がヴァイス王国を立つ日、議長であるイマーンや従兄のフィルーズだけではなく、多くの議員や関係者が見送りに出てきた。



「忘れものはない?チーズとかパンとかは定期的に煌帝国の宮廷に届けさせるけど。」



 フィルーズはとジュダルの荷物をせっせと確認しながら言う。



「わーい。」



 は嬉しそうに絨毯の上に座ったまま、手を挙げて喜んで見せた。気楽な彼女の様子に皆は複雑そうな表情だった。



「…を頼むよ。」



 ジュダルの近くにやってきたフィルーズがぼそりとジュダルに耳打ちをする。



「わかってるよ。」



 もう、彼はとともにいて、守ることは出来ない。そしてはジュダルの庇護下にいる。彼女を煌帝国の中で守れるのは、ジュダルだけだ。

 大人たちはみんな理解している。

 前、はただ単に宮廷で竪琴を弾いていただけの芸妓だった。だが、今となってはヴァイス王国の首席魔導士であり、同時に煌帝国の第二皇女、煌帝国の神官とされる身だ。政治的な意味合いが多分に含まれる。

 要するに半分人質である。

 本人がぼんやりしているとはいえ、今回の件で民衆からの支持は絶大で、ヴァイス王国にとってはかけがえのない存在だ。

 もしもに何かあればヴァイス王国は黙っていない。そしてだからこそ、を狙うことは政治的に意味がある。彼女が理解する、しないにかかわらずそうなってしまった。今までのように、ただのジュダルのお気に入りではいられないのだ。

 とはいえ、、全くわかっていないは、心配して見送りに出てきている人々に無邪気な笑顔でほほえみかけている。



「どんなチーズがお好きなのですか?」



 若い議員のひとりが興味からか、に尋ねる。



「えー、わたし?えっとねぇ、ヤワかいの?」

「柔らかい?カマンベールとかですかね。修道院で作っていますよ。」

「なにそれ?作ってるの?それすごいねぇ、」

「はい!是非今度、食べてください。」



 その話を聞いて、こちらも年若い司法庁の魔導士が自分に任せてくれとでも言うように自分の胸を叩いた。

 彼女は好奇心が強いわけでもない、特別他人を知ろうと努力することもなければ、もとが賢いわけではない。ただ人の話は聞くし、のんびりとしている。わかることにも、わからないことにも、馬鹿にすることもなければ、自分が知ったかぶりをすることもない。素直に、率直に物事を見ている。

 だから、意味がわからなくても適当でも話が弾むのだろう。




「なあ、の父親の件だけどさぁ、」




 ジュダルはを眺めながら、口を開く。


「わかってるよ。議長は一切口を割らないからね。」



 フィルーズも同じようにに視線を向けたまま、眉を寄せた。

 ジュダルもフィルーズも、を傷つけたくないという点では、意見は一致している。だから、が失った辛い記憶を蘇らせたいとか、彼女の秘めた力を有益に使いたいとか、そういったことを考えているのではない。

 ただ、の躰を一時的に操り、魔法を使ったのは、彼女が夢の中で会えるという彼女の父親だろう。それが誰かと言うことを、議長であるイマーン、国王であるヴィルヘルム、そして国王の従者であったババクは知っているようだった。

 だが既に国王は死に、ババクは自害、議長であるイマーンはジュダルや紅炎が聞いても、一向に口を割ろうとはしない。恐らく煌帝国側の人間を警戒しているのだろう。

 もちろんの父を見たことがある人間はかなりいる。ただし誰も素性を知らないのだ。の母方の従兄であるフィルーズも同じだ。まだ10才ほどであったため、彼の素性に疑問を持たなかったし、傭兵だと聞いただけだった。

 魔導士か、そうでなかったかすらも、知らないのだ。




「調べておくけど、あまり期待はしないで欲しい。正直、司法庁の記録も探ったけど、名前すら出てこなかった。」



 フィルーズは小さくため息をつく。

 司法庁で主席魔導士の代理として仕事を任されるようになってから、フィルーズは司法庁にある戸籍記録を全て調べた。だがの父の欄は空欄で、確かに何度かの母・マフシードの外遊にも、の父は随行していたはずなのに、名前がない。

 もしくは、抹消されているのだろう。



「あと真実を知ってそうなのは、を主席魔導士に指名したって言うシェヘラザード様と、…マフシード様が殺された当時、滞在していたはずのシンドバッドくらいしか。」

「…シンドバッドのヤツはたまに煌帝国にも来るけどな。」



 シェヘラザードに面会を求めるのは、ジュダルでも難しいだろう。ましてや煌帝国とレーム帝国の関係は、マグノシュタットを挟んでお世辞にも、良いとは言えなかった。



「しっかりやれよ。」



 ジュダルはフィルーズに小さな象牙の棒を渡す。



「これっ、」

が持ってたヤツだよ。一応それなりに信頼してんぜ。おまえのこと。」



 象牙の印章。それは主席魔導士が正式な書類に判を押す際に使われるもので、これがなかったからこそ、国王であったヴィルヘルムは先代の首席魔導士マフシードを殺した後も、いつまでたっても主席魔導士としての司法権を手に入れることが出来なかったのだ。

