「なんでおまえ、白瑛の馬に乗ってたはずなのに、紅炎の馬で離宮に来てんだよ。」


 離宮でを待っていたジュダルは、紅炎の馬上にいるが見えて不快そうな顔をしたが、彼女はジュダルを見ると歩けもしないのに馬上から飛び降りる勢いでジュダルに抱きついてきた。



「おいっ!危ねぇだろ!!」

「こ、」



 あまりの勢いに尻餅をつきながらも何とかを受け止めたジュダルは、思わずを怒鳴りつけるが、は声すらも出ないのか、唸るように嗚咽を漏らした。



「なんだよ。」



 少し躰を離させ、の顔をのぞき込めば、翡翠の瞳をまん丸にしたまま、表情を硬直させていた。



「だ、大丈夫か?」



 表情筋が硬直したような無表情に、思わずジュダルはぺちぺちと頬を軽く叩く。するとはくしゃりと表情を歪め、またぎゅうっとジュダルの首に抱きついた。状況がつかめずにいると、慌てて後を追ってきたであろう白瑛が滑るように馬から下り、ジュダルに事情を説明する。



「ちょ、ちょっと飛ばしすぎたようで、嫌だったみたいです。」

「そうなのか?仕方ねぇな。よっと、」



 ジュダルはを首にへばりつかせたまま抱き上げ、そのまま離宮に与えられた部屋に引き上げようとすると、紅炎が口を開いた。



「次の、迷宮を攻略する。」



 それは彼がまた、新たな力を欲しているということでもあった。



「へぇ、おもしれぇじゃん。」



 王の器が持つことの出来る金属器は一つではない。紅炎が力を欲するのは、戦争のためであり、煌帝国の版図を広げるためでもあった。



「丁度つまんねぇと思ってたんだよ。」



 ヴァイス王国から戻ってきてから、冬が始まり、軍隊は動けなくなった。早春の今、また今年の戦争が動き出す時期だ。今のうちに用意をしておくのも悪くはないだろう。何よりマギとして、たぐいまれなる王の器を見るのは面白かった。



「それに、もつれて行く。」



 紅炎は当たり前のようにそう言った。



「あぁ?なんで。」

「そいつもまがいなりにも皇女だろう。それに約束したもんな、」



 紅炎の鋭い視線が、へと向けられる。ジュダルにへばりついていた彼女は、紅炎を見て首を傾げた。



「わたし、何か約束したの、かな?」

「弱っていたら、助けてくれるんじゃないのか。」

「…紅炎お兄さんは、弱ってるのかな。」

「弱るかも知れない。」



 実に曖昧な言い方だったが、可能性はなくはない。ただ紅炎の言い方で、紅炎の行く場所がとても危ない場所だと言うことだけは、にも伝わった。

 はそのままジュダルを見上げる。



「…ねえ、良い?」



 ジュダルはを見下ろしながら、少し考え込んでしまった。

 迷宮は危険が一杯だ。ジュダルも一緒に行くとは言え、一緒に入ったとしても必ず同じ場所に落ちるとも限らないし、魔法が必ずしも全てを防げるわけではない。の魔法防壁(ボルグ)は確かに普通の魔導士より遥かに固いが、マギほどではない。そもそもボルグも万能ではないのだ。

 浮遊魔法が使えるとは言え、彼女は足が悪いので走って逃げることは出来ないし、泳げない。



「え。怪我とかされたら困るし。」



 だめだろ、とジュダルは結論づけた。腕の中のは、別段不満も漏らさず、むしろ少し安堵したようですらもあった。



「だが、おまえのいない間、はどうするんだ、」



 迷宮に一度入れば、戻ってくるのが数日後とは限らない。なんと言っても迷宮と現実とでは時間の流れが異なる。迷宮ないで数日だと思っていても、数週間だという可能性がある。自分の身を守る方法をまだ知らないを一人放っておくのは危険すぎる。



「…」



 ジュダルは誰に預けられるか少し考える。

 白瑛は残念なことに別件で、明日から帝都を離れる予定だ。皇后の玉艶はを喜んで預かるだろうが、ジュダルはをあまり玉艶や神官団に近づかせたくはなかった。



「え、ジュダルも行くの?」



 ジュダルが先に結論を下す前に、がジュダルの服を引っ張る。



「そりゃな。マギだし。」

「え、じゃあわたしも行く。置いてかれるのはいや。」

「いや、危ないぜ?戦うんだってわかってっか?」

「うん。ボルグで頑張る。」



 ぜってー、なんもわかってねーとジュダルが内心で呟いたことに、は気づいていない。紅炎も内心では同じだったが、つれて行くという決断に変わりはなかった。

 少しは煌帝国の金属器使いとしての自覚が必要だったし、何よりも彼女は金属器を二つも保有しているにもかかわらず、迷宮を超えた記憶がない。自分の価値や力の使い方を学ぶ上でも、は一度迷宮に入っておくべきだった。




