ゆらゆら揺れるのは夢だ。ただの夢だ。

 消えてしまいたいと願うほどの後悔と、その願いをかき消す強い愛情。自分が誰の娘であったとしても、運命を憎むことを、他人になりたいと願うことを、愛されているが故に許されない。悲しくて、でも、愛しくて、大切にされていて、だから悲しい。

 何も出来ない自分を、消してしまいたい。でも愛されているから消えられない。



 ――――――――――――――あぁ、



 消えちゃいたい、と心が繰り返す。冷え切った躰が柔らかい温もりに包まれる。



 ――――――――――――――ごめん、ごめんね、愛してる、愛してるアル、だから、



 泣く声が聞こえる。冷たいその人の、悲しげな声音。後悔と確かなたくさんの愛情が、今も絶え間なく与えられ、を生かす。だからはこの世界に存在し、こうして消えることなく生きている。生かされている。



 ――――――――――――――忘れて、どうか、どうか、幸せに、生きて、



 それは誰かのとても小さな願い。幸せを、願った、だからここに生き続けている。生きなければならない。

 とても、悲しくて、とても愛おしい。わたし、自身。

「んー…」



 は目尻を自分でこすりながら、だるい身体を動かそうとする。自分の上にのせられているジュダルの腕をどかし、浮遊魔法で寝台からまるで吸い寄せられるように天幕の外へとふわりと浮いて、出る。

 足の悪いは魔法を覚えるまで自力で動くことが出来なかったが、今では問題なく動ける。浮遊魔法は最初こそ出来なかったけれど、今は得意で、自分で色々なところへ行けるこの魔法がは一番好きだった。

 野営のための天幕とはいえ、高位の神官であるジュダルと、一応ヴァイス王国の首席魔導士であるのために作られたものであり、設備も整っている。外には衛兵がいたが、避けるようにして外へ出て、は近くを見下ろせる木の幹に座った。

 明け方が近いのか、紺色の空は徐々に白んできている。



「…」



 耳と肌が痛くなるような冷たさが、ぼやけた頭に心地よい。いつも来ているレーム風の薄くて白いワンピースであるため、防寒をしていないので外はとても寒くて、の肌を突き刺すように寒さが身にしみていく。

 だが、それが酷く心を落ち着かせる。

 木にもたれかかるように触れれば、それもやはり冷たいが寄り添えば何故か僅かに温かい。は静かに目を閉じて、僅かな温もりを追うようにそっと木の堅い幹を撫でる。



 ―――――――――――――――



 高くて明るい、養母の声が聞こえたような気がした。

 ヴァイス王国と煌帝国の国境は、が生まれ育った村は近い。の中にある記憶は、ただ、ただ、辺境の村で養父母とともにあった愛しい日々だけだ。それだけで良いはずなのだ。



「怖いよ、」


 ジュダルや紅炎の話から聞くに、はヴァイス王国で立法を司る首席魔導士だった母・マフシード・スールマーズの元に生まれ、生まれる前から次の首席魔導士になるという予言をされていたという。だが、生まれたは魔導士ですらもなかった。

 そのまま、普通に生きていくことが出来れば良かったが、時は丁度国王と議会が対立し、首席魔導士が議会に荷担する時代。すでに首席魔導士が魔導士である必要性はなく、幼い自体もまた、政治的な利用価値を見いだされ、そのまま首席魔導士に遇される予定だった。

 それを恐れた国王によって、は迷宮に落とされた。迷宮という場所は、とても危険な場所であると同時に王の力と呼ばれる金属器を与えられる場所らしい。はそれを保持しており、何らかの方法で帰ってきたのだ。

 ただそれは、首席魔導士になると予言されていたにもかかわらず魔導士としての資格を持たず、政治的な他人が定めた意味しか持っていなかったを、より力のある存在に仕立て上げた。

 結果的に国王との争いの中での実母は殺され、何らかの形では母に付き従っていたファナリスたちに連れ出され、記憶も何もなくただ穏やかに辺境も村で暮らしていた。ジュダルや紅炎が把握しているの人生は、だいたいそんなところらしい。

