「行きたくないなー」
は用意されたカウチに座ってもきゅもきゅ果物を食べながら、躰を右左させる。それとともに長い銀色のお下げがゆらゆらと揺れた。
「…おまえさぁ、一応皇后の前なんだけど。」
ジュダルは心底呆れたように机に肘をついて、を見た。の前ではのんびりと椀を傾けながら、皇后である玉艶が笑っている。
「本当に、は食いしん坊ね、可愛い、」
「…目に幕かかってんじゃねぇの。どいつもこいつも。」
玉艶の呟きにジュダルは冷ややかな目を向ける。ただ、もし紅炎がその言葉を聞いたなら、おまえも同じだとジュダルに言っただろう。
なぜだか全くわからないが、ジュダルがを拾って初めて会ったときから、は玉艶のお気に入りだ。当初アルサーメンの魔性が何故気に入っているのか、なにか意図があるのかと疑っていたが、そんなそぶりもない。
ただ玉艶はの意思を尊重し、に不都合がないかに目を配る。当然だがジュダルが買っただけの芸妓であるに、後ろ盾などあるはずもなかった。だが、玉艶がを気にかけることによって、女官や衛兵たちのに対する対応は変わった。
は馬鹿だから何もわかっていないだろうが、政治というのは簡単なものではないのだ。
「あぁ、こっちの柿も取り寄せさせたの。貴方、こう言うの好きでしょう?」
玉艶はにこにこ笑って女官に合図を出し、切り分けられた果物ののった皿をの前に出させる。
「わぁ、綺麗な橙色だね、」
は目をきらきらさせて、橋に置いてあったフォークを手に取り、それを口に運んだ。
「おいしー。」
「ふふ、それは良かったわ。」
玉艶は優しく目を細め、の頭を撫でる。
はよくわかっていないが、彼女が身に纏う服や宝飾品、毛皮をはじめ、多くのものが玉艶から与えられている。ジュダルは幾枚かの服は新調させたし、金の耳飾りも送ったが、があまりにみすぼらしい格好をしていたためで、必要故のもの。それ以上は買わない。
だが、玉艶は式典やが表に出ることになる度に服の新調を命じ、節句やなんやと理由をつけて食べ物やら服など高価なものをに与え、こまめにの様子を神官たちに確認させていた。
呼び出しも頻繁で、当初彼女はジュダルからを取り上げる気なのかと非常に警戒もしたが、ただお茶とお菓子、食べ物を出しての話を聞くだけだ。だいたい10時過ぎから昼過ぎまで、のんびりととりとめのない話をする。
ジュダルは家族というのがどういったものなのかさっぱりわからないが、下手な皇族よりも親子らしい。玉艶の実子である白瑛ですらも、玉艶とそれほど親しくはなく、玉艶のの可愛がり方に首を傾げているほどだった。
「玉艶さんは、ヴァイス王国にいったことある?」
お茶をしているときは、必ず人払いがされている。
玉艶も許可しているため、二人の時、はもはや玉艶に敬語すらも使わなかった。皇后という地位を持つ玉艶に対してあまりにそれは不敬だったが、玉艶は心底愛しそうにに対して優しい眼差しを惜しげなくそそぐ。
「いえ、でも北にある寒い地域で、たまに貿易物品もよく煌帝国にやってくるわね。」
「まずいお茶とか?」
「まずいお茶?」
「うん。お母さんが好きだったんだ。変な葉っぱを入れて飲むと、美味しくなるんだけど、そのままだとまずいんだよ。」
は楽しそうに自分のことや最近あったことを話す。それを玉艶は穏やかに聞く。そんな感じで過ごす時間を、玉艶は心から楽しんでいるようだったし、もリラックスしていて、最近あったことをとりとめもなく話すのだ。
玉艶の目は、いつもの様子からは想像も出来ないほど慈愛に満ちあふれている。それがジュダルには気味悪く感じられたが、玉艶がに害をなすそぶりを見せたことは一度もなかった。それは神官たちも同じで、マギであるジュダルに対して以上にを敬っている節がある。
「気色悪ぃ、」
ジュダルが感じる違和感は、日頃の玉艶を知っている故だ。しかし目の前にある光景は、どこから見てもただの親子の団らんでしかなかった。
「紅炎はよくしてくれる?」
玉艶は茶を飲みながら、穏やかにに尋ねる。
「んー、おじさんは怖いからすきじゃないよ。それに、なんか前、変なこと言ってた。」
は宙を見てから、少し考えて答えた。
「へんなこと?」
「うん。なんか皇族の妃にならないかって。」
「はぁあああああ?!」
聞き捨てならない言葉に、ジュダルは目を見開いてを見る。
の今の地位は神官付きの巫女だ。ただし神官付きの巫女という綺麗なことを言っても、はジュダルの愛妾に近い。紅炎が言ったことは、を還俗させ、皇族の妃にして世俗での地位を与え、ジュダルから取り上げるということに他ならない。