「決まりだな。」




 紅炎はジュダルが何かを言ってを説得する前に、それを決定事項にしてしまう。白瑛が少し心配そうな顔でを見ていたが、それに気づくも黙殺した。ジュダルは腕の中のをじっと見つめたが、翡翠の瞳が酷く不安げだったため、仕方なく頷く。



「わかった。でもおまえ、それまでに攻撃魔法覚えろよ。」




 はジュダルと得意な系統の魔法がよく似ている。

 だが、彼女が特別熱心に魔法を勉強することはなかった。彼女は根本的に文物が苦手で、本を読むのが恐ろしく嫌いだった。ジュダルも好きではないが、レベルが違う。読み聞かせれば多少は聞くが、耳も悪いのかほとんど頭に残っている風はなかった。

 唯一の例外は直接魔法式自体を見ることだ。彼女は文字は嫌いだが、数式などは得意で、魔法式を直接見ることに関しては好きだったし、そういう魔法は覚えていた。

 ただ、それらの根本的な問題を加味しても、彼女は攻撃魔法が好きではなかった。



「…」

「返事は。」

「…うーん。」



 は基本的に嘘をつかない。だいたい嫌な時は頷かず、曖昧に誤魔化す傾向にある。要するにあまり覚えたくないのだろう。



「まぁ良い。部屋で休め。疲れてるだろう。」



 紅炎は手をひらひらさせて、さっさと行くように促す。これ以上を話を長引かせて、の迷宮行きを撤回されても困る。ジュダルはあまり納得した風ではなかったが、大人しく踵返した。

 二人の姿が見えなくなってから、残された紅炎と白瑛はお互いに顔を見合わせる。



「望んだお話は出来ましたか?」



 白瑛はにっこりと笑って紅炎に尋ねる。



「…拒否されたな。完全に。」



 紅炎はため息交じりにそう答えるしかなかった。

 本当のところを言うと、世界の統一のためにも、彼女を説得してヴァイス王国のあり方を変えるのに同意させようとしたが、は考えがなさそうで、確固としたものがある。もしも紅炎が強硬手段に出れば、も態度を硬化させるだろう。

 さらにそれらはを慕う周りの者にも簡単に影響する。ヴァイス王国の行政権を紅炎が持っているとは言え、あくまでが承認してのことだ。彼女が納得しない限り少なくともヴァイス王国は頑強な抵抗を示すだろう。



「それ以外も半分も出来なかった。…あれは危機感がないな。」



 紅炎が話したかったのはだいたい二つ、一つは世界統一のための助力と賛同、そしてもう一つが神官団やアル・サーメンへの警戒だ。前者は徐々に理解を求めていけば十分だが、後者は気づいた時にはもう遅い場合もある。



「ただ、は馬鹿だが、存外馬鹿ではないかも知れない。」



 紅炎は少し自分の考えまとめるように、空を見上げて顎に手を当てる。何となくは気づいていたが、ヴァイス王国で行政権を巡って議論になった時、紅炎は確信した。

 は存外、馬鹿ではない。

 いや、知識という観点で見るなら、彼女はこの上なく賢くないわけだが、だからといって理論立てて物事を考えていないわけではない。は経験や知識がない。周囲の反応、状態、感情の機微、それを見て、は判断を下す。

 紅炎が視野に入れないような些細な人間の感情や物事を下から見る能力。それが必要であると紅炎は考えながらも、統治者である限りはある程度切り捨ててきた。

 まったく感情に寄った理想主義は見苦しい。だが、彼女が言葉で表現することは、人の動きを説明されればそれなりに論理的で、紅炎にも受け入れられない選択ではないし、理由が理解できればあり得ない考えでも同時になかった。

 だからこそ、珍しい才能を持つ彼女を紅炎は身近に置こうとしている。ただし、問題は山積みだし、今のままでは紅炎の本質的に言いたいことを理解し、同じ目標に対する違った答えを尋ねることは出来ない。



「ひとまず、あいつは知識がなさ過ぎる。どうにか勉強させないと、恐らく根本的に話が理解出来ていない。」



 ムスタシム王国、パルテヴィアがアル・サーメンのせいで滅びたと言ったところで、彼女はそれらの国を見たことも聞いたこともない。ヴァイス王国の政変も、実母が殺されたことも、記憶がないからいまいち実感がない。

 そして彼女は基本的に自分できちんと考えられないことに関して、決定を下さない。それは賢くもあり、同時にどこまでも愚かだった。



「…勉強ですか。」



 白瑛も酷く困った顔をして、視線をさまよわせる。友人だけに、の勉強嫌いはよくわかっている。



「なにか良い方法が見つかれば良いのですけど。」



 彼女の言葉は、のやる気を出させる画期的な方法がないとどうにも出来ないと、言ったも同然だった。









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