「じゃーん!」
紅覇にタックルするような勢いで抱きつかれ、華奢なは座らされていたカウチごとひっくり返った。
「相変わらず肌も白くてすべすべだし可愛いなぁ!」
「こーはくん!重たい!重たい・・・うべぇ!」
生憎の方が紅覇よりも年齢としては4,5歳年上だが、彼女と紅覇の背はあまり変わらないので、のしかかって抱きつかれれば抵抗できない。ましてや足が悪いのでは、逃れようがない。首を回された紅覇の腕で締め付けられ、は常でも雪のように白い顔を青ざめさせていた。
「おいおい、の口からなんか出てるじゃねぇか!どけっ!」
最初は放って置いたジュダルだったが、彼女の口から白い何かが顔を出しそうになっているのを確認して、青い顔で紅覇を捕まえ、彼女の上からどかせる。
「おいおい、大丈夫かよ」
「なんか新しい世界が見えたよ。」
は圧迫されていた首を押さえて小さな席を繰り返した。ジュダルは手早く紅覇によって勢いのまま倒されたカウチを起こし、を抱き上げて座らせると、隣に腰を下ろした。
「って本当に面白いよねぇ、ジュダル君、僕に飽きたら頂戴。」
「やだね。」
ジュダルは素っ気なく言って、乱れたの銀色の髪を適当に撫でてなおしてから、部屋の隅にいた紅明に目を向ける。
「紅炎はどうしたんだよ。」
「兄王様は、軍議に参られましたよ。」
「はぁああ?呼び出しといてなんだよそれ。」
「それは時間通りに来てから言ってください。」
紅明に言われて柱時計をみると、すでに12時。とジュダルが起きたのは10時過ぎで、身支度を終え、食事をしてから、紅炎の所に行こうかと思ったまさにその時、ジュダルが突然紅炎の話は退屈だから、退屈しのぎを持って行こうという話になったのだ。
それから1時間ほど二人で話し合ったが、結局退屈しのぎはあまり思い当たらず、向こうで女官に食べ物を頼もうと言うことで、手ぶらでここを訪れることになった。
約束は、11時だったため、当然大遅刻だ。
「細けぇこと言うなよ、陰気な奴だな。どうせ時間かかるなら、お茶でもしようぜ。庭で。」
「それ良いねぇ〜、せっかく良いお天気だしぃ、炎兄帰ってくるまで時間あるしぃ」
紅覇はジュダルの意見にあっさりと同意して、すぐに女官を呼びに行く。
「ちょっ、紅覇!・・・そんな、」
「どうせ紅炎が帰ってくるのは2,3時間後だろ?こんな本だらけの陰気な部屋で待っとくらいなら、俺ら帰って市場にでも出かけるぜ。」
市場に出かけたら少なくとも数時間は帰ってこない。ついでに市街の茶屋で飯など食べてしまえば一日仕事だ。気まぐれなジュダルが捕まらないのはいつものことで、どこでお茶をするのだとしても、居場所がわかっているだけましだ。
特に今回はジュダルの付属物のに話を通さなければならない。なのに、この少女と言ったら基本的にジュダルにべったりで、彼から離れることが全くなく、彼が出かけると共に出かけてしまうので、彼女単独で捕らえることは出来ない。まさにジュダルの金魚の糞だ。
紅炎からもジュダルはともかくは逃がすなと言われているので、紅明も反対することもできずに黙った。
とはいえそもそもの原因はジュダルの遅刻なのだが。
「も退屈だよなぁ。こんなとこで待つなんて、」
「うん。おじさんの話っていつもつまらないかな。」
「んな話してねぇよ。今の話だよ。今、紅炎を待つのがくそおもんねぇって話。」
ジュダルに同意を求められて、彼女は違うところに同意を示す。
基本的にあまり頭の良い方でない、子供っぽい精神性のにとって、大人の紅炎の話は非常に面白くないものなのだ。かといってに理解できるように簡単に話している紅炎の姿は誰も想像できない。
「おまえ、本当に馬鹿だよなぁ。」
ジュダルは手を伸ばしての頭をくしゃくしゃと撫でる。
「さんは、字は読めるのですよね?」
紅明が尋ねると、は小さく頷いた。
「うん。でも、文字嫌い。」
読めるが、紅炎の部屋にある大量の本で時間をつぶす気はさらさらないようだ。
「そうそ。こいつトラン語とかも読めるんだぜ。」
ジュダルが親指でを示し、実に意外そうに言う。
