笑いが収まると、彼はいつもの厳つい表情に戻っていた。



「ひとまずおまえを認めてやる。」

「おまえじゃないよ、おじさん。わたしは、だよ。」

「おじさんじゃない。俺は紅炎という立派な名前がある。」



 二人で馬上で顔を見合わせ、硬直する。ただそれが何やらおかしくて、数秒にらみ合ってから、お互いに吹き出してしまった。その拍子に、馬が少し足踏みをする。それでバランスを崩し、は馬から落ちそうになったが、紅炎の腕に支えられた。



「うん、わかったよ。じゃあ、紅炎お兄さんで。」

「おまえ、俺のことが相当嫌いだろう。」

「だって、話が難しいんだもの。」 



 は紅炎から視線をそらし、口をとがらせる。



「まあ良い、おまえも煌帝国の金属器使いだ。そのことを自覚しろ。」



 紅炎は要するにをわざわざジュダルから離して連れ出し、それを言いたかったようだ。



「…わたしが安定して出来るのは治癒だけだよ。」




 は心底うんざりして、彼に返してしまった。

 魔導士として最近はそこそこ魔法も使えるようになってきたが、相変わらず複雑な魔法を使うのは苦手だし、金属器は二つもあるのに、一つは音信不通、もう一つも治癒と他人の魔法の増大にしか使えない。

 ヴァイス王国の首席魔導士とか、第二皇女とか、金属器使いとかいう大層なお題目がついているが、どちらにしてもは非常に弱い。政治的には役に立たないし、軍事的にも他の金属器使いに比べれば、言葉にならないほどお粗末だ。



「どちらにしても金属器使いだという事実には変わりはない。」



 と紅炎には大きな意見の隔たりはあるが、同じく金属器使いであるというのは間違いない。そしてその治癒力と、魔法の増幅という能力は、そこそこ誰に対しても役に立つし、使う場所も選ばない。お粗末だろうとも、必要な力だ。

 それに考えは甘いが、は紅炎や他の者にはないかたちで情報を出したり、答えを提示したりする。同じ人間は二人いらないと言うが、まさに彼女は誰とも違う答えをひねり出してくる。

 今だってそうだ。普通ならば紅炎に恐れをなして、狼狽えるだろう。だが、年上で、経験も威厳も違う紅炎に向かって、平気で意見してくるのだから、無神経というか、鈍いというか、良い根性と言うほどの根性もないのだが、ある意味で大物と言えるだろう。

 紅炎はそれなりに、この変な少女を気に入っていた。そして、だからこそ、紅炎にはもう一つ懸念があった。




「おまえは何故ジュダルといる。」

「何故?」

「それなりに、ジュダルといることにこだわりがあるだろう。」



 紅炎はに対して下調べをしなかったわけではなかった。

 はあまり意志の強い少女ではない。だいたい食事以外にも興味がないし、宮廷の芸妓をしている衣それ以外に興味はなかったという。貴族や官吏の中には宮廷の芸妓を娶る者も多い。実際皇族の妾になった者も多いほどだ。

 その楚々とした容姿と竪琴、歌の腕から元々かなり有名であったに目を付けていたのは、何もジュダルが最初ではなかった。中にはに求婚した者もいるそうだが、だいたい全てが断っていたという。

 ジュダルは煌帝国において最高位の神官であり、芸妓としての地位しか持っていなかったが拒める相手ではない。だが、の性格からして「やだかな」くらい、口にしただろう。しかも、誰にも憚ることなく。

 今でこそはジュダルの傍を心地良く思っているようだが、それは長く彼と一緒にいるからこその親近感だ。最初はただの横暴な人間だくらいの認識だっただろう。

 なのに、何故彼女はジュダルとともにいることに納得していたのか。




「最初はね、マギだって神官の人が口にしたから、かな。」




 は隠すこともなくあっさりと答えた。

 宮廷の芸妓として教房で、他の舞手や芸妓と過ごす生活は、食事もたくさん与えてもらえるし、ご飯は美味しい。宮廷の宴の時だけ歌や竪琴を奏でていれば、普通に生活していけるので、何の不満もなく、満足だった。

 たまに自分を妻にしたいと望む人もいたが、今の生活を気に入っていたは、別にそれを望む必要もない。贈り物として貴族や官吏がくれる宝飾品すらも、教房の舞手たちにあげていたくらいだ。

