冷えている。




「来いよ。」




 ジュダルはの肩を引き寄せ、自分の腕の中に入れる。

 の母親に抱きしめられた時ほどではないけれど、の体は温かくて、どちらかというと薄着の寝間着しかまとっていないジュダルには心地よい温もりを与えてくれた。

 は少し不思議そうにジュダルの方を見上げていたが、やはり寒かったのか、ジュダルの胸に頬を埋めてほっとしたような顔をする。ジュダルがいなかった数日間はにとって不安だったのかもしれない。

 流されるままに流されていても、感じる不安や恐怖は一緒なのだ。




「・・」





 ジュダルは女を抱いたことはあっても、人を抱きしめたことはなかった。家族もいないので、抱きしめられたのも、の母親が初めてだった。正直戸惑いしかなかった。

 でも、腕の中にいるは温かくて、少し重たいけれど、悪い気はしない。

 はジュダルの背中に当たり前のように手を回して温もりを味わうようにくっつく。その温もりが心地よくて、力一杯抱きしめると、が苦しそうな声を上げた。





「じゅ、じゅだる!しまる!」

「大げさだろ、ちょっとくらい平気じゃん。」





 調子に乗って力加減を間違えたらしい。ジュダルは腕の力を緩める。するとの小さな手がジュダルの背中を優しく撫でた。

 遠い日に、ジュダルもまた母親に抱きしめられた日があったのかもしれない。





「うん。」




 人を抱きしめるのは、悪くない。抱きしめられるのも、温かい。幼い頃に覚えた飢餓感がどこかで満たされるような心地がして、ジュダルは小さく頷いての体を抱き込んだ。

温もりを抱きしめる