 ただ、は知らない。牧歌的な穏やかな生活、ふわふわと浮いていて、平穏で、退屈で、眠ってしまうような、何もない生活を辺境の村でしてきた。それすら、は知らないのだ。




「…」




 突きつけられる政治や地位はにとっては何もわからない。不安の対象でしかない。だから、ヴァイス王国には本当は行きたくなんてないし、昔の自分の記憶なんてどうだってよい。は記憶を取り戻すことの方が、地位を手に入れたり、自分を知ることよりもずっとずっと怖かった。

 それは植え付けられた感情と、愛情だったが、はその記憶すらも失っていた。



「さむい、」



 上着すらも着ておらず、寝間着のまま出てきてしまったため、とても寒い。

 従者となった従兄弟のフィルーズが言ったとおり、煌帝国の北限と国境を接するヴァイス王国に近くなればなるほど、とても寒い。よく動物を捕まえて、養父母たちは毛皮の服を作っていたなと思い出す。

 とても寒い、多分もうすぐ雪が降るだろう季節だ。

 手がかじかんで動かなくなるほど震えているのに、なんだか穏やかな気持ちで眠たい。瞼が落ちそうになるとまた、柔らかい声が落ちてくる。



 ―――――――――――――――おやすみなさい、



 今のが知っている母の声は、養母だというセピーデフの声だけだ。夢の中で会える実父だという男は、確かに自分と同じ翡翠の瞳を持っているし、抱きつけば温かいが、それでも現実の温もりとは違う。

 記憶の中にある今の温もりが一番大切だ。それが、が幼い頃から、いや魂の奥底に刻まれてきた、決めごと。たった一つだけの、たいせつなもの。



 ―――――――――――――――おまえは、俺とは違う、



 運命を与えた、魂が覚えている低い声が響く。 

 うん、違う。貴方のようにわたしは万能ではないし、賢くもない。カリスマ性もない、同じなのは“容姿”だけ。上から他人を見下すことは出来ないし、きっとてっぺんに立つだけの技量も資格もない。でも、わたしにはいっぱい温かい人たちが周りにいて、それだけを大切にする。

 その資質だけ、持っている。



 ―――――――――――――――おやすみ、



 温かくて優しくて、ふわふわと浮くような安心感。それに囲まれては生きてきた。ずっとずっと悲しみと温もりしか抱いてこないほどに、愛されていた。運命を受け入れることを自ずと知っていた。



「うー…っ!」



 幹にもたれかかったまま、瞼を下ろす。だが突然後頭部に衝撃を感じて、驚きのあまりあたりをきょろきょろと見回した。自分の隣に影がある。



「おまえ、ちょろちょろするんじゃねぇ!」



 太いおさげが見えて、それを辿るように顔を上げると、怒りに顔を赤くするジュダルがいた。



「あ、じゅ、だる?…あ、いた!いたたたっ、」

「あぁ?じゃねぇだろ!こんな朝方に何やってんだよ!」



 彼はの三つ編みを掴んで、ぐいっと引っ張る。




「あ、なんか、外に出たかったの。」

「出たかったのじゃねぇよ!…ったく、ここは国境に近いんだぜ。」

「ふぅん、じゃあヴァイス王国は近いんだね。」

「そういう意味じゃねぇよ、」





 政治や国防など考えたこともないは、国境近くだと言われても、危険だとまで考えが発展しない。わからない。



「うっ、くしゅ、」



 すでに日は昇り始めていて、冷たい外気が徐々に温められている。だがやはりしっかり目を開けると冷たくて、ぶるりとは自分の躰を抱いて震え、小さなくしゃみをした。



「あぁ、もー、どーでもいいから、さみぃ、早く戻ろうぜ、」



 ジュダルの手がに伸びてきて、の躰に触れる。だがその手はすぐにひくりと硬直してしまった。彼の手がびっくりするほど熱く感じたのは、があまりに長い間外に出すぎていて、躰が冷え切っていたからだ。



「つめてっ!おまっ、…早く戻んぞ!」




 少し心配そうに目尻を下げ、青い顔をしているジュダルを眺めて、は小さく微笑んで、ジュダルの胸に頬を寄せる。

 やっぱり温かい、目の前にあるこの温もりだけが、自分を示す全てだと、は知っていた。


誰かの夢