全員が椅子に座ったところで、紅炎は重々しく口を開く。
「2週間後、俺たちはヴァイス王国に向けて行軍を開始する。」
それが今日行われていた軍議における決定であり、煌帝国の方針でもあった。
ジュダルはにぃっと唇の端をつり上げ、紅覇も楽しそうにどう猛な笑みを見せる。紅明だけが静かに扇子で自分の表情を隠していた。紅炎の目もまたぎらぎらしていて、何やら怖くなっては後ずさろうとして、椅子の背もたれに体重をかけすぎたのだろう。
そのまま椅子ごとひっくり返った。
「ばっ!おまっ、何してんだよ!」
ジュダルがぱっとの方を向き、慌てて立ち上がる。
「いったた、あんまりもたれちゃ駄目なんだったよ。」
いつも長いすに座ることが多く、その場合はジュダルも隣に座っていたため、背もたれにもたれてもそのまま後ろ向きにひっくり返ることはなかった。だが、先ほど普通の椅子に座らされたことを、はすっかり忘れていた。
「ぇ、あんま頭ぶつけるとばかになるらしいよぉ?」
紅覇も慌てて立ち上がり、椅子を元に戻す。
「元々馬鹿だから大丈夫なんじゃね?」
「ご、ごめん。」
「しっかりしろよな。」
ジュダルはを抱え上げ、今度は近くにあったカウチに座らせ、の長い銀色の三つ編みを手で掴んだまま、その隣に腰を下ろした。
「え、なんで髪持つの?」
「安全紐。」
三つ編みは自分の背ほども長い。が仮に反り返っても確かに三つ編みを掴めばどうにか留めることは出来るのかもしれないが、三つ編みで全体重を支えることになるわけで、多分痛い。
「おまえが次こけなきゃ良いんだろ。」
ジュダルはあっさりと言い放って恨みがましいの視線を無視した。
「・・・話を進めて良いか?」
「あ、うん。」
が頷くと、やっと紅炎はため息交じりで口を開いた。
「でだ。行くのは紅覇、白瑛、俺で、紅明、おまえは居残りだ。」
「御意。」
「、おまえだが・・・ヴァイス王国の議会派の要望で、おまえも連れて行くことになった。」
「はぁああ?!」
よりも早く、ジュダルの方が大きな声を上げる。
「記憶の問題もある。おまえは一度、何らかの形で、ヴァイス王国と向き合うべきだ。」
紅炎は至極まっとうな意見をに向けた。
覚えていないとはいえ、がヴァイス王国の出身であることも、その主席魔導士であることも変わりない。議会派はに期待し、国王派はを殺そうとしている。その事実も含めて、彼女はなくした記憶に向き合うべきなのだ。
過去の記憶に苦しむこともあるかもしれない。しかしがその血筋に生まれた限り、そしてどんな形であれ、ヴァイス王国の主席魔導士に選ばれた限り、それらに向き合うことは義務なのだ。
「、おまえにも行軍に参加してもらう。これは、」
「や、やだ、」
命令だ、と口に出そうとした紅炎は、それを言う前にによって遮られる。
「い、いや、わたし、行かないよ、いかない。」
は首を横に振って、翡翠の瞳を丸く呆然とさせたまま、呟くように繰り返す。
「それは記憶を思い出したくないからか?それとも怖いからか?」
「ぜ、ぜんぶっ、嫌、」
記憶を思い出したくないという気持ちは、断片が見えれば見えるほどにとって大きい物になった。そしてヴァイス王国という存在への恐怖も、膨らむばかりだ。
両親はに、帰ってくるなと言った。戻ってくることは出来ない、と。
最初は両親の願いを守らなければ程度の感情だったが、不安は徐々に大きくなり、ヴァイス王国の議長であるイマーンに会って、その感情は確信に変わった。
ジュダルは怯えるの頭をくしゃっと撫でてから、紅炎に目を向ける。
「…なぁ?なんで連れて行く必要があるんだよ。」
「何故?そいつが俺たちの軍が正当性を得られる理由でもあるんだぞ。」
