紅炎から見れば、という少女は、何かがおかしかった。

 保有する二つの金属器、それを伴う他者を歌で治す治癒能力、マギと同じ周囲のルフをかき集め、自分の魔力とするその力。父親だという、の中に住まう“何か”。失った全ての記憶。そして、組織と玉艶の寵愛。

 凡庸な性格と、マギであり、神官であるジュダルという盾に隠れている、という存在は、空虚でありながら、世界の理から外れた、異質な者だ。



「おまえはおかしいと思わないのか。」



 紅炎はジュダルをぎらりと思う。ジュダルは腰に手を当て、長い三つ編みを揺らして紅炎を振り返ると、疎ましそうに眉を寄せた。

 ヴァイス王国の冷たい風が、夜と混じって全てを黒く染めていく。



「あ?何がだよ。」

「あのガキはおかしい、あれはこの世の理を逸脱している、なにかだ。」



 ジュダルはマギだ。誰よりもルフを見る目を持ち、この世の理を理解し、司るはずの存在。だからこそ、ルフに愛され、逸脱するのおかしさを誰よりも理解出来るはずだ。



「おかしい?まあ、そりゃ、あの大食いはおかしいけどさ。」

「そういう話じゃない。わかってるだろうが、」



 紅炎は腕を組み、仁王立ちをする。ジュダルは「はっ」と馬鹿にするように笑って、手をひらひらさせた。



「だからなんだよ。あれは俺の玩具だぜ。」



 ジュダルが宮廷で興味を持ち、買った芸妓。それがたまたまヴァイス王国の首席魔導士の娘だったとか、そういうおまけがついてきただけで、ただのジュダルの暇つぶしの玩具だ。例え今のように過分な暇つぶしになっていたとしても、それ以上の認識は一切ない。

 ジュダルがその玩具に特別な感情を持ち始めていたとしても、それはの能力を愛しているのではない。彼女が彼女で有る限り、他のことはどうでも良いのだ。



「本気で言っているのか!?記憶がないなどおかしい。と入れ替わった、男らしいなにかが、関係しているはずだ」



 一体どんな魔法なのか、紅炎にはわからない。だが、理論的に考えれば、今回戦場での意識を乗ったのは、おそらく夢でが会えるという“父親”が何かを知っている。の記憶を消去しているはずだ。



「魔法ならおまえがどうにか出来るんじゃないのか。」

「出来るかよ。あいつにかかってる魔法の命令式は単純じゃねぇし、」



 ジュダルとて、の中にある魔法の気配を、理解していないわけではない。ただにかけられている魔法は厳重に封印されており、常ならばほころびなど見せないほど、強固だ。



「だが、忘却魔法はそれほど持続力はないはずだ。」



 固定されたものにかけられる魔法は綻びもなく強固だ。だが、の増える記憶に無理矢理かけられた、かけられたばかりの魔法は、まだ解けるはずだ。



「彼女を過去に触れさせれば一定は、」

「なんでその必要があるんだよ。」




 ジュダルは心底紅炎の言っている意味がわからない、いや、わかる気もなく、あっさりとそう言った。




に記憶を取り戻す必要なんてねぇじゃん。あいつも望んでなさそうだし、」




 巧妙に隠され、封印されているそれを暴く気はジュダルにない。はそれに怯えているし、ジュダルにとって記憶があろうが、なかろうが、である限り、それらは心底どうでも良い話題だ。

 ましてやもそれを望んでいないというのに、何の必要があるのだ。



「それは記憶を忘れているからだろうが!記憶を断片的にでも取り戻せば、その重要性がわかるはずだ。力を持つ限り、それは義務のはずだ。」



 記憶は、誰にとっても重要なものだ。忘れてはならないかけがえのないものだ。例え苦しいものだったとしても、悲しいものだったとしても、それだけではないはずだ。そこにはが実母や、他の人々と過ごした、優しい記憶もともにあるはずなのだ。

