シンドバッドの目から見て、は10年前の記憶を失ってはいたが、何も変わってはいなかった。
柔らかく笑い、食べ物の話には興味を示すが、それ以外はあまり聞いていない。別に強い意志はないし、強いこだわりもない代わりに、他人から何を聞いても簡単に自分の意見を曲げない。地位や権力に興味がないし、理解もしない代わりに、誰であろうと態度を変えない。
容姿も、もちろん10年もして美人になったとは思うが、まだ幼さが目立ち、それほど昔の面影を失っているようには見えなかった。
「あ、落ちた。」
は南国の果物であるマンゴーを食べていたが、柔らかい果肉が食べにくかったらしく、その白い服に落とす。それはあまり褒められたことではなかったが、その鈍くさい仕草が、今のシンドバッドには少し嬉しかった。
昔もこうして、鈍くさいなと思いながらも、彼女の食べている姿を見て笑っていた。無邪気に、笑うことが出来た。
「シン、女官たちが、」
ジャーファルがやってきて、こそっとシンドバッドに耳打ちをする。どうやら女官たちがを探しているらしい。
もうそろそろ彼女と再会して一時間たつ。探されて当然だろう。
今となってははヴァイス王国の首席魔導士であり、煌帝国の第二皇女であり、マギに次ぐ地位を持つ煌帝国の神官でもある。例え彼女にその気がなかろうと、政治的権力を保持していなかろうと、彼女には価値があるのだ。
無邪気な彼女の様子と透けて見える様々な政治的な影響に目尻を下げていると、恐ろしい勢いで走ってくる少年が見えた。彼はの近くで急停止すると、座っているの手を掴んだ。
「あ、アルスラン、どうしたの?」
もうすっかり彼女は、帰らなければならないと言うことを忘れているらしい。赤い髪をした、より少し年下の少年は、金色の瞳を揺らした。
「ジュダル、呼んでる。」
感情に乏しい、淡々とした口調だったが、心配しているらしく声が少し震え、高かった。
「あ。そうだった。怒ってるかな、ジュダル。」
が近くにあった揚げ菓子を食べながら尋ねると、彼は僅かに頭を傾け、小さく頷く。
「ジュダル、か。」
シンドバッドが呟くと、は視線をシンドバッドの方へと向けてきた。
「うん。すごく心配性かな。最近特にね。」
がジュダルの庇護下にいると言うことは、シンドバッドも聞いている。彼のお気に入りだと言うことも。だが、彼女はそのことを悲しいとも、嫌だとも思っていないようで、酷く明るい。
「怒ると髪の毛引っ張るんだよ。」
は自分の長い白銀の三つ編みを、痛覚などないだろうに痛そうに撫でる。その様子からは緊迫性はない。
「、」
シンドバッドは机の上に置かれていたの手に自分の手を重ね、額に押し当てる。それは祈るようだった。
10年前、ヴァイス王国の首席魔導士だったの母は殺され、国王による独裁が始まった。ファナリスたちは戦った者と、を守って逃げ出した者に分かれた。どちらも結果的には、既に殺されてしまっている。
あの日の真実を知るのは今となってはシンドバッドと、そしてシンドバッドの部下たちだけだ。
はもう忘れてしまった。記憶も、力も全部記憶とともに。だから、覚えているシンドバッドだけは、遠い日の、約束を守らなくてはならない。
彼女は、運命に導かれるままに、ここに行き着いてしまった。
「もし、おまえがすべてを取り戻したら。」
祈るように、低い声が響く。は促されるようにシンドバッドをまっすぐとその翡翠の瞳で映す。彼の目がゆっくりと開かれ、を見据える。
「今度こそ、弱いおまえが泣かなくて良いように、守るから。」
彼はとても強い瞳をしていて、自分の瞳が彼の瞳に丸く映っている。それは光たくさん持っていて、不思議な感じがした。ひらりと蝶のような、鳥のような金色の欠片が空へと飛び立っていく。
はそれを目で追う。
「だから、俺に会いに来てくれ、いつでも頼ってくれ、お願いだから、」
低い声には大きな決心と願いが含まれていた。ざわりと木の葉が揺れる。
