ヴァイス王国議会、議長のイマーンが引き上げた後、とジュダルは紅炎とともに彼の執務室に出向くことになった。



「お腹すいたぁ・・・・・・」



 お腹が勝手に鳴いている。確かに会談の前からお腹がすいていたのは事実だが、それでも我慢できないほどではなかった。だが今は訳のわからない恐怖と緊張のせいか、酷くお腹がすいていて、それ以外口にする事も出来ないくらいだった。



「・・・おまえ、またそれかよ・・・」




 ジュダルはいろいろと質問したいことこそあったが、脱力したように息を吐く。

 書類や本ばかりが積み上がっている紅炎の部屋だったが、はお腹がすいてたまらないのか、食事を探して辺りを見回す。紅炎と紅明も呆れた顔をしていたが、そんなことには関係ない。だが残念なことに、紅炎の部屋にあるのは慰め程度に置かれている小さな菓子程度だ。

 全く腹にたまりそうではなく、は目尻を下げる。



「一応こんなものしか持っていませんが、」



 紅明は菓子をに差し出す。はその黄色くてふかふかした菓子を口にすぐ入れたが、大きなそれもあまりの腹を満たすことはなかった。



「ありがとう、でもおなかすいた、おなかすいたよ。お腹すいたぁ。」



 なぜだかわからないが酷くお腹がすいて仕方がない。カウチの上でうずくまっていると見るに見かねた紅炎がため息ををついて女官に一言二言命じた。食事を作ってくれるように頼んでいたらしい。



「おいおい、おまえ、朝飯食ったし、昼飯にはちょっと早いだろ?」



 ジュダルはうずくまっているの肩を掴んで顔を上げさせる。

 確かに朝から風呂に入れられたりと使者に会う準備をしていたので忙しかったのは事実だが、今日は魔法も何も使っていないのだから、これほど腹が減るなどおかしい。



「うぅー、でも、お腹がすいたよぅ。どうしてかな、さっきまで平気だったのに、お腹すいたよぅ。」



 いつも通りは高い声で呻きながら顔を上げた。その情けない顔が何故かジュダルの苛立ちを煽り、彼女の髪の毛を引っ張る。



「そういや、父親と会えてるって、なんだよ!夢って!」

「いあたたた、それは、でもご飯、お腹減った、でも、ええと、」



 はいろいろと頭が混乱しているのか、ジュダルに言われていることと自分の欲求とを混在させて離すので、ますますわからない。




「あとは果物ぐらいしかありませんが。」



 見るに見かねた紅明が困ったようにの前に果物の皿を差し出す。それをはまさにかきこむ勢いで食べ始めた。

 これは食べ終わるまで完全に話を中断され、事情を聞く所の話ではないだろう。紅炎はため息をついた。

 だがジュダルはどうしても納得が出来ず、の隣に座り直し、食事に夢中のの頭を思いっきりひっぱたく。



「いっ!あぅ、何?」



 は痛そうに頭をさすりながら、それでもやはり食べるのをやめない。よほどお腹がすいているらしく、何かを口に入れないと耐えられないようだ。その姿は楚々とした容姿に似合わず間抜けすぎて、ジュダルは何も言う気をなくした。




「・・・まず、一つ聞いておきたいが、夢に出てくる父親はなんなんだ?」



 紅炎は椅子に座り直し、に尋ねる。



「え?何って、お父さん?」



 果物にかぶりつきながら、至極当たり前にが答えるのでむかついて、ジュダルはの銀の三つ編みを思い切り引っ張ってしまった。



「・・・そんなに定期的に出てくるのか?」



 紅炎は最初に聞いた時にただの小さな夢だと思ったが、イマーンの口ぶりから見て夢で会えるというのは、随分と昔からのはずだ。イマーンはが記憶をなくす以前から、が父親と話せたことを知っているようだった。



「うん。でも夢の中だよ?ほら、兵士さんたちを魔導士から助けてから、出てくるようになったんだ。」



 は頬を果汁で汚したまま、少し嬉しそうに笑う。

 育ての両親はいても、実の親の記憶がにはない。だから夢の中とは言え父親に会えることが嬉しかったのだろう。兵士を助けた後からは急速に魔法を使えるようになったことも、が父親に会えるようになった時期と合致している。夢の中の父親の入れ知恵なのかはわからないが、何らかの因果関係を予想するのが当然だ。

 ただはそのことをそれほど珍しいことだとも、重大なことだとも思っていないらしい。



「それよりもあの人と、会うの嫌だな。頭がむずむずする。」



 はリンゴを食べながら、ジュダルの袖を引っ張って言う。



「あぁ?」

「あのおじいさん、他のマギとじばっど?って人に会えばわかるって言ったけど、別にわたし、知りたくないから、その人にも会いたくないよ。」

「なんだよそれ。ってか誰だよそれ。シンドバッドだって。」



 ジュダルはの言葉に眉を寄せる。

 普通なら、自分の記憶がないことを知れば、記憶を取り戻したいというのがセオリーではないだろうか。だがは心底知りたくないらしく、自分の身を守る手段がジュダルしかないとでも言うように、ジュダルに珍しく体を寄せている。

 いつもは楽観的で単純なはいない。蛇に食われるのに怯える小動物のように、怯える彼女に、ジュダルは何やらかわいそうになって、慰めるように小さな彼女の背中を撫でてやった。

