「どうしたの?その綺麗で大きな瞳は泣くためにあるのではないでしょう?」
優しく目元を袖で拭われ、そっと頬を撫でられる。あまりに慈愛に満ちた優しい仕草に、は涙を忘れて彼女を見上げていた。
「こーごへいか?」
「あら、別に玉艶で良いのよ。」
柔らかい声には、既視感がある。それは酷くを安心させる何かを含んでいて、はよくわからないままに、彼女の顔を見上げていた。
彼女はと同じ目線になるため、の目の前で膝を折り、の表情をのぞき込むと、よしよしとの頭を慰めるように撫でる。は涙を忘れて優しい彼女の手に身を委ねた。安心できるのは、何故なんだろうか。
紅炎は突然の皇后の出現に眉を寄せ、紅明は慌てて椅子から立ち上がって礼の体制をとり、紅覇は興味深そうにじっと見守っている。ジュダルも驚いたのか、口をぽかんと開けたまま彼女をただ見ていた。
「私の可愛い。貴方を泣かせるのはだぁれ?」
の頭を優しく撫でながら、玉艶は優しく尋ねる。答えられないの代わりに、ジュダルが口を開いた。
「紅炎のやつがを無理矢理ヴァイス王国に連れて行くって言うんだよ。だからが、」
はあからさまにヴァイス王国のことを怖がっている。記憶を取り戻すこともだ。ジュダルはそれを承知しており、だからの記憶を取り戻させたくないし、ヴァイス王国にも連れて行きたくない。
玉艶はの意志を理解したのか、を改めて見下ろし、にっこりと笑う。
「貴方はヴァイス王国に行くのが嫌なの?」
「・・・う、うん。」
は素直に彼女の問いに頷いた。
ヴァイス王国には行きたくない。紅炎が言う記憶を取り戻すというのも、怖い。そこまで言うのははばかられたが、頷いただけでも十分意志は伝わったらしい。
「だが、おまえは主席魔導士だ。おまえ行くだけで士気が変わる。」
皇后の手前か、紅炎は誰もが理解できるもっともな理由だけを口にした。
が玉艶のお気に入りであるのは有名な話だ。何があるのかは紅炎もわからないが、何かと玉艶はを気にかけ、贈り物をしたり、お茶に呼んだりしている。紅炎はこの義母が悪魔としか見えず、警戒していた。しかも、この状況だ。救いの神でないのは間違いない。
玉艶は一瞬紅炎にも目を向けたが、にまた問う。
「ふぅん。煌帝国が貴方は好き?」
「え?」
は彼女の問いに首を傾げる。
「違うのね。なら貴方はヴァイス王国に行きたくない。願い事はそれだけかしら?」
玉艶は確認する。それには瞳を瞬いた。
彼女は願いを叶えるために、の意志を確認しているのだ。だが、には自分の意志という物がない。ただ、ただ記憶が戻るかもしれないという不可解で恐ろしい物から、ただ逃げようとしている。
それだけだ。
「でも、を置いていくなら、こちらでを預かりましょうか。」
玉艶は裾を払って立ち上がると、の前に立ち、紅炎ににっこりと笑う。紅炎は皇后である彼女の決定に逆らうことは出来ないが、その台詞にの方が声を上げた。
「え、じゅ、ジュダルは?」
「あら、知らないの?ジュダルもこの行軍に参加するのよ。」
玉艶はまたの方へと向き直り、小首を傾げる。の瞳が揺れたのに気づいたのだろう、彼女は宥めるようにそっとの長い銀色の髪を撫でた。
「どうする?貴方の願いは何だって私が叶えてあげるわ。」
ゆったりとした声音がを守るように与えられる。それはに対しては優しかったが、他人には酷く冷たいものだと、何となくはわかった。そう、彼女はいつも“”には優しい。何があっても、の味方。
ヴァイス王国に行かないというのも、行くというのもの自由だ。
ジュダルと離れるのは怖い。でもジュダルはヴァイス王国への行軍に参加する。でもヴァイス王国には行きたくない。くるくるとループを描く思考にはどうすれば良いのかわからず、俯く。決定権は自分であるというのに、それをどうしたら良いのかわからない。
「俺は、絶対に行かなきゃなんねぇのかよ。」
助け船を出したのは、ジュダルだった。腰に手を当てて、紅炎の方に尋ねる。
