は養父母の遺体を目の当たりにしたことはおろか、戦場で国王と会談をしたことも覚えていなかった。そのため、自分が父母の遺体を見て錯乱状態になったことも覚えておらず、魔法を使ったことも気絶した理由も、よくわからないようだった。

 ただそのことについて、ジュダルだけでなく、白瑛や紅覇も何も言わない。



「だってぇ、どうせに言ってもわからないし?必要ないんじゃないかなぁ。」



 紅覇は不満そうな顔をしている紅炎に、手をひらひらさせて答えた。

 明日から煌帝国とヴァイス王国の交渉が始まる。その場に正式な首席魔導士としても出席するだろう。首都の結界を破った魔法は、極大魔法と同じくらいの威力を持っていたわけだが、その後が昏睡状態に陥ったこともあり、皆そちらに気をもんでいたためあまり話題に上らなくなっていた。

 また、仮に話題に上ったとしても、興味のない、身に覚えのない話をがわざわざ聞き返すこともないだろう。彼女はわからないことを聞き流すことが得意で、よほど自分に必要でない限りは理解しようとしない。

 記憶に残っていない、彼女の躰の中にいる“何か”が魔法を使っていたのだとしても、彼女はそれに特別気づかないだろう。

 誰かが無理矢理、彼女をその事実に対峙させない限りは。



「…私は、が傷つくのではないかと思えば、何も言えません。」



 白瑛は首を横に振って、膝で重ねた自分の手元を見つめながら目を伏せる。恐らく、ジュダルも同じ心持ちであるため、に直接記憶の話が出来ないのだろう。



「だが、…都合が良すぎるだろう。」



 紅炎は絞り出すような低い声で呟いた。

 養父母の無残な死は彼女を酷く傷つけるものだっただろう。首席魔導士であったマフシードの娘であるを匿わなければ、養父母は何らかの形で生き残ることが出来たかも知れない。しかし彼らはマフシードの死後、を何年も育て、彼女を煌帝国に送り出し、自分たちは殺される道を選んだ。

 を守るために、彼らは死んだのだ。

 その事実を目の当たりにすることは、確かにを傷つけるだろうし、ジュダルや白瑛が口に出来ないのは当然だが、彼女が傷つくような記憶だけが消えているなど、虫が良すぎる。偶然ではない。




の躰を乗っ取ったあれは、なんだ。が前に言っていた、夢で会えるとか言う父親なのか?それに父親だという男も、怪しすぎる。」



 紅炎はヴァイス王国に来てから、何人かにの父親が誰であるのかを尋ねた。

 の母であるマフシードに、紅炎は一度だけ会ったことがある。その時、翡翠の瞳をした黒髪の男が、彼女と一緒にいて、首席魔導士として国賓の立場にあった彼女にため口で、当たり前のように話しかけていた。

 当時は不躾な従者だと思っていたが、紅炎はその男がの父であったのではないかと疑っている。だが、この男を誰もが見ているはずなのに、明確な身元を誰も知らない。どうなったのかも、同じくだ。



「青舜が、まえにちらっとですけど、フィルーズさんからの父は傭兵だったと聞いたと、」



 白瑛はおずおずと口にする。

 と白瑛は自他共に認める友人同士で、自然ととジュダルの副官で、の従兄弟であるフィルーズと白瑛の部下である青舜はよく話している。その関係で話を聞いたことがあったのだろう。

 フィルーズはの父は傭兵だったと言っていた。だがフィルーズも当時はまだ幼く、彼の容姿をうっすらと記憶しているに過ぎないし、の父が誰であったかという記録がそもそもヴァイス王国には存在しない。




「…国王であるヴィルヘルムは、の中にいるの父を知っているような口ぶりだった。議長のイマーンも同じくだ。マギにでも、魔導士にでも、人間にでもなれるといっていた。そんなものこの世に存在しない。」




 部下であったババクに殺された国王ヴィルヘルムは、の中にいる“男”を知っているようだった。 

 何よりもイマーンはと最初に面会した時、不安そうなに、こう言った。



『そう怯えなさるな。貴方様は創造主に愛されたお方。マギとも、王とも、魔導士とも、人間とも違う。ですが、貴方はそのすべてになる可能性を持って生まれてこられた。』



 人は、生まれながらにある程、自分の身分、地位が定められている。

 本来であれば少なくともこの世の摂理では、マギである彼女がマギになることはないし、王と魔導士、これら二つを同時に持つことは出来ない。だが彼女は確かにそのあり得ない二つを同時に保持している。



「でもぉ、それって、重要なことぉ?だって、ヴァイス王国の首席魔導士としては、十分でしょう?」



 紅覇は首を傾げて、カウチの肘掛けに肘をつく。

 が首席魔導士として正当性を保つのに必要なのは、賢者の指名と母親が首席魔導士であったという二つで十分だ。賢者の指名は、既に彼女が生まれる前にレーム帝国のシェヘラザードによって与えられている。母親と容姿までそっくりのの正当性が揺らぐことはない。

 そのため紅覇には紅炎の心配がどこにあるのか、まったくわからなかった。



「そういう意味じゃない。俺はあいつがもっと重要な存在じゃないかと考えているだけだ。」



 確かに、ヴァイス王国を煌帝国が手に入れるために、が首席魔導士であるというのは重要な点だ。そこに関して、紅炎は心配していない。

 むしろそれ以上に、紅炎はが別の意味で重要な存在ではないかと感じていた。



「どのへんにぃ?」

「…世界の摂理という点で。」



 はあまりに様々な世界の理から外れている。

 それがどういう意味なのか、情報が少なすぎてわからないが、おかしさを解明することによって、対極が見えることもある。歴史研究を行っている紅炎にとって、気になる記述もあった。



