追悼式に出席するため、と紅炎は少しの間ヴァイス王国に滞在することとなったが、皇后である玉艶は先に帰ることとなった。既にヴァイス王国と煌帝国で行われる大きな話し合いは全て終わり、実務者協議のみになったからだ。

 ヴァイス王国は位置づけとしては、皇族の直轄領となった。

 首席魔導士として司法権を認められたは、煌帝国の第二皇女として封じられ、同時にヴァイス王国の国王が持っていた行政権を煌帝国の皇太子である紅炎が正式に保有することとなった。立法権は議会が変わらず保持している。

 直轄領、という名の自治領である。



「本当は貴方が心配だからもう少し一緒にいたかったのだけれど、皇帝陛下の元に戻らなくてはなりません。」



 絨毯の上に乗って見送りに来たに、玉艶は頬に手を当ててそう言った。神官たちが周りで深々とに頭を下げる。いつもそれが落ち着かず、彼らに何をされたわけでもないのに、は彼らが苦手だった。

 それを玉艶も知っているのか、神官たちに手で示して少し離れているように指示する。



「帰ってきたら必ず報告に来るのよ。ジュダルも一緒に。」

「はーい。」



 手を挙げて応じるの返事は非常に良い。だが玉艶はにこにこしながらジュダルに目を向けた。



「忘れないでね。」



 どうやらが忘れることをもう予想しているらしい。ジュダルは視線をそらして答えなかったが、玉艶の恐ろしさを知るジュダルとしては、彼女に言われてしまえば行くしかないだろう。複雑そうな表情のジュダルをは不思議そうに見上げていたが、視線を玉艶に戻す。

 玉艶はその漆黒の瞳を細めて、の頬を撫でる。



、貴方の母がわかって、地位が出来て、身分が出来て、」



 ただの宮廷の芸妓から、ジュダルに買われ、神官付きの巫女になった。母がヴァイス王国の首席魔導士だったとわかり、育ててくれた父母が、実の両親ではないと知った。実母の記憶が失われていることを理解した。ヴァイス王国に来て、首席魔導士という地位を手に入れ、玉艶によって煌帝国の第二皇女という身分も手に入れた。



 ――――――――――――あ、あの、わたしは、誰?



 初めて玉艶に出会った時、は玉艶にそう尋ねた。

 記憶もなく、自分を証立てるものなど何も持たないは自分が誰かよくわからなかった。賢くはないのでそれほど思い悩むことなどなかったが、それでも心に芽生えた疑問は確かにの中に存在していた。

 少しだけ、不安も覚えた。



「答えは、見つかった?」



 穏やかすぎるほど優しい目を、玉艶はに向ける。頬にあたる白くて温かい手は、記憶にはない遠い日々を思い出す。



「…んー、よくわかんない。」



 その答えを、はまだ、持っていなかった。

 誰であるか、誰であるべきなのか、紅炎に義務を求められても、やっぱりはよくわからない。ジュダルが与えてくれた地位、母が与えてくれた権利、玉艶が与えてくれた煌帝国でのの身分。そう言った全てのものが本来ならを証立てるものなのかも知れない。

 ただそれらはやはり、にはそのどれもが大切には思えなかったし、心を満たしてくれるものではなかった。



「でも、ジュダルがいて、白瑛がいて、いろんな人がわたしと一緒にいてくれるなら、」




 ふわりと金色の鳥がのあたりを舞う。柔らかな笑みとともに、金色の房飾りのついた耳飾りと、長い白銀の三つ編みが揺れる。



「それが、わたしだと思う」



 告げられる声音は高らかに美しい。

 地位や立場を自分で認めなければ、本来であれば確かな自分などわからない。記憶も持たないにとって、それは恐ろしいことのはずだ。だがは地位や立場も何も関係ないと思うし、それほど大切なことだとは思えない。