「当たり前だろうが。ましてやヴァイス王国の結界は人柱まで立てたと言われるほど強固で有名なんだぞ。」
紅炎は質問自体があり得ないとでも言うように早口で答えた。
ヴァイス王国は魔導士が多いことでも有名で、結界も人柱まで立てたと言われるほどに強固だ。熟練での魔導士でも破れるかわからない難攻不落の結界を破ることができる人材は限られている。ジュダルですらも不確定なほどだ。
煌帝国と通じているヴァイス王国の議会派も、国王がいる首都ゾフルフの結界を破る手段は持ち合わせていない。
「ちっ、面倒くせぇな。」
ジュダルは生まれて初めて、戦争に行くのが心底面倒くさいと思った。
一度の育ての親に会いに行くためにジュダルが彼女を置いて行ってから、彼女はジュダルが出かけることに敏感だ。今までは何も気にしなかったのに、部屋の前で待っているほど、ジュダルにおいて行かれることに怯えている。
それはヴァイス王国の件が表面化するにつれて顕著になり、今ではべったりだ。
ジュダルもそれを鬱陶しいと言いながらも、ふわふわと浮くように意志のなかったが自分に依存してくれるようになって嬉しかったのだ。
だが、置いて行かれるとわかった今、は酷く狼狽えた顔をしている。
「・・・」
日頃は髪を引っ張ったり、酷いことをそれなりにしているが、彼女の怯えた顔がジュダルは苦手だった。あまりは物事に怯えるタイプではない。彼女が怯えるのは唯一、自分のわからない、理解しがたく、受け入れがたいものに出会った時だけだ。
記憶は彼女にとってその典型的な物らしく、記憶の問題が関わるだけで表情を歪める。
元が楚々としていて見た目が可愛いだけに、目尻を下げて涙をため、小さな肩をふるわせているのを見ると、ジュダルも何やらかわいそうになってくるのだ。
「が残るなら白瑛を残せよ。」
ジュダルは舌打ちしながらも、紅炎に言う。
を一人禁城に残すなど危険この上ない。残すならば誰か信頼できる人間を傍に置いておくべきだ。最近のが精神的に不安定であることも承知している。白瑛が傍にいることが、は安心できるだろう。
「白瑛は将軍だぞ?」
「仕方ねぇだろ?が行きたくねぇんだから。」
怒る紅炎に、ジュダルは腰に手を当てて手をひらひらさせる。
玉艶は大きく紅炎とジュダルの話に口を出す気はないようだが、の勝手を後押しする気であることが明白のため、紅炎も強く出るに出られない。
は黙って俯いていたが、意を決したようにくいっと玉艶の服の袖を引っ張った。
「どうしたの?、」
「・・・行く、ジュダルと離れるのは嫌だよ、」
白瑛といられるというのは、にとって魅力的な申し出だった。だがそれよりも、ジュダルと離れる方が嫌だ。ヴァイス王国には行きたくない。でも今一人で残されることの方が不安だった。
玉艶はその漆黒の瞳を何度か瞬いた。少し驚いたらしい。だが取り繕うようににっこりとに微笑んだ。
「そう。でも、震えているわ。大丈夫?」
言われて初めて、は彼女の袖を掴む自分の手が震えていることに気づいた。
「おいおい、良いのかよ。」
ジュダルは今にも崖から飛び降りそうなほど真っ青な顔をしたにもう一度確認する。
ヴァイス王国に行って自分の過去の記憶に触れる怖さと、ジュダルにおいて行かれる怖さを折半して、ジュダルにおいて行かれることの方が怖いと判断したのだろうが、それはあまりに追い詰められた取捨選択だ。
「・・・で、でも、ジュダルにおいて行かれるのは、いや、だよ」
なぜだかわからないが、ジュダルといると安心するのだ。怖い記憶も全部遠ざかる気がする。だから、彼とともにいたい。
「息子よ。一つだけ頼み事をしても良いかしら。」
玉艶は紅炎に改めて向き直る。それは頼み事と言うよりは命令だ。紅炎はイエス以外の答えを返すことは許されない。
「は私のお気に入りなの。だから、彼女の意志を最大限、優先させてあげて頂戴ね。」
「・・・御意。」
紅炎は礼をしてその命令を受け入れる。玉艶は満足げに頷くと、裾を翻してそのまま去って行った。
そのままの君を愛す