は、生まれながら治癒能力があったらしい。」

「生まれながら、ですか?」



 白瑛が首を傾げる。

 魔法使いだったとしても、きちんと魔法をおさめるまで治癒能力など使えないだろう。生まれながらというのはよくわからない。そもそもはジュダルの下で、魔導士とされているが、金属器も保有している。しかも二つもだ。

 ただし紅炎が調べたところによれば、迷宮を超えたのは“一度”のみであり、本来なら保有する金属器はひとつ。治癒能力が金属器に由縁するのか、彼女の金属器は胎内に埋め込まれているので、知っているのは恐らくルフが見え、金属器の保有の産むもわかるジュダルのみだ。



「トランの物語には、いくつか治癒能力を持つ者の話が出てくる。どれも小さな子供の話だ。」



 紅炎が研究している書物の中に、治癒能力を持つ者の話が出てくる。

 特に多いのが、治癒能力を持つ幼女の話だ。王の娘として生まれたその幼子は、その力を生まれながらにしてもっていたのではなかったが、先代から受け継いだその力で多くの人を治癒し、多くの異種族から慕われたという。



「それが、と関係があるのですか。」



 白瑛も確かにそのトランの伝説に出てくる治癒の幼女の話を聞いたことがあった。だが、と何の関連性があるのかがわからず、首を傾げる。




「まだわからん。だが、その娘は幼く智慧こそないが、その弱さで大王が手を出すことが出来なかった種族を支配し、人を魅了したそうだ。」

「それは、どうしてぇ?」

「わからん。ただ、王としての資格ということを考えれば、異質な存在の話だ。」



 自分が王として迷宮を攻略してから、王とは何であるかを一通り考えたし、その答えを見つけるために歴史をひもといた。多くの場合ひとりの王がそのカリスマ性と求心力で人を支配するのが優れたやり方で、そう言った話はたくさんどこでも残されている。

 人を魅了する人間の話は、たくさんある。だいたい強さやたぐいまれなる智慧、優れたなにかで人を従えるのが普通だ。トランの伝説には強い大王や英雄の話が、山のように出てくる。なのに、治癒の力を持つ王の娘の話だけが異質で、弱さ故に人を従えたとあった。



「あいつが治癒能力を持つのは、偶然かもしれん。弱いくせに人を集めるのもたまたまで、その話との関連性は、ないのかもしれん。」



 答えは見つからない。今のところ彼女は世界の摂理から何らかの形でずれているだけで、それと、王の娘の話は全く関連性がない。それは紅炎とて理解している。答えはまだ見つからない。



「だが、この世の理から逸脱しているのは事実だ。だからこそ、記憶が鍵ではないかと思うんだが…」



 紅炎はふっと息を吐く。

 彼女がどういう存在だとしても、不思議な存在であるにかけられている忘却魔法は非常に複雑なはずだ。マギであるジュダルに解けないなら、誰にも解けないだろうし、彼がそもそもの魔法を解く気がないのだから、今のところはどうしようもない。



「んー、が、特別ねぇ…?僕にはよくわかんないけどぉ?特別って言うなら、確かに類を見ないほどバカっぽいしぃー」



 紅覇は紅炎の話の重要性がよくわからなかったらしい。ころころと笑いながら手をひらひらさせた。

 彼は若く、年齢もとそれほど変わらないのでよく話すし、仲も良いが、いまいちの重要性なんて言われてもわからない。もしも彼女に特別なところがあるとすれば、あののんびりしすぎて、あまり自分の興味のないことに冷淡で、馬鹿なところだけだ。



「…私もわからないのですが、確かに不思議ですよね。は。」



 白瑛も紅炎の言う程の重要性は理解出来なかったが、それでもが何か違う、ということだけはわかる。

 彼女はふわふわして流されやすい。特別賢いわけでも、強いわけでもない。おそらく弱いかと問われれば、弱いのだろう。足も悪い。そこそこ美人だという以外に、大食漢でのんびりしすぎているくらいしか特筆すべき所はない。

 だが、彼女は自分の意に沿わないことははっきりと口にする。他人の意見に左右されず自分の見方をぶれさせない。そして一応人の話は聞き流すこともあるが、一度は聞いている。のんびりとした空気を纏い、飾らない彼女を見ていると、こちらも肩肘を張らなくてすむ。

 だから彼女の傍は、居心地が良いのだ。




「友として、私はが大好きですよ。」




 白瑛はを思ってその漆黒の瞳を細める。紅覇は少しきょとんとした顔をしていたが、へらっと吹き出すように笑う。



「そうだねぇ、僕もが大好きだよぉ。ってバカで、思い出すと笑えるから、一緒にいると人生面白そうだしぃ?もちろん友達としてだけどぉ。だってぇ、ジュダル君に怒られちゃうしね。」



 の突拍子もない失敗を思い出すと、何やら笑えてしまうのだ。それは紅炎も同じで、そんな自分に気づいて頭をかきながら嘆息した。

 王の資格が何らかの形で他者を支配することだというのならば、は十分にその資質を持っている。それは間違いなく他人と違う形だったけれど、彼女に優しくしたい、傷つけたくないと思わせるこれもまた、王の資格なのだろうと、紅炎は感じ始めていた。