煌帝国が軍を率いてヴァイス王国へと歩を進めることが出来るのは、がいるからだ。司法を司る主席魔導士の権限を持つ、がいるから、煌帝国軍は侵略と見なされずにヴァイス王国の議会派と組むことができているのだ。
そのがいないとなると、本末転倒だ。
「でもさ、連れて行く必要ないじゃん。殺される可能性だって、ヴァイス王国の議会派?にだって裏切り者がいるかもしれねぇだろ?禁城に残していく方が、良いんじゃねぇの?」
ジュダルの言うことは一理あった。
正当性は彼女が生きていること前提だ。もしに何かあれば、この話はすべて頓挫するし、煌帝国もヴァイス王国を属国化することをしばらく諦めなければならなくなるだろう。ヴァイス王国は金属器使いだけでなく多くの魔導士も抱えている。戦って占領するのは簡単ではない。
ならば、の安全を最優先に考えるべきなのではないか、というのだ。実にまっとうな意見だ。
「それは、本当に煌帝国のために言っているのか?」
紅炎は殺気だった目で、ジュダルを睨む。だがジュダルも怯まない。
「おまえこそ、その決定は煌帝国のためなのかよ。」
紅炎は、にヴァイス王国と向き合うべきだと言った。要するに彼は、をヴァイス王国の主席魔導士と認めた上で、“祖国と向き合うべきだ”と考えている。また、記憶もおそらく取り戻した上で、すべてを考えるべきだと思っているのだろう。
「良いか?。おまえの不安定さは記憶がないからだろう?記憶を取り戻し、はっきりすればその不安も軽減されるはずだ。」
紅炎はジュダルではなく、に言う。は彼のぎらぎらした強さを目の当たりにして、萎縮する。
「と、とりもど、す、?」
「そうだ。」
「い、いや、、」
は首をふると横に振る。
「おまえの記憶だろうが、」
紅炎は椅子から立ち上がり、を見下ろした。誤魔化しを許さぬ神のように立つ紅炎に、はただただ萎縮する。そんなを庇ったのは、ジュダルだった。
「おい、紅炎。こいつは俺のもんだ。おまえにをどうこうする資格はないって言ったよな?」
ヴァイス王国の首席魔導士としての地位を持っていたとしても、煌帝国においてはあくまで神官付きの巫女であり、ジュダルの付き人だ。俗世の階級しか持たない紅炎が手を出せる存在ではない。紅炎もそれは知っていた。
それでも彼はジュダルの後ろにいるを睨む。
「おまえは一生そうしてジュダルの後ろに隠れて生きていくつもりか?」
特別な力を持ちながら、すべてを判断する力を、権限を持っていながら、それを使いもせず、ただ隠れて生きていく。自分に関係のあるものをすべて切り捨て、忘れ、生きていくのは、無責任以外のなにものでもない。
常に義務を負い、それを果たしてきた紅炎にとって、義務から逃れ、すべてを関係ない者と切り離そうとする姿は傲慢にしか見えなかった。
「わ、わたし、は」
は翡翠の瞳に涙をため、ぎゅっと耳を塞ぐ。
――――――――――――――――おいで、見てごらん
人々がこちらに向けて歓声を上げている。期待、羨望、希望、願い、そのすべてがこちらに向けられている。
だから自分は正しく生きなければならない。すべてを背負わなければならない。つぶれそうになっても正しく生きなければならない。他者のように隠れて、ただ楽しく生きていくことは出来ない。なぜならは、
「あらあら、」
ふっと冷たい空気を、柔らかで重たい、高い声音が遮る。全員が弾かれたように顔を上げ、その姿に眼を丸くした。呆然と誰もが声を出すことも出来ずたたずむ中、彼女は穏やかににっこりとほほえみ、俯いたまますっと歩み出ると、の頭をそっと撫でる。
「可哀想に、誰が貴方を泣かしたの?」
の頬に柔らかで温かな手がそえられ、促されるままに顔を上げる。そこにいたのは、優しくて暗い目をした、漆黒を纏った女性だった。
そのままの君を愛す