「ふぅ、あーやっぱ魔力結構使うな。負担もかかるわ。こりゃ。」




 上空から、銀色のお下げをなびかせながら降りてくる少女は、疲れのせいかうなだれ、杖を両手で持ったままぐったりしていた。

 敵も味方も、兵士たちのほぼ全てが、先ほどのあたりを真っ白に染めるような魔法を見ていたため、呆然と武器を取り落とし、膝をつく。抵抗しようもないほどの、そして援護しようもないほどのとてつもない力。戦意喪失。敵にとっても味方にとっても、それは存在意義を失わせるものだ。

 ジュダルや紅炎、白瑛など見ていた面々も、ただ呆然とを眺めるしかない。言葉を発する者はおらず、ただ冷たい風だけが人の間を通り過ぎて行く。



「馬鹿だなぁ。おまえ。こんなことさえしなけりゃ、はおまえのものだったかもしれないのに。」



 の、いや男の翡翠の瞳がかつての旧友であったヴィルヘルムに向けられる。

 若く賢い、ヴァイス王国の王太子であったヴィルヘルム。司法権を司ることを約束され、才媛として人の注目を集めたマフシード。そして若く力もある、賢者。誰もがヴァイス王国の未来は明るいと疑わなかった十数年前、ひとりの幼子が生まれた。

 死ぬはずだった、幼子。それは、神に愛された娘となった。それが、間違いだった。

 賢者は子供の運命をねじ曲げるために命を捨てることを選び、マフシードは娘を何よりも守ることを選んだ。それでも、運命は王として、その幼子を選んだ。そして幼子は、




「そんなことはありえないっ!そいつは、シンドバッドを選んだ!」



 神に選ばれた幼子は、ひとりの王となるべき少年を選んだ。それは、ヴァイス王国の国王であるヴィルヘルムではなかった。全ての運命を無にするために、ヴィルヘルムは幼子を、を殺さなければならなかった。



「…誰だそれ。」



 興味もなさげに、の姿をした男はそう言った。



「ま、どっちでも良いか。俺はただ、守りたいだけだ。」



 魔装のとけた、銀色の杖を左手に持ちじかえて、自分を示す。

 どんな存在であろうとも、例えそれが化け物であっても、神の恩寵を受けた者であっても、彼にとってもが愛しいものであることに変わりはない。



「いつもそうだ。おまえは何も見やしない!世界のことも、国のことも!!」



 彼は娘しか見ていなかった。本来なら世界のことを考えなければならない立場にありながら、他の全てをどうでも良いと切り捨てた。彼はいつも、自分の身近な者を全力で守った。彼にとって所詮、世界とは、自分の手や力の届く範囲だけだった。

 だからこそ、自分の娘が世界にとってどうなのか、なんであるのかを見ることを拒絶し、娘の力を、記憶を奪った。



「余から、これ以上何を奪うというのだ…!」



 ヴィルヘルムは力なく、膝をつくしかなかった。

 足の悪い、ただの幼子。生まれながらにして持っていた不思議な力。賢者によって次期首席魔導士という地位を手に入れ、金属器を手に入れ、そしてその資格を持って、ひとりの少年を王に選んだ。



「…余を、余を殺すとでも言うのか…!」



 懺悔でもするようにうなだれる。ただ最後まで、賢者はヴィルヘルムにどこまでも冷淡だった。



「まさか。この躰で殺したらが人殺しになっちまう。そんな価値、おまえにはねぇよ。」



 司法権という断罪の権利を与えられながら杖を振ることすらもせずに告げて、だが、と続ける。



「ただ、誰もおまえを許したりなんてしねぇさ。」



 静かに翡翠の瞳が閉ざされる。それと同時に、ヴィルヘルムの躰がびくりと大きく揺れた。彼の胸には後ろから深々と槍が突き立てられている。それは魔導士の杖でもあった。

 そこにいたのは、を襲ったこともある、ヴィルヘルムの部下であった老齢の魔導士だった。



「ババク!貴様!!」

「死ななければならないのは、様ではなく、貴方だ、」



 ババクは先代の時代から国王付きの魔導士として王家に仕えてきた。

 議会と国王が争い、その狭間で司法権を持つ主席魔導士が複雑な立場になってからも、そして主席魔導士が殺され、議会と国王がまともに争い、殺し合うようになってからも、ババクは常に国王の傍で、時には人質を攫い、殺し、そうして生きてきた。

 国王に仕えるのが自分の義務であるからと、自分を殺し、生きてきた。国王の命令だからと、自分を正当化してきた。



 ―――――――――貴方は、どうして、こんな酷いことをするの?


