ジュダルが寝る準備をしていると、は長椅子でもきゅもきゅと近くのテーブルに置かれていた林檎を食べていた。ジュダルの長い黒髪も寝るために解かれているが、の白銀の髪も同じで、長椅子に広がっている。
「おいおい、汚ぇな。ふけよ。」
ナイフで切らないため、林檎を食らうの口元は汚れているし、白い寝間着をまとった膝の上に果汁が落ちそうになっている。
「あと一個かな。」
「一個じゃねぇよ。おら、ふけ。」
ジュダルは近くに置いてある手ぬぐいを持ってきて、の口元を拭く。ところが彼女はというと、食べることの方に忙しいようで、まだ林檎を手から離していなかった。
「んなにうまいか?」
「おいしい、」
は小さく頷いて、また食べる。
目を覚ましてから数日、彼女は会議以外の時間四六時中何かを食べている。元々大食いの気はあったが、ここまで酷くはなかったし、間食はしなかった。なのに、胃が壊れないのかとこちらが心配になるほど、今は眠る時間以外はひたすら食べている。
彼女は元々魔法を使うとおかしいほどに食べる。
「もう、寝ようぜ。」
「うん。」
は最後の林檎を食べ終わり、小さく頷いてジュダルに手を伸ばした。ジュダルは彼女の膝裏に腕を入れ、抱き上げて寝台まで運ぶ。ジュダルの首にまわされる細い手の力は、少し弱いしぎこちない。
もともと足が悪いので生活としてはそれほどかわらないが、2週間も眠っていたため、彼女の筋力は落ちるところまで落ちてしまっており、手の動きがぎこちなかったり、上手に躰を支えられなかったりと不便が多い。
治癒以外の魔法を大きく使うと、は規模によって数日、もしくは数週間の昏睡状態に陥る。それはルフを集めること、魔法を使うことが彼女の躰に大きな負担になっていると言うことだ。
食事量が増えるのも、何らかの形でエネルギーを取り入れ、躰を支えようとするからだろう。
「、おまえあんまでかい魔法使うなよ。」
ジュダルはを寝台に横たえてから言う。彼女は寝台に寝転がったまま、ジュダルをその翡翠の瞳で見上げる。
「え、どうして?」
「しんどいんじゃねぇのかよ。」
「しんどくは、ないけどお腹はすくよ。あとすっごく眠たい時があるかな。」
なんか瞼が勝手に閉じちゃうの、と笑う声は無邪気だ。笑うと同時に白銀の髪が寝台にすれて小さな音がする。
空腹のみで、だるいとか、頭が痛いとか、そういう感覚は別にないらしい。確かにここ数日、食べたり眠ったりは多いが、体調が悪そうな様子はなかった。だが2週間も眠っていたのだ。躰に負担がかかっているのは間違いない。
そもそもあまり、には魔法を使わせない方が良いのかも知れない。
「あんなぁ、一応教えとくけど、マギの俺だってあんまでかい魔法を使ってばっかいると、早死にするんだぜ。魔法使いってのは体が弱いから防壁魔法(ボルグ)が出るって話もあるくれぇなんだから。」
「ふぅん。」
は興味がないのか、翡翠の瞳を泳がせる。ジュダルは軽くの頭を叩いてから、言っても仕方ないことだと息を吐いた。
前回大きな魔法を使ったのはだが、今回はが自分で使ったのではない。彼女の中にいる、彼女の父親が彼女の躰を借りて魔法を使ったのだ。事実には魔法を使った記憶は愚か、戦場に行った記憶すらもない。
ジュダルはそのマギとしてルフを誰よりも見る緋色の瞳でを注意深く見る。
うっすらと見える魔法式。それはいくつもの魔法式を重ねていて、一部は見えない。この世のものとは思えないほど複雑だ。ジュダルはの白銀の髪を撫でる。複雑すぎて、わからないはずの魔法式の片端に指が触れるような、不思議な感覚。
それと同時に、ジュダルは既視感を覚える。
「あれ?」
彼女を守るための複雑な魔法式の解法を頭の中ではじき出す。
