紅炎はを自分の馬の前に乗せ、丘を駆け上がる。

 白瑛が走るよりもずっと早く、動きも荒いが滑らかで、それほど揺れない。長い白銀のお下げが風になびいて揺れる。風が耳元を通り過ぎて行くのを感じて、は目を細めた。近い、風がずっと近い。自分も風になれるようだ。

 紅炎がを連れてきたのは、先ほど白瑛が連れてきてくれた場所よりも遥かに高い丘の上だった。



「わあ、すごい。」



 断崖絶壁の上、眼下に広がるのは森と豊かな田園風景。そして遠くに見えるのが帝都だろう。流れる大河は先ほど釣りをしたような小さなものとは比べものにならない。全ての豊かさは、間違いなくこの大河から来るのだ。



「美しいだろう。」



 紅炎がまっすぐその赤い瞳を悠然とした風景に向けながら問いかける。遠くを眺める目にはいつものぎらぎらとした恐ろしい程の強さはなかったが、強い決心が含まれている。そして、小さな悲しみと。



「このあたりはかつて、荒れ放題だった。煌帝国はここ数年で急成長を遂げた国家だからな。」



 煌帝国は10年ほど前まで、極東の小国だった。

 人々が争い合う中、争いをおさめ、平原を統一したのが先代の白徳皇帝である。当然帝都近くのこのあたりもかつては荒れ放題で、豊かな水を生かして農業をするような余裕もなく、強盗や戦争に常に怯えていた。

 むしろの祖国であるヴァイス王国の方が、国王が圧政を敷いていたとしても元々あった統治方法が機能しており、豊かだったくらいだ。


 人々が帝都近くのこのあたりに安定して定住出来るようになったのは、本当にここ10年ほどの間だけ。




「今はみんな、幸せなんだね。」



 は遠く見える田園で農作業をする人を眺める。

 まだ早春であるため米の植え付け程度だが、人々が楽しそうに農作業に勤しむ様は、平和の象徴だ。の育った辺境の村でも、春になれば植え付けが行われ、当たり前のように人々が農作業をする光景を眺めることが出来た。

 は足が悪くそれに参加出来ないけれど、それを眺めている時間が、にとって何よりも幸せだった。



「だが、これはすぐに失われるものだ。」



 紅炎はぐっと拳を握りしめ、を見下ろす。




「俺は、人は違いが存在するが故に、争いが起こると考えている。」




 人は違いがあれば違いがあるほど、憎み合う。思想の違いによって、憎しみが生まれる。利害や立場の違う者同士が富と物質を奪い合い、争う。




「違い?」

「そうだ。立場、思想、国家、民族、文化、その全ての違いが、争い生む。」





 人は自分と他人に違いがあると、別の生物だとでも言うように、殺すことが出来る。残酷なことが出来る。それは、ヴァイス王国の現状を見たにとって、確かに納得出来るものであった。

 国王と国王を支持する人々は、残酷なことと知りながらも、思想が違うと言うだけで議会派の人々を惨殺した。同じヴァイス王国の民であったはずなのに、の母もまた、国王に賛同しないという理由だけで殺された。を守り育ててくれた、ファナリスの多くや、養父もそうだ。



「俺は、世界をすべて、統一する。」



 紅炎が高らかに告げる理想は、途方もない夢だ。



「すべ、て?」

「そうだ。文化も歴史も、すべてを同じにする。思想すらもだ。」



 はいつもは現実主義にも関わらず、夢を語る紅炎を振り向き、見上げる。その赤色の瞳には切実な決心と、達成への誓いが感ぜられ、息をのむ。



「でも、歴史はあるでしょ?そこに。」

「あぁ、だから、それも一つにする。」



 文化も、歴史も、一つにする。

 もともと地域によって、国によって複数存在するそれらを統一するというのは、統一する煌帝国にとっては真実だろうが、他の多くの国々にとって、嘘のものとなるだろう。それは未来のために、歴史をねじ曲げても良いと言ったも同然。



「それによって将来永劫、戦争をなくすのだ。」



 途方もない、辛い戦いを伴う夢。理想。でもきっと紅炎には、それを戦い抜く誓いと、覚悟があるのだろう。その覚悟はきっと、誰よりも強さを持っているからこそ、出来る、そして誓えることだ。彼はその途方もない夢を信じているのだ。



「それは、わたしに、ヴァイス王国を変えろって、言ってるのかな。」



 は彼の話の意図を正しく理解していた。

 ヴァイス王国には三人の権力者がいる。立法権を持つ議長。司法権を持つ首席魔導士。そして今回、行政権を持つこととなった王様である紅炎。しかしながら今回の戦争を平和的な方法で収めた首席魔導士のの意見が、恐らく誰よりも強い。

 それは権限という問題ではない。議長が、民衆が、首席魔導士であるを最も支持しているのだ。

 紅炎が文化や歴史を全てを一つにし、世界を統一するという話をにするのは、ヴァイス王国のありかたを変えるならば、現状それはにしか出来ないからだった。



「おじさん、人は強くないよ。全部同じにしても、人はきっとずっとずるいから、また、違いを探す。」



 風が、止まる。の心を、いい知れない不安がゆっくりと満たしていく。彼の目指すものの答えを、は知っている。



「それに、貴方の大きな理想も、わたしのみんなが幸せであって欲しいって思う願いも、ヴァイス王国の人々ひとりひとりの願いも、何も変わらない。それ誰かの願いをつぶして、良いわけじゃないんだよ。」