それは遠い日にも聞いたことのあるような言葉だった。もっと幼い、母親の腹の中で揺られていた頃、祝福とともに与えられた言葉によく似ていて、既視感を覚えて翡翠の瞳を瞬く。
「あれ、」
は、同じ言葉を言われたことがある気がした。
「貴方、」
記憶がゆっくりと蘇る。そう、少年に手を伸ばすと、彼は笑ってくれた。
自分よりずっと背は高いけれど、まだ年若い少年。首が痛くなるほど彼を見上げると、彼は苦笑して、自分を抱き上げてくれた。紫がかった長い髪に触っていると、くすぐったいとでも言うように彼はまた笑って、あやすように背中を叩く。
彼は誰だろう。知っている気もするし、知らない気もする。首を傾げて彼を見上げていると、その特徴的な太い眉が寄せられた。
『・・・そうだよな。仕方なかったんだ。』
自分に言い聞かせるように、彼は言った。その意味がよくわからなかったが、彼は酷く悲しそうで、何かを失ってしまったようだった。
『ごめんな。俺に力がなかったばっかりに。』
ぎゅっと強く抱きしめられたが、彼がどうして謝っているのか、どんなに思い出そうとしても、記憶になかった。震えている腕が苦しくて、彼がかわいそうで、ぽんぽんと頭を叩くと、彼は眼を丸くしてまたくしゃりと表情を歪める。
『もうそろそろ、』
後ろにいた大きな体をした男が躊躇いがちに彼に言う。ふと、彼とさよならをしなければならないと気づいた。
彼のことを誰か覚えていない。でもさよならするのが嫌で、彼の腕にしがみついた。見かねた父母が自分を彼から引きはがそうとするが、泣きじゃくってわめいて、体力がなくなるまで彼にしがみついて泣いた。何故だったのかはわからない、今でも彼と過ごした記憶は一つもないのに。
木漏れ日がゆらゆら揺れていた。温かいそのお日様がどんな色をしていたのか、葉が柔らかい光の中でこぼれ落ちたことも、全部細かく覚えている。
少年はなかなか抱きしめている小さな自分を離そうとはしなかった。
『・・・大丈夫。私たちが命つきるまでこの子を守るわ。』
赤い髪をした母が少年に言う。穏やかな表情の父も、決心したように大きく頷き、彼の肩を叩いて少年を宥めた。促され、少年はやっと自分の体を地面に下ろす。それでも肩を掴んだまま、じっと彼はこちらを見ていた。
後にも先にも、村に赤い髪以外の人が訪れたのは、最初で最後だった。
「シン、わたしが小さい頃、村に、来たことがある?」
は懺悔でもするように、の手を自分の額に押しつけている彼に尋ねる。
「あぁ、ファナリスたちと一緒に、おまえを王都から連れ出したのは俺たちだからな。」
シンドバッドは自嘲して、でも助けられなかった、と続けた。
10年前、ヴァイス王国の政変が、そしての母の死がもたらした変化は、ヴァイス王国にとって大きかった。国王による圧政が始まり、それに反対する議会派の多くが殺され、司法庁は解体された。10年にも及ぶ圧政は人々に深い傷跡を残した。そのことをはヴァイス王国に行って知った。
の母である主席魔導士マフシード・スールマーズの死は、一つの希望が潰えた、その象徴だった。
彼にとっても、自分の無力を示す者だったのかも知れない。
「よく、覚えてないし、困ってることも、そんなにないから、大丈夫だけど」
は金色のルフを驚くほどたくさん纏い、傷つきながら前を向いている彼を見据える。
本来正しい運命の中にあれば、全く異なる未来が待っていたであろう。二人の出会いも、間柄も、正しいものではない。だが、それでも運命は二人を引き寄せていく。くるくる回りながら、何度も二人を結びつける。
「何かあったら、言うね。」
は穏やかに、無邪気に笑う。
「あぁ。今度こそ、俺は必ず君を守れる。」
強くの小さな手を握りしめ、シンドバッドは大きく頷いた。
その運命を理解しているようで、また彼らも本質的には理解していなかった。
過去の人