 は、そんなババクの浅ましさをまっすぐ見抜いた。

 命令されたから、なんて言い訳、許されるわけがない。実際に国王の命令で手を下したのは自分であり、罪は国王のせいでも、誰でもなく、自分のものなのだ。



「…な、」



 ヴィルヘルムは何故、と小さな声で言って、青色の瞳を見ひらいたまま事切れる。その空虚な瞳に映っているのは、彼が最も憎んだ男と同じ翡翠の瞳を持った、白銀の髪の少女のみ。

 ざっと、冷たい風が戦場を駆け抜けていく。それは過去すらもすべて攫っていく。

 ババクは国王を刺し貫いた、血にまみれた手を離すと、白銀の魔法の杖を持つ少女の前に膝をつき、頭を下げた。



「…すべては、貴方の裁きの下へ!!」




 低い声は、呆然としている間に主を失った国王軍の兵士たちに響く。命令などせずともババクに倣うような形で、国王軍の兵士たちが膝をつき、頭を下げる。



「どんなにねじ曲げても、ここにくるが運命か、」



 瞳の色と同じ翡翠の弾のついた杖の先を下に向け、悲しそうに、翡翠の瞳を細めて人の波を眺める。何度生まれ変わろうと、地べたを這いつくばるように生きていても、最終的にはいつもここに行き着く。



「待てよ、」



 ジュダルが自分の杖をくるりと回して、緋色の切っ先をに向ける。



「てめぇ誰だよ。」


 の姿をしているが、中にいるのは彼女ではない。感慨深げに人に向ける翡翠の眼差しに、あの無邪気さがない。そして彼女の奥底にある魔法の気配に、ジュダルは前から気づいていた。


「あー、おまえが噂の髪の毛を引っ張ってくるマギのジュダル君かぁ?」



 はくるりと振り返って、翡翠の瞳をきょとんとさせると、あ、と納得したように手を叩いて頷く。あまりに周りの雰囲気に浮いた、軽い口調に、周りの者はついて行けないが、ジュダルは気持ち悪さに思いっきり顔を顰めた。

 日頃のを知っているだけに、彼女の姿で、全く違う者がいるというのは、薄気味悪い以外の何物でもない。



「あーわりぃわりぃ、そうだよな。気色わりぃよな。ま、日頃は出てこねぇし、許してくれよ。」



 ジュダルがあからさまに不快感を示したことで、彼は目尻を少し下げ、手をひらひらさせて謝った。



「でも、俺には嬉しいことだよ。こいつを思ってくれるヤツがいるってことだしな。」



 翡翠の瞳が優しく、温かい感情とともに細められる。その仕草がに僅かに似ていて、ジュダルは少し躊躇いを覚えた。



「おまえ、の父親か?」



 ジュダルが紅炎に聞こえない、小さな声音で問うても、彼は答えない。ただその翡翠の瞳でジュダルを映すのみだ。



「もうそろそろの体の方が限界かな。」



 柔らかに、の姿をした彼は笑う。

 大がかりな魔法をマギと同じように使うことは、の体に大きな負担となる。封印がこれ以上緩んでも困る。



「ま、よろしく頼むよ、ジュダル君。まだ、は…、」



 軽い調子が途切れ、ジュダルが言葉を返すよりも早く、翡翠の瞳が閉ざされる。その途端に浮遊していた躰から突然力が抜け、崩れ落ちた。



「おいっ!!」



 ジュダルが慌ててを受け止め、地面に激突するのを防ぐ。その時にはもう、彼女が纏っていた違和感は全て消えていて、青い顔のが眠っているだけだった。