 大切な人たちが自分を大切だといってくれる、それだけがを証立てるものだ。それだけがに温もりを与える。を満たす。

 自分を証立てるものは、それだけで良いと遠い日に決めた。覚えていなくても、魂に刻まれている。

 輝くような金色のルフが、あたりに舞う。それは彼女を何よりも愛し、自分にはない王の資格を見ていた。望んでいた。誰もが全てを失ったあの日、彼女が、もう少し大きければ、滅びはなかったかも知れない。


 誰もあの日を、滅びを望んでいたわけではなかったのだから。


 の様子を盗み見ていた神官たちすらも息をのむ。ルフをはらんだ風が、彼女の白銀のお下げを揺らす。遠い日も彼女は、青みがかった漆黒の長いお下げを揺らして、笑っていた。

 誰もが愛していた。奪いたかったわけではなかった。



「…そうね、、」



 僅かに目を見張り、まぶしい金色を見つめていた玉艶は、絨毯の上に座っているにゆったりと笑う。そしての前に膝をつき、下からの顔をのぞき込んで、そっとその白い頬に手を伸ばした。

 そっと額に伸びた手が、優しく額の刻印をなぞる。



「どれほど姿が変わろうと、すべてを忘れてしまっても、」



 の頬に、玉艶の白い頬が寄せられる。温かい腕がに伸ばされ、抱き寄せられる。遠くで優しい声が聞こえた。



 ――――――――――――、おやすみ、



 揺られる、柔らかい声に揺られるように、眠りについた。

 強い父はいつしかたまに見に来るだけの、酷く遠い存在になった。母はなにかと厳しくて、やはり父と同じように忙しくて、いつも戦いに出ずっぱりだった。その中で、に優しい温かい愛情を見せてくれたのは、彼女だった。

 そう、覚えている。与えられた魔法も、力も、金色の鳥も、漆黒の闇も、それが愛情の証であること。




「貴方はわたしが愛すべき唯一の存在よ、」



 優しい声音がを現実に引き寄せる。玉艶の言っている意味はよくわからなかったが、それでも、を守ってくれる存在だと言うことだけはわかる。



「何も、わからなくて良いわ。でも困ったことがあったら、その辺の神官を捕まえてきちんと言うのよ。」



 ゆっくりとの頬を細い指が撫でて、離れていく。



「今度こそ、貴方は普通に生きて、普通に死ぬの。」



 必要なのであれば、それが玉艶の庇護下だったとしても、ジュダルの下だったとしても構わない。誰がなんと言おうとも、自身が大それたものを望んだことは一度としてない。

 好きな人の傍にいて、好きなように生きて、当たり前のように笑って人として死ぬ。あの男のせいで出来なかった、本当に普通の人生を、彼女は歩みなおす権利がある。そしてそれを玉艶やアル・サーメンの神官たちは、全力で守る義務があるのだ。

 は翡翠の瞳でじっと玉艶を見つめる。その無垢な瞳は、彼女がかつて玉艶を見上げていた頃と変わらない。その翡翠の瞳が、まるで遠い日をその瞬間だけ映したように、色合いが変わり、澄んだ青色を見せる。




「だいじょうぶ、は、いっぱい、しあわせ、もらってるよ、」




 満面の、無邪気で無垢な、笑顔とともに紡がれるのは、あまりに子供のような、つたない言葉だった。玉艶の漆黒の瞳が呆然と見開かれ、をただ見下ろす。



、貴方…」

「え?どうしたの?」



 はきょとんと不思議そうな瞳で玉艶を見上げる。その瞳は、今言った言葉をまったく覚えていそうにはなかった。もしくは、意図せずに言った言葉だったのかも知れない。

 それでも、玉艶には十分だった。



「本当に、は仕方がないなぁ…」



 軽い調子でそう言うと、周り驚いた顔で玉艶を凝視していた。だが、はにこにこと笑う。玉艶はを強く抱きしめて、腕の中にいる我が子に安堵の息を吐いた。




遠い日の願いの繰り返し