 食べ続けているのも、現実逃避のようにすら見える。



「わからない情報が多すぎる。、おまえに記憶はないんだな。」

「うん。なにもないかな。」





 紅炎は確認するようにに一応尋ねるとは首を横に振る。

 村でずっと育ってきたのではなく、記憶が一定の年齢で消されているのか、母が死んだ時のショックで忘れてしまったのか、どちらにしても、自分の記憶だろうに実感はないようだった。



「ひとまず、煌帝国はヴァイス王国を手に入れる方面で話を進める。の権利を使うことはあるが、ジュダルの傍に置く。それで良いんだな。」



 紅炎はジュダルに条件を確認するように尋ねる。



「あぁ、良いぜ。」

、おまえの方は何かあるか?」

「わたしはジュダルといれれば、それで良いかな。」

「そうか。」



 ヴァイス王国の使者にあってもの煌帝国にいたいという意志は変わりないようだ。もう少し欲なり、意志なりを持ってくれれば良いと紅炎は考えたが、あまり思惑通りには行かなかったらしい。むしろは完全に記憶がないという不安よりも、思い出すかもしれないという不安にかられている。

 わからないことを知ろうという意志よりも、逃げる方面の方に力を働かせている上、ジュダルがそれを助長している。彼はを庇護していると言えば聞こえは良いが、どちらかというと防空壕にしている気がする。要するに逃げ場なのだ。

 それがまた、の成長を妨げている気がして、紅炎は眉を寄せる。



「なぁにおまえ怖い顔してんだよ。良かったじゃん。がいるおかげでさくさくヴァイス王国を手に入れられそうだろ。」



 ジュダルは楽観的な意見を紅炎に押しつける。だが紅炎はジュダルの影に隠れているの方が重要であり、同時に危険な気がして仕方がなかった。

 紅炎もの育ての母親からジュダルが聞いたの素性について報告は受けているし、迷宮を攻略した経緯も聞いている。だが、何故ヴァイス王国の国王は、幼いを迷宮に突き落とすほど危険視したのか。それは本当に、シェヘラザードが与えた予言のせいなのか。その答えはない。

 イマーンもまた完全にに関する“なにか”を隠していた。

 ただまだ幼かったであろうのどこが、国王にとって恐ろしかったのか。その才能は最初から見えていたのではないだろうか。

 は記憶をなくした当時、たかが6歳だ。紅炎はがいつ金属器を手に入れたのか知らないが、足の悪い彼女が迷宮で金属器をどうやって手に入れたのだろう。本来魔導士と金属器は相性が悪い。なのに、どうして彼女は魔導士でありながら金属器を保持しているのだろうか。

 しかもセピーデフの話をまとめると、が迷宮に足を運んだのは“一度だけ”だ。なのに彼女は二つの金属器を所持している。それはマギであるジュダルが確認しているので間違いがない。

 その答えを誰もが口を噤んでいる。



「・・・おじさん、こっち見てくるから、怖い。」




 紅炎がのことをじっと見つめるせいか、は不安そうにジュダルを見上げる。食事をして少しは落ち着いたのか、翡翠の瞳はいつものと同じ馬鹿さと無邪気さを抱えており、ただ丸くジュダルをうつしている。



「怖いじゃねぇよ。おまえのことだろ?まぁ良いけどよ。それに何なんだよ夢に父親って。おまえの育ての母親に聞いても教えてくれなかったしさ」



 ジュダルはの育ての親に会いに行った時、の実の父親が誰か聞いた。その答えはおおかたはぐらかされたが、死んでおり、また魔導士だったと言うことだけはわかっている。死んでしまった人間が、夢に定期的に出てくることなど、出来るのだろうか。

 マギであるジュダルにも全くといって良いほど、思い当たる節がない。



「うん。でもどうせお父さんがどんな人でもわたしのお父さんだし、良いんじゃないかな。」




 にとってあまり父親の素性も、ヴァイス王国のことも興味を抱く対象ではないらしい。根本的にはどれにも何ら興味はないのだろう。むしろ知りたくないとすら思っているのかもしれない。



「まー良いけどよぉ。どっちでも。俺に関係ねぇしな。」



 根本的に、ジュダルはを側に置ければ良いだけで、別に政治の話も彼女の父親の事もどうでも良い。だからジュダルはあっさりとに返して、自分が引っ張ったせいでもつれているの銀色の髪を撫でる。



「はやくお部屋に帰ろう。」



 はジュダルの袖を引っ張って言う。紅炎は彼女とジュダルの依存関係に違和感と一抹の不安を覚えた。

 彼女は一応金属器を二つも保持する、たぐいまれなる王の器を持っているはずだ。なのに、彼女は眷属も持たず、本来なら金属器を持つことが出来ないはずの魔導士でもある。

 イマーンは言った、彼女はマギにでも、王にでも、人間にでも、そして魔導士でもない、しかし同時にどれでもない存在で、何でもなれると。そんな人間が、本来ならば世界に存在しているはずがないのに、彼はの事を創造主に愛されたと言っていた。

 その意味が、どう考えても読み取れない。

 創世の魔法使い―マギと言う大きなジュダルの後ろに隠れようとしているこの少女が、紅炎には恐ろしいものに思えてならなかった。









過去の夢