部屋に戻ったら、眠っていたはずのがいなかった。
「途中で起きたのかよ。」
腕組みをして部屋の中をのぞき込み、ジュダルは長いため息をつく。
紅炎がまた、迷宮攻略に行くことになり、その打ち合わせを神官たちとすることになっていたのだ。今回はも行くし、相変わらず神官も何人か随行する。過酷な地であり、堕転させたい人間を放り込むことすらあるので、簡単な打ち合わせが必要だったのだ。
だいたい、彼女はジュダルにべったりで絶対に側を離れようとはしない。それが正直嬉しいことではあるのだが、あまり話を聞かせたくなかったので、眠っているのは都合が良いと置いていったのだが、裏目に出たらしい。
「アルスラン、おまえ見てなかったのか?」
ジュダルはファナリスである自分より年下の従者に尋ねる。だが、彼は首を横に振って、「ごめんなさい。荷運び、してたから、」と呟いた。
どうやら近くの女官に荷運びの手伝いをさせられていたらしい。
「おまえ。もう奴隷じゃねぇんだし、扱い場は一応俺たちの正式な武官ってことになってんだから、俺と以外の命令は聞く必要はねぇよ。」
アルスランは元々奴隷だったが、ジュダルが買い取ったのでもう奴隷ではない。
女官たちは元奴隷のアルスランに様々なことを軽く頼むが、本来主であるジュダルと以外、命じてはいけないのだ。ましてやジュダルのいない時に、から離れては、彼女の身の安全を守れなくなる。
「イスナーン…?が、いたから。」
アルスランはどうやらをひとりにするのはまずいとわかっていたらしい。だが、神官のイスナーンが彼女の傍にいたため、大丈夫だと思ったのだ。
神官をにあまり近づけたくない。それがジュダルの本音であるため、イスナーンが自己紹介にやってきた時、ジュダルは酷く不安になった。玉艶はを気に入っているし、彼女に対して直接何かをする気はないようだ。
しかし、イスナーンは玉艶とは異なる考えの下に動くことが多い。
「良いか。二度と、俺のいない時にから離れんなよ。誰がいてもだ。」
ジュダルが低い声で言うと、彼は金色の瞳を丸くして、こくこくと何度も頷いた。
に会いたがる人間、利用したがる人間は、本当にたくさんいる。彼女はヴァイス王国の主権の保持者のひとりであり、煌帝国の皇族で、神官でもある。マギであるジュダルと同等とは言えないが、それでも彼女は本来様々なことに気をつけなければならないのだ。
ましてや、組織の近くにいるのだから。
「…」
ジュダルは口をへの字にして、机の上にある手紙を見つめる。そこには綺麗な文字が並んでいる。
『ジュダルを探しに行ってきます、』
少なくとも彼女は自分の意思でこの部屋を出たのは間違いない。少しだけ、組織や神官に攫われたわけではないとわかり、ジュダルはほっとする。
「おい!を探せ、」
集まってきていた女官や衛兵たちに、ジュダルは命じた。彼らが真っ青な顔で走り去っていった理由は、ジュダルの気性が本当は荒く、不備があれば容赦なく罰を与えることをよく知っているからだ。
散々他人を弄んで、酷い目に遭わせ、殺してきたというのに、にはどうしても残酷なことや、悲しいことを彼女には見せたくないと思ってしまうのだ。彼女の前でだけ優しくいたいなんて、本当は都合の良い話である。
「おまえも探しに行ってこい。鼻が良いんだろ?」
アルスランにも直接言うと、彼はすごい勢いで廊下に出て走り去って行った。
「様がおられないのですか?」
女官や衛兵が集められ、騒いでるのに気づいたのか、イスナーンがやってきて、ジュダルに尋ねる。
「あぁ、おまえが見てたんじゃないのかよ。あいつ、何時に目を覚ましたんだ。」
アルスランの話を総合するなら、イスナーンがが起きた時、いたはずだ。