それはジュダルが全く知らない魔法で、しかも見たことがないほどに複雑であるはずなのに、何故かすぐに答えがわかる。
歪で、おかしい既視感。
「どうしたの?」
の丸い翡翠の瞳がそのままジュダルを映す。
「なぁに?」
白い手がジュダルの手に重なる。その柔らかさにジュダルは軽く頭を振ってから、彼女の細い躰を抱きしめた。
「なんでもねぇよ。」
温かさに、複雑な思いを溶かす。
――――――――――――あのガキはおかしい、あれはこの世の理を逸脱している、なにかだ。
紅炎はをそう表現していた。
この世の理を逸脱している何か。確かには人間として金属器を持っているのに、魔導士でもある。マギでもないのにルフを集め、魔導士のくせに金属器を持ち、金属器を持つ人間のくせに、魔法を使う。ルフを見る目を持つ。
この世の理からは考えられない、存在。でも、
「俺だって同じだ。」
世界でたった三人だけのマギ。創世の魔法使い。普通の魔導士とも、人間とも違う、ルフから祝福を受ける、何か。確かには変なのかも知れないが、ジュダルだって、普通の人間からすれば、この世の理から十分に離れた存在だ。
幼い頃からマギとして全てを与えられ、代わりに当たり前のもののすべてを奪われてきた。
それに比べればの方が普通に育っている。母がいて、多分父がいて、彼女を空いており、両親が亡くなれば彼らを慕っていたファナリスたちがを養った。人々は彼女の母の功績故に、彼女を受け入れ、首席魔導士として遇している。
そこには、当たり前のように親が子供に、そしてまたその子供が繋いでいく、人としての営みがある。
ジュダルのように両親が誰だかもわからず、自分がどうして生まれたかもわからず、ただ特別だとだけ言われて、愛情も抱きしめられることもなく、孤独の中で育てられた訳ではない。
「あったかい。」
は細い手に力を込め、ぎゅっとジュダルに抱きついてくる。
外は雪も降っているほどに寒く、暖炉に火を入れていても、石造りの部屋全体が暖まるわけではなく、どうしても寒さから逃れることは出来ない。だからヴァイス王国に来てからは、互いに互いが抱き枕状態だ。
彼女を宮廷で買ってから、ジュダルとはほとんど離れず傍にいる。多分、他人とこんなに常に傍にいるのは初めてだ。手の力は頼りなく弱いけれど、ジュダルに多くのものを教えてくれる。
――――――――――――魔法ならおまえがどうにか出来るんじゃないのか
紅炎はの忘却魔法を解けと言っていた。
過去の記憶を取り戻せば、大切な者たちの記憶を取り戻すと同時に、彼女は記憶の重要性を理解し、自分の責任や特殊性、自分という存在にきちんと向き合うだろうし、それこそが特別な力を持つの義務であると。
だが、望まぬままに与えられた力と向き合う必要性が、果たして本当にあるのだろうか。
「忘れられるなら、」
最初からやり直せるのならば、もっと違う人生が、喜びがあったのではないだろうか。だからこそ、彼女は記憶を取り戻すことを恐れるのではないのだろうか。
はもう眠たいのか、ジュダルの腕の中でうとうとしている。
明日、の義父たちを含め、国王によって殺された人々を追悼する式典が行われる。それに出席し終われば、は首席魔導士としての権限を全て従兄のフィルーズに預け、紅炎たちとともに煌帝国に戻る。
そしてまた、退屈でつまらない、緩慢な時間を過ごすのだ。変わらない日々を。それを少しだけ恋しく思うなんて、今までジュダルにはなかった感情だ。
が与える、平穏を愛する、安堵するような、穏やかな空間。
「…お、やす、み」
寝ぼけた高い声音で、目を閉じたままが呟く。緩みきった顔に思わず笑いながら、自分も瞼を閉じる。
明日も変わらない日が続くように、少しだけ祈りながら。
違うのに、同じを願う