「じば…?」
は長らく全くといって良いほど発音出来ていなかった人間の名前を、やはり直接聞いて口にしてもよくわからなかった。
「あぁ、俺はシンドバッド。親しい者はシンと呼ぶから、それで良い。」
「ふぅん。シン、うん。その方が呼びやすいかな。」
はこくこくと大きく頷いて彼を見上げた。
青みがかったというか、紫がかった長い髪に輝く金色の瞳。顔立ちは非常に整っていたし、身なりも整っていたが、その服装は商人や従者のようだ。ただ、きらきらと輝く彼の宝飾品には、なにかが宿っているようだった。
金色のルフを纏う強い人。それがのシンドバッドに対する印象だった。
「よかったかな、シンが離宮に泊まっている人のひとりで。」
はにこにこと笑って、出してもらった飲み物に口を付ける。
茂みに隠れていたを、このシンドバッドという青年が、親切にも拾ってくれた、この離宮への宿泊者のひとりらしい。ちゃんと元の部屋に走らせてくれると言うし、一応お茶につきあったら、離宮の部屋まで届けると約束してくれたので、はこうして彼と、離宮の庭でお茶をしている。
近くに控えている彼の従者たちはを見て酷く驚いた顔をしていたが、は気にすることなく普通に彼とお茶をすることとなった。
今日は天気も良いので、外でお茶をするとぽかぽかしていて気持ちが良い。
「は、元気そうだな、」
彼は少し金色の瞳を細め、寂しそうに言う。はそんな彼をじっと見ながら、「ん?」と翡翠の瞳を瞬いた。
「わたし、お名前言ったかな。」
「…君は有名だからだ。第二皇女として、そしてヴァイス王国の首席魔導士として。」
「そう、かな。」
は思わず彼の答えに眉を寄せてしまった。
ヴァイス王国から帰ってきて、の身分と扱いは劇的に変わった。何やらたくさん贈り物をもらうようになった。食べ物にしか興味のないは、母方の従兄弟であるフィルーズから送ってくる贈り物以外はいらないから、かつてもいた教房の舞手や、遊郭のお世話になった姐さんたちにあげる。
そしてたまに彼女らから手紙や食べ物が届く。
皇族や女官、宦官、官吏、様々な人がの権利を求めてやってくる。彼らはの世話をかいがいしくするけれどを見ていなくてわからない。
そんな感じで、よくわからないまま、日々が過ぎていく。
「あまり、楽しくなさそうだな。その話題は、」
シンドバッドと名乗った彼は、の様子を見て、そう言った。
「そんなことは、ない、かな。」
少し煩わしくなっただけで、はだいたいのことから守られている。ただ、周りの変化はにも同じように変化をもたらす。
神官たちが少しずつに近づいてくるようになった。ジュダルは自分以外のの傍にいる人間を警戒しており、最近ぴりぴりしている。白瑛は常にの様子を尋ねたりしながら、酷く心配している。
はわからないことが多くても、何があっても、あまり焦らない。けれど、彼らの緊張や懸念は、そのままにも伝わる。だからたまに落ち着かない。
特に最近、ジュダルが酷く他の皇族や神官の動きを気にしていることを、はよく知っていた。
「今は、どんな生活をしているんだい?」
「どんな?」
シンドバッドの質問に、少し考えてからは笑って口を開く。
「んーっとね、歌を歌って、竪琴を弾いて、たまに外に出て、ジュダルや白瑛とお話をして、笑って、そんな感じ?」
答えると、彼は口元を押さえて笑った。
「どうして笑うの?」
「いや、変わってないな。本当に…」
語尾が震えている。とても嬉しそうな、悲しそうな、そんな言葉にをじっと彼を見上げる。ただやはり、彼を見た記憶はなかった
『もし、真実を知りたいと思う日が来たなら、残りのマギとシンドバッドを探しなさい。おそらくあの日と、すべてをご存じのはず。』
ふと、最初にヴァイス王国の議長であるイマーンはにそう言っていた。
正直詳しい名前について元々記憶力の悪いは覚えていなかったが、あの時聞いた名前に目の前の男の名前が似ている気がしたのだ。
「シンは、ヴァイス王国に行ったことがある?わたしを知ってるのかな。」
が尋ねると、途端、彼は悲しそうな顔をした。
にはヴァイス王国で育っていた、6才までの記憶がない。その頃丁度ヴァイス王国では政変があり、の実母は殺された。彼女の解放した元奴隷たちだった養父母が、を首都から連れ出し、辺境の村で育てられた。が持つのはその辺境の村で育てられた記憶のみだ。
ヴァイス王国の人々も、の覚えていない実母のことを悲しそうに、けれど誇らしげに語る。ただシンドバッドの目に宿ったのは、純粋な悲しみと後悔だった。
「いや、別に良いよ。わたし、覚えてないから、」
がそう口にすると、彼はあからさまにほっとした顔をする。
どうしてなのだろう、と思う。
多くの人は、が記憶がないと口にすると、どうして覚えていないのだと問い、最終的にはその記憶を取り戻せと言う。言わなくても、取り戻すことを望んでいることが多い。皆昔話がしたいのだろうと、は解釈している。
だが、は自分の記憶が怖い時がある。今の自分が否定されている気がするし、ない記憶をいわれるのは不安だ。
忘れていても良いと言ってくれるのは、ジュダルと、が傷つくことを恐れている白瑛だけだ。しかしシンドバッドもまた、が記憶を取り戻すことを望んでいないようだ。
だからこそ、もまた彼と話をすることに気楽さを覚えた。
「それにしても、俺のことを知らないのかい?」
「シンは有名人なの?」
が尋ねると、近くで給仕をしてくれていた、帽子を被った青年がぷっと吹き出した。シンドバッドは目尻を下げ、心底複雑そうな顔をした。
「シンドバッドの冒険って本、知らないか?」
「わたし、本嫌いなの。眠たくなるしね。」
「そうか。本当に変わってないな。」
シンドバッドは納得したのか、大きく頷いてに笑った。彼の持っていた悲しげな完全に空気が消えたのがわかって、も笑う。
「変わっていなければ、君が好きだろうと思って、食べ物を贈ってみたんだが、」
「あー、うん。シンは、この間届いていたお魚の人なのかな?」
に贈られてきたのは、女性に対する贈り物であるため、装飾品が多い。ただは宝飾品に興味がなかったので、詳しくそのあたりを記憶してはいない。ただ一つ、魚や食べ物を贈ってきた人がいたのだ。
「あのお魚はとても美味しかったよ。新鮮だし、あ、干物とかも、脂がのっていて、ふわふかしていて、とても美味しかったかな。」
日頃のを知る者なら驚くほど饒舌に、楽しそうに一つの物に関することを語る。
は多くの物に執着しないし、何かを声高に主張することも少ない。だからこそ、彼女が本当に食べ物をもらったことが嬉しかったのだとわかりやすかった。
「あぁ、あれはシンドリアでとれる魚なんだ。」
「シン…あ?」
「そうだ。俺の国さ。」
「ふぅん。そこはご飯がおいしいの?」
「あぁ、色々な食べ物があるよ。例えば、」
シンドバッドが自分の国のことを話すと、は翡翠の瞳をきらきらさせて話を聞いた。人の話を聞くのはだいたい退屈なので嫌いだが、彼はをよく知っているかのように、所々に食べ物の話を入れてくれるおかげで、時間を忘れるほどに面白いものだった。
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