だがは別段紅炎の申し出に悪意や政治的内容を感じていないらしく、普通に続ける。
「おまっ、なんでそんなこと言わねぇんだよ!」
ジュダルはに詰め寄る。
それは要するに紅炎がジュダルから、を政治的な理由のために取り上げようとしていたと言うことだ。の長い銀色のお下げを掴んで軽く引っ張ると、は少し眉を寄せて目尻を下げ、髪の毛を押さえた。
最近ジュダルがの髪を掴むと、引っ張られないようにちゃんと押さえるようになった。ジュダルも昔のように遠慮なく思い切り引っ張ることもない。
「え、え、あ、言わなきゃ駄目だった?」
「当たり前だろ!おまえ、本当に結婚させられたらどうすんだよ!!」
「え?でもおじさんは、どうだ?って聞いただけだよ、」
は危機感の全くない答えを返す。
あまり他人に強制されると言うことがよくわからないらしい。ジュダルに抱かれることを強制されたときもそうだったが、はあまり他人になにかを強制されても抵抗しようとせず、ふわっとしているし、本当に嫌なときは全力で逃げる。
その上あまり将来的なことを予想して、行動することがなく、行き当たりばったり、その場で行動を決める。
だから、ジュダルはを守るために心を砕くし、不安になる。
「それに、なんと答えたの?」
玉艶はすました顔のまま口元を隠す。
「別に今で困ってないからいーですって答えた、と思うよ、」
にとって些細なことだったらしく、答えた内容すらもよく覚えていないらしい。ただどちらにしても断ったのだ。
「紅炎のことは好きではないの?」
「うん。おじさんは好きじゃないよ。だって難しいことばっかり言うし、怖いし、上からいろんなことを見てて、好きじゃないかな、」
は少し不機嫌そうに唇をとがらせた。
ふわふわと浮くように生きて、今も不安定さを危険だとすら思っていないと、確固とした意志と共に生きてきた紅炎では、意見が合わないのは当然のことだ。紅炎とての意見を理解しないわけではないが、絶対受け入れたりしない。
だから、は紅炎を好まない。妥協したりしないからだ。
「あらあら、でも、神官付きの巫女という地位は、少し弱いのかしら。」
玉艶はぽつりと呟くように零した。
マギであるジュダルの神官付きの巫女。ヴァイス王国の首席魔導士。この二つがの現在の地位である。だが、それは皇族の身分と比べれば皇帝国内ではどうしても見劣りする。なんだかんだ言っても神官は皇族よりも下に位置する。紅炎が本気でを欲すれば、それを拒否できないのだ。
「は、ジュダルが好き?」
玉艶は目を細めて、に問う。あまりに直接的な問いに、隣で聞いていたジュダルはお茶を吹いたが、玉艶の瞳はまっすぐ答えを求めている。
は翡翠の瞳をぱちぱちと瞬いてから、こくんと恥ずかしげもなく頷いた。
「うん。ごはんくれるし、わたしがいやなことはいやって言ってくれるし、たまに髪の毛ひっぱられるのは痛いけど、あったかいよ。」
恋愛感情と言うには少し足りない。でもそれこその心からの本音なのだろう。ジュダルはが迷いなく頷いたことに、心から安堵すると同時に、自分の心に広がる温かいものに、戸惑いを覚えた。
何故、自分はに好ましいと言われたことを嬉しいと感じているのだろうか。こんなにほっとしているのだろうか、それが今のジュダルにはまだわからない。
そういう感情を抱いたのは、初めてだった。
「そう、貴方はジュダルと一緒にいたいのね。」
玉艶はに手を伸ばして、その長い銀色の髪をそっと撫でる。その仕草は限りない愛しさを含んでいて、ジュダルの知らない母を思わせるものだった。
「うん。」
は頷いて、翡翠の瞳を細める。玉艶はすっと立ち上がり、椅子に座っているの元まで歩み寄ると、の前に膝をついて彼女の膝の上にあった手をそっと両手で握る。
「、何かあったらすぐに言うのよ。」
下からの翡翠の瞳をのぞき込んで、彼女は柔らかに微笑む。
に対して玉艶は優しい母親のような態度を絶対に崩さない。皇后という権力を使ってありったけのものをに与えようとする。そしておそらく、の願いを一番に考えて玉艶は動くだろう。
それが何故かはわからない。だが今までの経緯からジュダルはそのことを疑っていなかった。
「貴方が望むのならば、私がなんだってかなえてあげるわ。」
他人には残酷で、どこまでも酷いことができる玉艶が、唯一どこまでも、誰よりも優しく慈しむ相手。それがであることを、ジュダルは少しずつ理解し始めていた。
遠い日の夢