ぺたぺたと石畳をおりていく。兵士たちは二人の顔を見て酷く驚いた顔をしていたが、すぐに頭を下げて中へと通してくれた。
「足下にお気を付けください。」
中途半端に溶けた雪が吹き込んでいて、足場は良くない。毛皮を纏っているとはいえ手がかじかんで、躰を少し揺らして背中のを抱えなおし、ゆっくりと足場に気をつけながら一歩一歩、石畳を降りていく。
一番奥には、魔法式の組まれた牢。鉄格子の向こうの男は、ジュダルが最後に見た時よりもいくつも年を取っているように見えた。
「おい、良いのか?こいつぁ、大罪人だぜ?」
ジュダルはを背負って牢を降り、彼女に問う。
「うん。こんにちは、おじさん。」
は曇った目をしたもう随分年を取った男に声をかける。彼はを見ると、泣きそう表情を歪めた。
ババク・パシャ。を暗殺しに来たこともある、王家に長らく仕え続けた魔導士であり、国王の命令での義父を殺し、その指を持ってを脅しに来た男だ。そして、国王であるヴィルヘルムを最後に殺した人物でもある。
彼は国王の命令で議会派の議員やその家族を多数殺しており、現在はまだ混乱状態ではあるため刑は執行されていないが、司法庁が復活すれば彼の裁判が始まり、どんな事情を勘案したとしても処刑されるだろう。
それほどに彼は国王の名の下に多くの殺人に関わってきた。
「…おじさんが、王さまを殺しちゃったって、聞いたよ。」
国王と直接面会した記憶のないにも、ことの顛末は断片的に話してある。多くの者がババクの手で殺され、彼が最後には国王であったヴィルヘルムを手にかけたことも。
「おじさんは、どうして王さまを殺しちゃったのかな、」
ずっとずっと長い間、ババクは国王に仕えていた。そして彼の命令通り人を殺して、そうやって自分を正当化していた。前に会った時、ババクは国王の命令でを脅すため、の養父の指と彼の指輪を持ってきていた。
が死ななければ、おまえの養父を殺す、と。
既にルフに帰った養父の指輪と指を持って、彼はそうに詰め寄ったのだ。それがどれほどに残酷であるかも考えずに。
「貴方のせいですよ。様。」
ババクはふっと口元に淡い笑みを浮かべ、宙を眺めて目を細める。
は言った。自分がすることは、例え他人の言葉を参考にしたとしても自分の責任であると。だから死んでいる養父の指輪を持て来て、が死ねば養父を助けてやると言ったババクは、どう考えているのだろうかと。
―――――――――――貴方は、どうなのかな
はババクを責めなかった。
養父を殺したのがババクであるとも理解していただろう。だが声高に罵ることも、責めることもなかった。
「他人のせいにしていた自分の罪に、気づいてしまったからですよ。」
国王の命令だからと、ババクが目をそらし続けていた、真っ赤になった自分の手。例え国王の命令だったとしても、確かに手を下したのは自分だという罪。それに向き合えば心が壊れてしまうから、他人のせいにして、ずっと見なかったものを、に看破された。
彼女にそれだけの意図はないから、看破という表現はおかしいかも知れない。彼女はただ、疑問に思い、それを尋ねただけだろう。
「殺す価値もないのは、同じだ。」
の躰を借りた彼女の父は、国王であるヴィルヘルムを、自分が手を下す価値もないと言った。だがそれは、恐らくババクも同じだ。
薄汚れた自分を殺す価値はない。
自分で考えず、他人のせいにし、他人の生を奪ってきた。多くの人間が国王だけでなく、ババクのことを憎んでいるだろう。
殺す価値もない国王を、殺す価値もないババクが殺した。それだけの話だ。
「貴方を、恐ろしいと思っていました。」
ババクはを恐れていた。
あの男の、娘。生まれながらその身に特別な祝福を受け、賢者から次の主席魔導士に指名され、当時の主席魔導士であるマフシードの腕に抱かれた幼子に、ババクは恐れを抱いた。それはその力を封じられてもかわらず、ただただ恐れた。
だからそれを助けようとするマフシードが悪に見えた。