 例えどれほど彼が強かったとしても、紅炎もまた、ひとりのちっぽけな存在だ。彼の理想がどれほど壮大であろうと、強かろうと、その事実は変わらないものであり、同時に彼の理想が、弱い人々の小さな幸せを、否定し、奪う権利はない。



「貴方が、とても強い人で、王さまにふさわしいのもわかるよ。でも、それでも、一緒でしょう。」

「…何がだ。」

「貴方も、わたしも、一緒。本当は、みんな弱くて、みんな強いの。」



 は紅炎が先ほどまで見ていた田園風景にゆっくりと目を向け、手を伸ばす。風が全てを攫っていく。強い風。振り返れば、紅炎の赤色の髪も、の色の薄い銀色の髪も、同じように、同じ方向へと揺れている。

 人の強さなんて本当は、誰も大きく変わるものではない。

 の周りにいるのは皆、より強くて、素敵な人ばかりだ。でも、その人たちも自分と同じで弱くて、一生懸命強くなりたいと苦しんで、たたき上げて、答えを出した結果、強くあることを、はよく知っている。

 だから、そのこと自体は、すごいことだと思う。だが、同時に知っている。自分がちっぽけである、と。



「おまえの小さな願いのために、世界のために、将来にもわたる可能性を奪う気か。」



 紅炎はをぎろりと睨む。だが、は一向にひるみはしない。



「小さな貴方の願いのために、何故わたしやわたしの大切な人たちの願いを、託してくれた思いを、捨てなくてはいけないのかな。」



 いつも通りのゆったりとした口調で、は主張をする。

 多くの人間が、世界のためであるという大義名分に狼狽え、怯む。だがは紅炎という存在をまっすぐ見て、その上で、意見を変えない。



「わたしは、ヴァイス王国にやり方は、間違ってないと思う。みんなが強くならなくてはいけないから。」



 強い一人が王として、全ての責任を持つのではなく、皆が話し合い、それぞれの人々がその国の王さまになる。

 ヴァイス王国では3人が王さまだ。立法権を持つ議長、司法権を持つ首席魔導士、そして行政権を持つ国王。三人の王さまが、三つの権利を分け合っている。だが実際には立法は議会が話し合いで決めているし、司法は司法庁が、行政は管理たちが働いて決めている。

 それをもっともっと変えていけば、いつか3人の王さまは必要なくなるのだと、は思う。



「強い誰かが、世界を治めるべきだって言う、世界の王は一人だって言う考えは、単純で、簡単だけど、たぶんすごく難しい。王さまはだって間違うし、それは、考えを一緒にしても同じだよ。」



 王さまとして、強い権力を持っていたとしても、強い発言力を持っていたとしても、王とて所詮、同じ人間で、万能ではない。常に正しいわけではないからこそ、それを正すシステムは必要だ。



「だから、おじさんがわたしの違う答えを考えてくれるように、」



 長い銀色の睫に縁取られた翡翠の瞳が、まっすぐ紅炎を見返す。



「わたしは他の人と、意見が違っても、寄り添えるんじゃないかと、思うよ。」



 溢れるのは、明るい金色の鳥。それは紅炎とは全く異なる意見だったが、それでもまっすぐと自分の正しさを信じている。



「わたしは、王さまとかはなりたいと思っていないし、よくわからない。でも、わたしは強くないから、」



 は自分の胸の中にいる、辺境の村の人々を思い出す。自分を愛してくれた養父母。そしてヴァイス王国の従兄フィルーズや、自分を望むたくさんの人々。は傍にいて、守ることは出来ないけれど、覚えている。



「かわりに、わたしは、恨んだり、泣いてるわたしの大切な人の傍にいて、一緒に泣いて、考えて、そして、止めるよ。」



 はきっと強さで間違った人を止めることも、助けることも出来ないだろう。だが代わりに、一緒に弱い人の立場に立って、泣いて、悩んで、考えて、そうすることしか、出来ない。



「わたしは貴方とは違う。強くないから、助けてくれる、貴方や、みんなに感謝してる。」



 きっと紅炎のやり方は、彼について行けない人や、踏みにじった人々の恨みや憎しみを緩慢に呼ぶだろう。それでも彼はまっすぐ歩み続けるだけの覚悟がある。彼の仲間もいつか、犠牲になっていくだろう。それは彼の夢のために仕方ないはずだ。

 でもは、自分の大切な人を切り捨てられる程強くない。弱いからこそ、周りを大切にしなければ、生きていけない。でも、を大切にしてくれる人たちも自分と同じで弱さを持っていることを、忘れたりしない。



「だからまあ、そうだね。おじさんが疲れて、弱くなっちゃったら、助けてあげるかな。」



 はにっこりといつも通りの無邪気な笑みを、紅炎に向ける。

 助けてあげる、かな、なんて、一体誰に言われたことがあるだろう。紅炎は彼女の言っている意味が一瞬理解出来ず、呆然とする。この弱い少女は、自分を助けると言ったのだろうか。



「ふっ、あはははははははは、」



 紅炎はいつの間にか、意図せず高笑いをあげていた。が翡翠の瞳を丸くしているが、笑いを止める手段がわからない。おかしすぎて、こみ上げる笑みが止められないのだ。



「お、おじさん?」




 は不思議そうに紅炎を見ている。笑われても怒るでもなく、ただ不思議そうな顔だけをしている彼女がまた面白くて、しばらく笑いが止められなかった。




強い夢 弱い夢