イマーンは悲しそうに、の方を見ていたが、諦めたのか小さく息を吐く。



「わかりました。政治的なお話をしましょう。」



 場を取り直すように言った彼は、ではなく、紅炎に目を向けた。それを確認しながら、ジュダルはを見やる。

 同じ長いすに座っている彼女は、ジュダルの手を強く握ったまま怯えるような面持ちでイマーンを見ていたが、やはり戸惑いしか覚えないのか、不安そうにジュダルに体を寄せる。その表情に嘘はなく、本当に覚えていないことに戸惑っているようだった。

 6歳まで母親の元で育っていたなら、ある程度母の記憶があっておかしくない。ジュダルだって6歳の時にどこにいたのかくらいは覚えている。

 だがには本当に記憶がないのだろう。とはいえ、ヴァイス王国の議会の議長であるイマーンの言うことがすべて嘘だとも思えない。



「議会は・・・国王を望んではおりません。自治権をいただけるのなら、煌帝国の傘下に入りましょう。」



 ヴァイス王国の国王と議会は常に争ってきた。特に主席魔導士であったマフシードが亡くなった後はなおさらだ。仲裁者もなく、争いは激化するばかり。政治を司る国王が横暴で財産を没収し、時には裁判もなしに議員が殺されることもあった。

 それを打開する存在が、生きていたであり、司法を司る主席魔導士そのものだった。今国王が勝手を出来るのも、主席魔導士が持っていた司法権を自分が持っていると主張しているからだ。対して議会もまた、司法権は議会に属すとしている。

 主席魔導士が現れ、それを取り込めば議会としては司法権を持ち、国王に有効的に対抗できる。



「悪い話では、ないな。条件は?」



 紅炎は頬杖をつき、イマーンの話の続きを促す。



「司法を司る様の権限で、どうか国王の追放と煌帝国軍が国内に入る許可の案件を、裁判所に提出いただいた上で、軍隊をお借りいただければと思います。代わりに鉱山がございますので、上納もいたしましょう。」

「軍隊が、借りたいか。」

「はい。あちらは魔導士も随分とおります、あの者たちは、悪魔です。」




 イマーンはため息をついた。




「おかしな話だな。マフシードは主席魔導士だったというのに、魔導士が敵、か。」




 紅明は嘲るように言う。だがイマーンの表情は穏やかそのもので、に目を向けた。



「違います。私も、魔導士でありますから。」



 議会にも、そして国王側にも、魔導士がいる。それがヴァイス王国のあり方でもあった。ヴァイス王国は魔導士と人間が平等に投票権を与えられる議会制の国家だった。国王が専制を始めるまでは。

 現在でも議会において議長は人間だが、議長であるイマーンは魔導士だった。

 主席魔導士はあくまで司法を司る人間であり、それ以上でも以下でもないのだ。魔導士も人間であり、その権利は変わらない。それが、ヴァイス王国だったはずだ。




「マフシード様は、魔導士であられましたが、人を大切になさる方で、優しく、美しく、本当に常に正しい方でした。」



 マフシードは確かに魔導士としても非常に優れた人物であることは間違いなかった。だが彼女が主席魔導士として愛されたのは、能力だけではなく、その人柄だった。




「だからこそ、一度様にもお戻りいただきたかったのですが。」

「こちらとしては、単独でを返す気はない。人質とされているようで気分が悪いかもしれんが、今は煌帝国神官付きの巫女の地位を与えられている。」

「・・・一度も様にお戻りいただけないと言うことでしょうか。」





 イマーンは紅炎に食い下がる。



「おまえはどうしたい?」



 紅炎はの意見を伺うように尋ねた。だが答えは全くといって良いほどかえらない。それどころか、いつの間にかのほうが視界から消えていた。



「・・・なにしてんだよ、おまえ、」



 は紅炎の視線からも隠れるようにジュダルと長いすの背もたれの間に顔を突っ込む。それは何も聞かず、いないことにしてくれとでも言うようで、ジュダルの方が眉を寄せた。


「おいおい、おまえさっきからなんなんだよ。」

「だって、あんまり聞きたくないんだもん。」



 は自分のこめかみを押さえて首を振る。



「おまえなぁ、つまんねえ話だからって・・・」



 ジュダルはの髪を引っ張ってせめて前を向かせようとしたが、いつもと違う彼女の様子に気づいて手を止めた。ジュダルと背もたれの間に隠れようとする彼女の肩は、震えている。

 いつも人の話を聞いていない時のはもっとあっけらかんとしている。なのに、今日の彼女は完全に怯えていた。彼女はあまり怯えたりしない。無理矢理抱いた後ですらも、ジュダルを恐れることがなかった。とろいせいか、あまり状況把握が得意ではないのだ。

 その彼女が恐れるのは、自分が受け入れ難く、わからないものを知りたくない時だ。



「おまえなんでそんなにびびってんだ?今の話のどこが受け入れられないんだよ。」



 ジュダルは手に持っていた彼女の三つ編みを離して、背もたれに頭を押しつけて丸々彼女を宥めるように髪を撫でて、少し背もたれから離れた彼女の体を自分の方へと引き寄せる。その手を、彼女も拒みはしなかった。

 別に難しい話ではない。簡単な話だ。彼らは主席魔導士としての資格を有しているが帰ってきてくれることを望んでいる。それを政治的に利用しようとしている話し合いだ。にはよくわからないだろうが、彼女に任されることはほとんどない。