だからそれを殺そうとする国王が善に思えた。
本当は国王のやっていることが既に悪であることに気づいていた。ただ悪を殺すという大義名分だけ掲げて、命令に従うことは逆らって自分が殺されるよりも、簡単だった。
を恐れると同時に、ババクは国王も恐れていたのだ。
「わたしは、何も出来ないよ?」
は不思議そうに首を傾げて、ジュダルの首に回した手に力を込める。
この牢では魔法は制限されるため、足の悪い彼女は浮遊魔法が使えず、ジュダルにおんぶされなければ一人で動くことも出来ない。彼女は生まれながらに足が悪く、誰かの手を借りなければならなかった。よく笑い、よく泣く、ただの少女だった。
「そうですね。そうなんですけどね。」
恐れていたババクには、いつか彼女がその過分な祝福を持って、自分に襲いかかってくるのではないかと、そんな不安ばかりを抱いていた。だから、何も見えなかった。彼女が普通であると認めることが出来なかった。
今考えれば、の母であるマフシードが彼女を守るのは悪ではない。自分の娘を命がけで守るのは、あまりに当然の母としての愛情だ。そんなことすらも、恐怖のために見えなくなっていた。
彼女が何か、ババクは知っていたから。
さらには、国王に逆らえば自分も殺されるかも知れないと言う恐怖も同時に抱いていた。人をたくさん殺していたというのに、自分は死にたくなかった。心がどんどん凍り付いて、生きている意味などなかったはずなのに、死が怖かった。
「様、今、貴方はお幸せですか?」
ババクは奥歯をかみしめ、に問いかける。彼女は翡翠の瞳を僅かに見ひらき、軽く首を傾げる。その拍子に、こつんと軽くジュダルの頭に彼女の頭がぶつかった。ジュダルが視線を上げ、も彼の表情を肩からのぞき込む。
それからは柔らかに微笑んで頷いた。
「うん、」
記憶を失い、ファナリスである養父母に育てられた。そこからヴァイス王国の国王からの追っ手をまくため、煌帝国に売られ、宮廷に買われ、マギであるジュダルに会った。白瑛や紅覇、紅炎、玉艶。たくさんの人に出会った。そしてたくさんの人に助けられながら、は生きている。
「そうですか。」
細められた翡翠の瞳が、ひとりの男を彷彿とさせる。
ババクが魔導士として恐れた、たぐいまれなる祝福を持って、圧倒的な力を持っていた男。その男を恐れるあまり、それ以上の祝福を与えられた彼の娘を、ババクはその目が曇るほどに恐れた。
でも、知っていた。
―――――――――――――いつもそうだ。おまえは何も見やしない!世界のことも、国のことも!!
国王であるヴィルヘルムは、の中にいるあの男に、そう叫んだ。
男は世界を左右するほどの力を持ちながら、いつも、世界にも、国にも興味がなかったし、そういう点では義務を果たそうともしなかった。ただ、ただ、ひとりの人間として恋人を愛し、人としての営みを愛し、そしてただ娘を愛した。
力を持っていても、持っていなくても、何もかわらない。
国王であるヴィルヘルムだって、ひとりならば単に威張っているだけの矮小な男でしかなかったはずだ。それなのに、彼に殺されることに怯えた。
「恐れるべき人などいない。みんな、同じ人だというのに、力を恐れるあまり、間違ったのです。」
ババクは顔をその手で覆い隠し、掠れた声ではき出した。
あの男を、を恐れるあまり、盲目的国王に従い、また国王に怯え、王の命令だからと責任転嫁までして人を殺し、自分は死んだように生きてきた。その償いは例えババクが死んだとしても出来ない。足りない。死した人は、戻ってこない。
取り返しのつかない場所まで来てしまった。
「どうか、どうか、」
お幸せに、とババクは言って、俯く。それが彼の遺言となった。
彼はそれから門番や衛兵に対しても一言も話さず、裁判を待つことなく翌日、一瞬の隙を突いて衛兵の剣を奪い、それを自分に向けて自害した。
にそのことが伝えられることはなかった。
過ちの軌跡