トラン語は王族など高位の人間だけが知る文字だ。常ならば世界共通語なのだが、少数民族だけが使うトラン語だけは古代の神秘とされ、よくわかっていない。トランの民もあちこちに分布していて、その特殊性から良い研究対象になっている。
は寒村で育ったと言うが、記憶はなくともヴァイス王国の主席魔導士マフシードの娘。教育は一応受けていた、ということなのだろうか。物心がつくと年齢まで母とともにいたならばそれなりに勉強させられていたのだろう。
記憶喪失と言っても一般的な習慣や言語は忘れないことが多いというから、そういうことなのだ。
「んー。でもわたしは算術以外の勉強は嫌いだったよ。お父さんもお母さんもお手上げ状態だったし。」
は育ての親たちの困った顔を思い出す。
育ての親は、当然のことのようにに勉強を教えていた。ただし本人のは数学以外、大嫌いで、いつも蚕を飼っている部屋に逃げて怒られていた。椅子に縛り付けられたこともある。
「こいつさぁ。科選の数理学がほぼ全部解けるんだよ。」
「えぇ!?あれは普通1問解けたら合格のはずですよ!」
紅明はジュダルの言葉に呆然とする。
神官のジュダルもおそらく紅明の驚きの正体は、理解出来ていないだろう。科選は国の官吏となるための試験で、とくに数理学の方は工科部門など特殊な方面にいく人間が受ける6問2時間という恐ろしい試験だ。基本的に一問でも完答すれば100%突破出来ると言われるが、だいたいの場合は部分点のみでぎりぎり通過する。
年度ごとにかなりの差があるとはいえ一問解けるだけでも驚愕に値し、三問解ければ希代の天才とされるというのに、全問解ける人間が存在すること自体、なにかの冗談としか思えない。
「でもぉ、文章嫌いだよねぇー。」
紅覇は近くにあった椅子に腰掛け、足を組む。
「そうそ。魔法式とか、命令式は好んでみるけど、文章書いてあると途端におねむだもんな。」
「だっていっぱい文字が並んでるのは目がちかちかして眠たくなるんだよ。」
「普通さぁ、数式とかの方が眠たくなるよぉ。」
「そんなことないよ。こーは君が変だよ。」
「えー、に変とか言われるなんてしょっくぅ〜!の方が変じゃーん!」
「こーは君の方が変だよ。」
何やら勝手に紅覇との間で口論が始まる。二人とも精神年齢が幼く子供っぽいので、二人そろうと実につまらない言い争いが始まるのはいつものことだったし、いまいち口論の原因も噛みあっていないことが多い。
それでいて互いに結構互いを気に入っているらしく、仲は良いのだから不思議だ。
「おまえら、マジでうるせぇ、勘弁しろよ。」
ジュダルは肘おきに頬杖をついて、二人のやりとりにため息をつく。二人とも声が高いので、きんきんと頭に響くのだ。
「何それぇ、酷い〜。もそう思うよねぇ。ね。ね。」
「うーん。わかんないかな。」
「わかんねぇじゃねぇ。うるせぇのは事実だろうが。」
ジュダルは軽くの頭をはたいて、うるさい二人のやりとりをため息交じりに見つめる。
「ところでさぁ、なんか市場に新しく美味しい甘味屋が出来たらしいんだよねぇ、、一緒にいかない?」
「えぇ、わたし甘味よりご飯の方が好きなんだけどな。」
「良いじゃ〜ん。後でご飯いったらさぁ。」
「じゃあ、良いかな。美味しいものすき。」
「貴方たち、一応王族と暗殺者に狙われてる身ですよ。わかってます?」
弟とのやりとりに、紅明が口を差し挟む。
紅覇は王族であり、常に狙われる身だ。は現在ピンポイントでヴァイス王国の国王派に狙われている。あまりに不用心な話だったが、二人に自覚はないし、自覚する気もないらしい。楽しそうに町で食べ歩きをする計画を立てている。
二人は紅明の言葉にぴたっと会話を止め、揃って紅明の方を見たが、同時に首を傾げる。
「大丈夫だよー、明兄は何でも心配しすぎだよ〜、そんなんじゃはげちゃうよぉ。」
「美味しいものを食べるだけなら大丈夫じゃないかな。」
紅覇もも意に介さない。幼すぎて自分が狙われていると言うことを、現実のものとして理解できていないのだろう。ついでに他人の言うことをあまりに真面目に聞いていない。
「あーうるせぇ。」
ジュダルが片耳をふさいで言うが、女官が庭にお茶の用意をするまで、二人の馬鹿な会話は途切れることなく続いた。
そのままの君を愛す