 忘れているからこそ、は記憶を取り戻すことに怯える。価値がないなどと思うのだ。

 だが、冷たい風に空から降る白いものが混じる。北に位置するヴァイス王国の冬は、煌帝国よりもずっと早くやってくる。凍てつく白片は温もりを全て攫っていく。



「だったとしても!」



 ジュダルは声を荒げる。



に過去なんて必要ねぇし、忘れてるなら、それに超したことはねぇ。」

「本当にそう思っているのか?」



 紅炎はジュダルを睨み付けた。

 他人によって記憶を奪われ、己が振るうべき力を封じられ、他人の影に隠れ、運命から知らぬ間に逃れることが、本当に幸せなのか。それを生きているというのか。箱庭の中に生きる悲しみをジュダルは誰よりもよく知っているはずだ。



「知らねぇよ。そんなこと。」



 ジュダルは紅炎の言葉を一瞬にして切り捨てた。



「何?」

「俺はを傍に置けてれば良いって言ってんだ。んなことまで知らねぇよ、」



 ジュダルはのまま傍におければ良い。

 記憶は今のが損なわれる可能性が含まれるのならば、いらない。傍で悲しい顔などせず、ふわふわ笑ってくれれば、ジュダルはそれで良いのだ。



「それにおまえにの事に関する決定権はねぇ。あれは俺のだ。」



 煌帝国内でのはあくまで神官付きの巫女でしかない。皇后やアルサーメンですらも認めているとおり、の保護権は、ジュダルにある。それに口出しをすることは、皇太子である紅炎であっても出来ない。

 ジュダルの後ろには神官団とアルサーメン、そして何よりも現在の実質的煌帝国の支配者である皇后・玉艶がいるのだ。



「だから、あれで良いんだよ。」



 俺があれで良いって、思ってんだから、とジュダルはがいるであろう部屋を振り返る。

 雪が降って来たため、女官が雨戸を閉めたのだろう。木で作られた雨戸から漏れる光が、雪と闇を淡く照らす。



「…」



 ジュダルは闇を照らすその光に吸い寄せられるように、部屋へと戻るため足を踏み出す。紅炎はもう、何も言おうとはしなかった。

 部屋に戻れば、眠っていろと言い置いたはずなのに、が歌っていた。高い声音が石造りの部屋に反響し、独特の旋律を産む。それをのんびりと聞く時間は、くそつまらないはずなのに、何故か落ち着く。



「あ、ジュダルだ。お帰りなさい。」



 は翡翠の瞳を細めて、嬉しそうに言う。



「おまえ、眠ってろって言っただろ。人の話くらい聞けよ。」



 彼女が体を横たえている寝台に歩み寄り、軽く額をはたく。は「いたい」と声を上げたが、ジュダルが戻ってきたことで安心しきった、崩れた笑みを浮かべる。



ってば、ジュダル君が出てってからまだリンゴを8つも食べたんだよぉ?信じられるぅ?」



 紅覇が椅子に座って足を組みながら悪態をつく。その隣では白瑛が苦笑して、リンゴの皮を片付けていた。




「また食ったのかよ。」

「だってお腹すいたんだよ。」

「腹は痛くねぇのかよ。んなに突然食べて。」

「大丈夫かな、」



 眠っていた時と異なり、の頬は淡い桃色に色づいていて、ジュダルが手の甲を当てると、温かい。




「熱とかねぇのかよ。」




 額を合わせると、直接熱が伝わる。合わせた額の温度はそれほど変わらないけれど、心に広がる温もりはジュダルの心を満たしていく。間近に見えるの翡翠の瞳が、嬉しそうに細められる様を見れば、胸が一杯になる。

 それをなんと言葉にすれば良いのかわからない。



「さて、もうそろそろ夜です。失礼しますね。」



 白瑛が穏やかに言って、に手を振る。



「うん。ばいばーい。また明日ね。」

「ちゃんと今度は起きなきゃ駄目だよぉ〜、ジュダル君が心配でやせちゃうからねぇ?」

「いらねぇこと言ってねぇでとっとと帰りやがれ!」



 ジュダルが言えば、紅覇は笑いながら「こわ〜い!」と走って行く。白瑛と紅覇、二人の背中を見送ってから、とジュダルは顔を見合わせて笑った。