老人であるババク・シャフナッツはずっとヴァイス王国の王家に仕えてきた魔導士だった。今の国王であるヴィルヘルム4世、ファナリスに殺された先代、そして先々代の三代にわたって仕え続けてきた。

 ヴァイス王国は行政を世襲の国王が、立法を民衆から選ばれた議会が、そし司法をマギによって選ばれた主席魔導士が担う、三権分立を旨としたすばらしい国だった。このシステムを人々は愛し、何よりも先進的なものだと思っていた。

 20年以上昔、司法を司る首席魔導士の死に伴い、一人の少女が主席魔導士の地位を継いだ。

 マフシード・スールマーズ、魔導士の名門・スールマーズ家出身の、月光の名を持つ若干18歳の主席魔導士だった。時を同じくして議会で選ばれた優秀な壮年の男がいた。イマーン・パールシャー。彼は諸国を周遊した、多くの経験を持つ、議長として理想的な男だった。

 そして若く賢い王太子のヴィルヘルム。


 この三人がいつか全てを担い、そしてヴァイス王国の繁栄を決定づけるだろうと、誰もが思っていた。すべてを変えたのは、一人の賢者だった。

 ババクはマフシードが産んだ幼子を見るといつも思い出した。幼子の、あの賢者と同じ翡翠の大きな瞳。賢くもないくせに、ただ莫大な力を持って、人々を魅了した。幼子はマフシードにそっくりだと他の者は言っていたが、ババクにはそう見えなかった。

 漆黒の長い三つ編み、義務など何も知らぬかのように傍若無人で、好奇心と鮮やかなほどの光に包まれた、翡翠の瞳。特別賢くもなく、特別カリスマ性があるわけでもないのに人なつっこくて、明るい、まるで太陽のような。

 そう、彼自身が太陽のようだったのだ。

 イマーンも、そしてマフシードもあっという間に見せられてしまった、ぎらぎら光る、賢者という名の太陽に。



「幸いなる者よ、」



 ババクは小さく呟いて、目の前に広がる豪華な部屋を見つめる。

 要塞都市の中にある、一番豪奢な一室。多くの人が彼女を気遣うように目を向け、入ってきたババクを警戒している。

 だがそこの中央にちょこんと座っているのは、小柄で、翡翠の瞳に戸惑いこそ浮かべているが、あまり深くババクのことを警戒していなさそうな、無邪気な少女。立派な椅子に座り、幾分か成長していたが、それでも見間違うはずもない。白銀の三つ編みに、そつなく整った顔立ち。

 そして、あの賢者と同じ、翡翠の瞳。

 があの遠い日と全く変わらず、あの賢者と同じように多くの人を連れ、そこにいた。











 は国王側からの使者であるババクと面会することとなった。

 当然マギのジュダルと煌帝国の皇太子・紅炎、そしての友人であり第一皇女の白瑛。護衛としてファナリスのアルスラン、そして魔導士での従兄弟であるフィルーズが同席する。これだけいれば誰が何をしようと、を守れるだろう。