 が持っていたものを、一緒に持っていたジュダルが預かっていたらしい。



「俺は使える手駒が少ないんだよ。」



 ジュダルはぼそりと言って神官たちを目で追う。

 元々マギと言うだけでどこで生まれたのかも、後ろ盾もないジュダルには、使える手段が限られている。常に神官たちにも見張られているため、なおさらだ。これからを守るためにも、手段は複数あるほうが良い。




「わかった。」 





 賢いフィルーズはある程度それで理解したのだろう。言葉も短く頷いて判子を握りしめ、ジュダルの横を通り過ぎていった。

 煌帝国の官吏たちや荷物を乗せた絨毯が、順々に飛び立っていく。

 当然兵士たちは徒歩と言うことになるが、要人たちは行けるところまで絨毯で行き、途中の離宮で宿泊する予定だ。




「マギよ。」



 神官のひとりがジュダルを呼ぶ。はというと、もう既に用意された絨毯に乗っていた。フィルーズも顔を上げ、の絨毯の方に歩み寄る。



、良いのかい?僕なんかに託して、」

「えー、すごく上手にやってくれてるって聞いてるよ。」



 再編された司法庁は、フィルーズの下とてもうまくやっている、らしい。フィルーズは身分としても、実力としても、主席魔導士の代理に非常にふさわしく、マグノシュタットで教育を受けているだけあり、賢くもあった。

 誰も文句は言っていない。



「そういう意味じゃないよ。わかってるだろ。」



 フィルーズは国王に命じられて、一度はを暗殺しようとしたことがある。はそのことをヴァイス王国で決して口にしなかったが、その認識がないわけではないだろう。はその翡翠の瞳を何度か瞬いて彼を見たが、小さく頷いた。



「わたしはね、ババクさんのお話を聞いてね。やっぱりフィルーズがふさわしいと思ったんだ。」



 首席魔導士であるは煌帝国で過ごすことになる。事実上首席魔導士としての権利を行使するのは、代理を任されたフィルーズだ。の従兄であり、優れた魔導士であると言うだけでなく、は彼にはその資格があると考えていた。



「ババクさんもわたしのこと、すごく怖がってた。そして脅されて、わたしのところにやってきた。貴方も同じだったと、思う。」



 フィルーズはの何らかの事情を知っていた両親に言われ、のために生きろと言われてきた。価値あるのために死ねと教えられ、国王に両親を人質とされてを殺せと命じられた時、彼は運命を憎み、を殺そうとした。



「でも、貴方はもうわたしが同じだって知ってる。」



 に、フィルーズ以上の価値はない。同時に、フィルーズにも以上の価値はない。そう、人の命は誰であろうとも価値は平等なのだ。



「そんなことないよ。やっぱりは、すごいよ。僕は、とても弱い。結局。」



 結局、フィルーズに居場所を与えてくれたのは、だ。

 フィルーズの両親もまた、国王によって殺されてしまった。両親を人質に取られていたとはいえ、本来であればを暗殺しようとしたと言うことで、処刑されたとしてもおかしくないのだ。なのに、はフィルーズに首席魔導士の代理という権利を与えた。

 ヴァイス王国でフィルーズがなくしてしまった居場所を、彼女は意図もたやすくフィルーズに与える。結局フィルーズは自分の力で何かをしたのではない。



「だから貴方を選んだんだよ。」



 はフィルーズの手を取る。

 ふたりの白い手はまだ、血に汚れていない。真っ白だ。様々なことはあったけれど、最後の一線は越えることなく、ここにいる。自分の無力さも知っている。強い人も見てきた、間違った人も、従って失敗してしまった人も、見た。理解した。



「この国の人は、みんな、強い人たちだと思うんだ。悪いことや傷つくことに負けずに、頑張った人たち。だけど、きっといつか弱い人のことや、自分が弱かった時のことを、忘れちゃうんだと思う。」




 ヴァイス王国の人々は強い。皆、弱い自分を必死で律して、くじけずに国王の圧政に立ち向かった。彼らはこれからも自信を持って、その強さでこの国を引っ張っていくのだろう。だが、もう一つ忘れてはいけないことがある。



「弱い自分を、忘れないで。みんな同じ。強かったとしても、きっとすごく頑張って戦って、だから、何も変わらない。みんな最初は、弱かったんだよ。」



 誰も、驚くほどに強い人も、驚くほどに弱い人もいない。ただ、強い人は一生懸命戦い、必死で考えて強くなった人々だ。彼らは弱いよりもずっと懸命に努力した結果、強くなった。でも、弱い自分を忘れてはならない。



「みんな、強くて弱いの。そのことを、貴方が忘れないって信じてる。」



 首席魔導士は司法を司る存在だ。にはよくわからないが、悪いことをした人を止める権利だと、ジュダルが教えてくれた。だからこそ、弱さも強さもどちらもある人が、一番上に立って、色々な物事を決めていくべきだと思う。



「約束するよ。僕は次に君が来る時までに強くなって、この国を、みんなが幸せになれる国にする」



 フィルーズは、豊かな国とも、強い国とも言わなかった。

 たくさんの人が、傷ついた。殺された。その中にはの実母や養父母、フィルーズの両親もまた含まれる。多くの人が疲れ、傷ついたこの国が、これから歩む道を、幸せなものにする。それをフィルーズには自分の夢だと定めた。



「うん、楽しみにしてる、」



 は満面の笑顔で、全幅の信頼の下で、託す。

 フィルーズに自信があったわけではない。だが、彼は恭しく、心の底から深々とまだ年端もいかぬ少女に頭を下げた。






弱い貴方の国