「10時過ぎですが。」
「まだ1時間しかたってねぇじゃねぇか。飯とか時間かかんのにはえーなぁ。」
足の悪いは服を着たり、顔を洗ったりするにも誰かの手がいる。女官を呼んだとしても朝の用意だけで2,30分はかかるし、その後、食事などをすれば大食なだけに一時間は余裕で過ぎていく。10時に起きたのなら、彼女が部屋をでてから時間はたっていないはずだ。
しかし、イスナーンは首を横に振る。
「起きてから、すぐお出かけになられたのかも知れません。」
「は?飯は。」
何にもこだわらないくせに、彼女は食事にだけはこだわるし、恐ろしい程の大食だ。退屈すれば四六時中何かを食べている。をよく知るジュダルからすれば、にわかに信じられない話だ。
ジュダルの言葉を聞いて、イスナーンは複雑そうに口を開く。
「落ち着かなかったようで、退出を命じられました。」
恐らく、イスナーンはが食事をしたのかどうか、知らないのだろう。ただ少なくとも女官や衛兵に食事を運ばせた形跡がない、だから食事をしていないだろうという推測なのだ。
「へぇ、嫌われてんだな。おまえ、」
はあまり他人に意味もなく退出を求めることはない。それを考えれば、退出を命じられたイスナーンはあまりに好かれていない。むしろ嫌われていると思って間違いなかった。
彼女曰く退屈な話ばかりする紅炎ですら、同室にいることを嫌がられたことなどないはずだ。なんだかんだ言って彼女は誰かに意見を押しつけることは少なく、唯々諾々という程の抵抗もなく、あっさりと誰かに従うし、かわりに誰かに従っていても明後日の方向を見ていたりする。
「…」
イスナーンは仮面に隠された顔に、不機嫌とも悲しみともつかない表情をよぎらせて黙り込んだ。それなりに、ジュダルの発言は彼にとって不本意だったらしい。
ただし、嘘は言っていない。彼女が同室を嫌がるなど、ほぼほぼない話なのは事実だ。
「おまえさぁ、外されたらしいな。迷宮入り。」
ジュダルは腰に手を当て、笑いながらイスナーンを振り返る。
今日朝に行われた皇后との話し合いで、迷宮には神官が随行することが決定された。それは至極当然のことだが、イスナーンがともに行くことに関しては皇后である玉艶は首を縦に振らなかった。
『が行くと言っているのでしょう?あの子に手を出しては困るもの。』
なぜだかわからないが、玉艶はが穏やかな生活をすることを望んでいる。迷宮に関しても、が望むならば仕方がないが、危険から本当は行かせたくないというのが本音のようで、日頃の残酷さや、自分の子供に対する愛情のなさからは信じられないほど、母親らしさを見せていた。
どちらかというとイスナーンのやり方の方が玉艶より穏健なくらいだ。にもかかわらず、玉艶は何故イスナーンを警戒していた。
「…意見の相違、でしょう。」
彼は一言そう言って、部屋を出て行った。
「意見の相違、な。」
ジュダルは肩をすくめてその背中を見送る。
確かにその通りかも知れない。を守るという意見が同じだからこそ、ジュダルと玉艶は今、の事に関してはだいたい足並みをそろえているのだ。でなければ、できる限り会いたくもない相手である。
部屋を改めて見れば、がらんとしている。
朝出る時、長い銀色の髪を広げたままが寝台の上で眠っていて、その頭を撫でて出てきた。朝なのに、少し部屋が暖かい気がしたのに、彼女がいないだけで冷たく感じる。寂しさや、不安がこみ上げてくる。
まるで、自分の中の何かを失ったような、変な感覚。
「勝手にちょろすんなって、言ってんだろうが、」
不安を苛立ちに変わり、心いっぱいにそれが広がる。ジュダルはひとり舌打ちをした。
過去の人