 そんなが、神官であるジュダルの求めに進んで応じたのは、彼が最高位の神官であったからではない。


 マギだからだ。





「お母さんが、…わたしを、育てたお母さんが、わたしに言ったんだ。」





 そっくりの容姿だった実母を、は覚えていない。育ててくれた、赤い髪をした養母が、に言ったのだ。何度も何度も名残惜しげにの銀色の髪を撫でてくれた。商人にを売る時に、両親が言ったのは、二つだけ。何があっても、生き抜くこと。

 そして。



「マギがきっと、貴方を迎えに来てくれるわ。だから、その力は、マギと貴方の大切な人のために使いなさい、って。」



 養父母は自分たちがヴァイス王国に追われていることも、ヴァイス王国に捕まれば無事ではすまないことも、自分たちが殺されることも、全て理解していたのだろう。

 だが、紅炎は彼女の話を訝しむ。



「何故、マギだったんだ。」



 確かに、の母方の家であるスールマーズ家はかつて、マギを輩出したこともある魔導士の名家だ。しかし、それは既にうん百年も昔の話で、今とは何の関係もない。ヴァイス王国の次期首席魔導士の指名は時のマギによると言うのが、それは形式的な風習であり、個人と関係があるとは思えない。

 だというのに、何故、の養父母はマギが迎えに来ると思っていたのか。



「言われてみれば、そうかな。最初は、納得してたんだけど、よく考えてみれば、おかしいかも。」



 は紅炎の疑問に自分の頬に手を当て、頭を傾ける。



「何がおかしい、」

「…うーん、んー、でも、言っちゃ駄目って言われたことに、ひっかるかな?」

「…」



 紅炎は自分の前にいるを睥睨する。眼光を鋭くしてみるが、馬に乗るは考えごとをしているため俯き、紅炎の視線にすらも気づかない。馬が呆れるようにふーと息を吐いた。



「一つ言っておいてやる。ジュダルは確かに煌帝国においては最高位の神官で、マギだが、やつはある組織のコマでしかない。」

「こま?」

「道具と言うことだ。おまえは、神官たちに違和感を覚えたことがないか。」




 は彼の言葉に僅かに目を見ひらく。それは、自身が十分感じたことがあったからだ。

 彼らが纏う黒いルフ、空洞の躰、あれが何なのか、魔法に疎いにはわからなかったが、嫌な感じがして、あまり好きではないのは事実だった。玉艶もが神官団を嫌っていることをよく知っている。




「あるけど、何かされたことは、ないよ。」



 黒いルフを連れている人がいるのは知っている。けれど彼らがに何かしたことはない。はジュダルに買われてから、地位としては神官団の中にいるが、彼らに関わったこともなければ、彼らから何かをするように命じられたこともなかった。



「…約10年前、あいつらは動きを活発化させた。マギであるジュダルを手にな。」




 紅炎は馬上から遠くを見据え、馬首を返す。もうそろそろ離宮へ行かねば、ジュダルが怪しむだろう。




「10年、前?」




 はその数字に、覚えがあった。

 正確ではないがだいたい、10年前。ヴァイス王国ではの実母が殺され、国王が殺される政変があった。それ故には辺境の村で、ファナリスの養父母に育てられていたのだ。



「そうだ。ムスタシムやパルテヴィアも、同じ時期だ。」



 ムスタシムやパルテヴィアにも数年のずれはあるが、政変が起きている。バルバッドの先王が亡くなったのも同じ時期、要するに何らかの政変、革命、そして争いが起きているのだ。偶然か、時代の流れか、運命か、どちらにしてもできすぎている。



「その争いを起こしたのが…」



 紅炎は続きを言おうとして、を下ろして気づいた。彼女は宙を見て眉を寄せていた。彼女らしくない眉間の深い皺は、見たことがないほど彼女の表情を切れ長に、精悍に見せたが、すぐにその目尻が申し訳なさそうに下がる。




「なんだ?」

「ねえ、むた?なにそれ?」

「むた?」



 こいつ、何を言ってるんだと思い、自分の言葉を思い返し、紅炎は目元を自分の手で覆った。



「おまえ、ムスタシムを知らないのか?」



 途方に暮れた紅炎の声に、は「んー」と唸る。一向に記憶にない。


 辺境に育っている上、文字を読むのは大嫌い。ジュダルの下に来てからも、何を言われてもろくすっぽ勉強せず、いつも怒られていた。



「…おまえに説明するのは夜中までかかりそうだな。」




 紅炎は珍しく目尻を下げ、情けない表情になっている。はそんな彼を見上げながら、自分のせいかな、と首を傾げた。






強い夢、弱い夢