 なのに、何を怯えているのか、ジュダルにはわからない。



「わ、わかんない。でも、いや、」




 はジュダルの膝に頭を押しつけて、丸くなる。



「おいおい、しっかりしろよ。一応正式な場だぜ?」




 ジュダルはの頭を軽く押してせめて身を起こすように促すが、中途半端に丸まって、そのままのは嫌がる。ジュダルが困ってイマーンの方を見ると、彼は悲しそうに目尻を下げて納得したようにあごを引いた。




様にとって、マフシード様が殺された時の記憶がないのは、幸せなことかもしれません。・・・ひどい状態でしたから。」





 マフシードとその従者だったファナリスたちは、口に出すのもはばかられるほどの酷い状態だった。

 拷問されたのかファナリスたちの腕や足は亡くなり、マフシード自身もいくつもの傷を負っていた。敵は一撃で殺されていたが、特にファナリスたちの傷は酷い物で、遺体を見慣れた者たちですらも眉を寄せたほどだった。

 国王は司法を司り絶大な人望のあるマフシードを、そして将来を約束されたを、何よりも恐れていた。

 特に国王であるのに何も持たなかった男は、が王の証でもある金属器を幼くして手に入れたことを、何よりも憎んでいた。予言など、ただの言い訳に過ぎない。国王自身が、王に選ばれたに嫉妬したのだ。

 だから遺体が見つからぬまでも、ファナリスやマフシードの酷い遺体を発見したとき、議会はがもう生きていないだろうと思った。国王は遺体すらも切り刻んだのだろうと、考えたからだ。



「貴方のお父上は、貴方が普通に生きることをお望みだったでしょう。」




 イマーンはがヴァイス王国に戻ることを望んでいるし、それが自国にとって必要だと思っている。だが個人としては、の両親のことを知っているが故に、自嘲気味に微笑んで自分を納得させるように、一つ頷く。

 イマーンはの父が誰であったか、否、“何であったか”知っている。だからこそ、その願いも知っている。



「・・・あなた様はある意味で、この世界に関わるべきではないのかもしれない。」



 ある意味で本来、そこにいることこそ間違い名存在なのだ。それでも彼女がこの世界に生まれたのは、まさに奇跡と言っても良い。その力もまた、特別な物であることを、魔導士のイマーンも知っている。そして、それを口にすることが許されないこともわかっているし、彼女のためにならないのも知っている。

 少なくとも現在、“後任者”のマギとともにいるならば、問題ないだろう。



「何もお知りにならないのであれば、それが寛容でしょう。お話は、紅炎様としてもよろしいですか?」



 イマーンはに対する話をそれ以上する気がないと示した。



「俺も同席させてもらいたいが、一応はジュダルの管轄でな。」



 紅炎はジュダルを伺うように見る。



「紅炎。おまえが決めれば良いって、俺はを手元に置けていれば良いから。」



 は自己判断できない。知る気もないようなので、なおさらだ。を庇護下に置いているジュダル自身には政治的な思想や彼女を政治的に利用したいという思惑はない。ただを側に置けていればそれで良いのだ。だから他の政治的な判断は紅炎にしてもらうに限る。



「・・・そうか。」




 完全な丸投げに紅炎は眉を寄せたが、言い争っても無駄だと長いつきあいからわかっているのか、返事をしてイマーンに向き直った。イマーンも納得したようだったが、彼は立ち上がり、恭しくに頭を下げる。



「おい、挨拶くらいしろよ。」



 は相変わらずジュダルの膝に頭を預けて丸くなったままだった。ジュダルは彼女の脇下に無理矢理手を入れて座らせ、イマーンに視線を向けさせる。イマーンは皺だらけの目元を細めて、悲しそうながらも笑顔で怯えきった彼女を見た。




「そう怯えなさるな。貴方様は創造主に愛されたお方。マギとも、王とも、魔導士とも、人間とも違う。ですが、貴方はそのすべてになる可能性を持って生まれてこられた。それは愛情です。」




 イマーンは知っている。彼女が何であるか、彼女の両親たちが何を危惧し、どうしてすべてからを遠ざけたのか、その意味を本当はイマーンも理解していた。例えそれを口にすることが禁じられていたとしても、魔導士たちは、そしてジンは全て承知しているだろう。

 イマーンにとってそれが良いことなのか、悪いことなのか、判断することすらも恐れ多いほど、はすべてを与えられて生まれてきた。



「貴方様はすべてを選ぶことが出来るのですよ。だから、恐れる必要などないでしょう。」



 国王が何故、そして何をの中に見て彼女を恐れたのか、イマーンは百も承知だ。魔導士たちの一部も、与える運命に抵抗しようとして、彼女を殺そうとしているのだろう。だが、それが酷く愚かなことだとイマーンは思う。



「運命は自ずと流れ、貴方様を運ぶはずです。貴方様がマギと出会ったように。」



 が弾かれたように顔を上げ、翡翠の瞳をイマーンに向ける。昔彼が見た翡翠の瞳の賢者はこれほど怯えた目をしていなかったが、同じ目を持っていた。




「もし、真実を知りたいと思う日が来たなら、残りのマギとシンドバッドを探しなさい。おそらくあの日と、すべてをご存じのはず。」

「マギは、ひとりじゃないの?それに、しん・・・?」




 は聞き覚えのない名前に首を傾げる。だがジュダルと紅炎はあまりに聞き慣れた名前に、思わず眉を寄せた。どちらの情報も、に与えたことのないもので、紅炎とジュダルは顔を合わせて舌打ちをする。




「はい。あの日のことも、すべてを知っているでしょう。」




 イマーンは二人の険しい表情を物ともせず、にそう言って部屋を辞した。








過去の夢