「おまえ、ぜってー動くんじゃねぇぞ。」

「ジュダルが心配性、最近、なんか白瑛みたいね。」



 は周りの緊張感が全く理解できないのか、のんびりした様子で言う。それがジュダルの苛立ちを煽って、ジュダルはの頭を思いっきり小突いた。



、お願いだから、くれぐれも気をつけて頂戴。私たちたちだって、万能ではないのよ。」




 白瑛は苦笑しながら、にまるで妹にするように言い聞かせる。



「だって、足が悪いから誰かが手を貸してくれないと、動けないよ。」

「その割にはカウチから勝手によく落ちるじゃねぇか。」

「そうかな、」



 はのんびりした調子でそう言って、小さく息を吐いた。衛兵が人を入れて良いかと紅炎に目を向ける。この中で一番身分が高いのが紅炎だからだ。

 とはいえ、今回の主役はである。



「良いか。不用意な言動は避けろよ。」



 紅炎は一応に釘を刺すが無駄だとわかっていた。彼女は存外従順そうに見えて、自分のしたいようにしかしない。

 使者が入ってくると案の定、はあっさりと口を開いた。



「こんにちはー、いらっしゃーい。」



 がにこにこと笑いながら、手を挙げて躰を傾げ、誰もが拍子抜けするような空気を纏ってそこにいる。舌の根も乾かぬうちにこれだ。



「おいっ!」



 の隣に座っているジュダルがの背中を使者には見えないように叩く。紅炎がため息をついて、衛兵たちにババクを部屋に入れるように言った。



「こいつ、煌帝国の基地で俺たちを襲ってきた魔導士だ。」



 ジュダルはババクの顔を見るなり、人差し指で彼を示して目尻をつり上げる。それによって同席していた紅炎や白瑛、そしての護衛であるアルスランやフィルーズの表情が硬くなる。



「ババク・シャフナッツと申す、ヴァイス王国国王に仕える魔導士でございます。」



 ジュダルの怒りの眼差しにもすました顔でババクは言い放った。だが、彼以上には雰囲気に流されなかった。




「ねえ、おじいさんは、何をしに来たのかな、」





 はじっとその翡翠の瞳でババクを見つめる。ババクはかつて幼かった時のしか知らない。他人にふわふわと浮くように従っているようなだが、彼女は逆に他人に自分のペースや空気を乱されることがない。

 それは、ある意味で王としては重要な力でもある。そしてだからこそ、ババクはこの少女が恐ろしくてたまらなかった。



「国王陛下から、お届け物でございます。」



 ババクが後ろの付き人を示す。彼が持っているのは、四角い箱だった。大人の手のひらサイズの箱だ。付き人はそれをゆっくりと開く。

 そこに入っていたのは、人の指と赤い髪だった。



「っ!」



 白瑛が口元を押さえて目をそらす。指には銀色の指輪がはまっていて、それをは痛い程よく知っていた。



「…」



 は翡翠の瞳を丸く見開き、それから目を細める。



「脅し、という訳か。」



 紅炎が不敵に笑ってババクを睨み付けた。ジュダルも不快感をあらわにし、ヴァイス王国の国王を知るフィルーズは真っ青な顔でその指輪を見つめている。



様、貴方が殺されない限り、貴方のお父上や、貴方を匿ったファナリスたちはひとりひとり殺されるでしょう。」



 ババクは冷淡に、感情のない声でにまっすぐの目を向けた。は目をこらすようにその指を眺めていたが、ふよっとカウチから浮遊魔法で浮く。




、」




 ジュダルを諫めるように呼ぶが、は構わずヴァイス王国側の付き人の持つ指に、そして指輪に触れる。



「ねえ、わたしがいなくなったら、殺さないのかな、」



 は指輪を震える手で取り、窓の明かりにかざす。



「えぇ、お約束しましょう。貴方の死のみが私たちの望みです。」



 ババクはを敬うように、恭しく頭を下げる。



「おい!」



 ジュダルがの手を掴んで、ぐっと握る。だが、それで、ジュダルは気づいた。の指輪を握りしめた手は、酷く震えていた。ふわりと金色のルフが舞う。

 それが、とジュダルに教える。



「…うそつき、」




 は震える声で、押し出すように言い、首を横に振る。


「わたしはね、貴方に聞きたいの、」



 黒く染まっていない、指輪にまとわりついていたそのルフを、魔導士の目はとらえる。金色の、なんの後悔もない、綺麗なルフは、まだ大いなる流れに環ることもなく、の傍にやってきて、の頬に光を寄せた。



「貴方は、どうして、こんな酷いことをするの?」



 高い声音は、悲しそうに揺れていた。翡翠の瞳は涙で潤み、ゆらゆらと揺れている。



「私は国王に仕える魔導士です。だから、」

「でもこうやって、酷いことしているのは、貴方でしょう?」




 ババクは自分の大義を口にしたが、はまっすぐに彼に問う。

 それは何も考えず、ただ国王の命ずるがままに犯罪に手を染めてきたババクの罪をまっすぐ見据え、問いかけている。

 言い訳は、許されない。




「今、こうしてわたしにこれを持ってきたのは貴方でしょう?」



 血にまみれた指輪を、は手のひらに載せ、彼に突き出す。それがババクの罪そのものだった。


己が罪