の勉強嫌いは驚くべきレベルだった。



さん、貴方人の話…聞いてますか?」



 紅明が何度目とも言えない言葉を口にする。彼の目の前に座っているは、林檎をむしゃむしゃと食べながら、眉を寄せているだけだった。

 紅明の手には先ほどにやらせた試験。彼女と彼を隔てている机の上には、文字がびっしり書かれた巻物が置かれている。

 が本日勉強しているのは『煌帝国の歴史』で、レーム帝国ほど長い歴史は持たない。版図を拡大したのも最近であるため、せいぜいここ数十年の事件が主要部分であったが、にとっては欠片も興味を抱けないものだったらしい。

 つい数時間前にやったばかりの内容だったはずなのに、テストの結果は散々。



「うーん、」



 唸る彼女はただその美しい翡翠の瞳で、文字を眺めているだけだったのだろう。紅明も流石にお手上げで、ため息をつくしかなかった。



「…おまえは、本当に座っていたのか。」



 紅炎もテストの紙切れの点数を見て、ぴくりと片方の眉を上げる。



「ほんとーにバカだよな。」



 ジュダルは自分の課題を終え、に目を向けた。

 思想やら歴史やら、どんな話をしたいと思ったとしても、辺境で育ったは一般的な知識が乏しく、そもそも根本的に話にならない。離宮から帰った途端紅炎はそれを危惧し、皇女となった限りは勉強しろと命じたのだ。

 は必要ないのではないと一生懸命主張していたのだが、そこに偶然やってきた玉艶の一言で全ては決まった。



『わたし勉強きらい…。』

『知ってるわ。だめよ。』

『でも、』

『だめ。』



 貼り付けたような笑顔でたたき落とされていく言い訳を眺めながら、ジュダルは嫌がるを眺めていた。

 最高位の神官であるジュダルですらも、日に数時間、年齢からそれなりに勉強をさせられている。今まで彼女もそれを隣で眺めていたわけだが、生憎文字を見るのが嫌いな彼女は数学や科学など、そう言った数字、単発で出来る物が以外嫌いで、見ようとも聞こうともしなかった。

 それでも、ジュダル付きのただの巫女や芸妓としてであれば良かったかも知れない。



『良いこと、。貴方はこれから、いろいろな人に会う可能性があるの。』





 ただ、皇女、そしてヴァイス王国の首席魔導士である限りは、全てが不格好で何もしないというわけにはいかない。これからジュダルにくっついていれば、国賓に会うことだってあるのだ。せめて誤魔化し方くらいは学ばなければならない。

 そのために、知識は必要だった。



『えぇ…』




 は大きな翡翠の瞳がこぼれそうなほど目尻を下げ、悲しそうに言う。ジュダルは机に頬杖をついてそっぽを向いた。

 これだこれ。

 この表情を見ると、どんなに彼女にむかついていたとしても仕方ないなと思ってしまうし、きつく言っていたとしても、可哀想だからとそれをやめてしまう。美人って、得だな、なんて思っても、一番怖いのは彼女がそれを意図してやっていないところだ。

 最終的に、にきちんと様々なことに注意を促さなければならないジュダルも、の友人である白瑛もに甘い。

 だが驚くべきことに、に甘いという点では同じ玉艶は首を横に振った。



『貴方が、勉強が得意でないことは知っているわ。でもね、みんな努力しているのだから、貴方もしなくては駄目でしょう?』



 よしよしと頭を撫でて、そう言う。の表情が引きつっていたことは言うまでもない。

 その結果、は週に二日ほどは紅炎の希望で一応、兄である紅明か紅炎に、週に2日ほどは普通の師をつけて学ぶことになったのだが、一向に学力は上がっていない。いつも目尻が下がり気味な彼女が、目尻をつり上げ、眉間に皺を寄せるようになっただけである。



「…全然、駄目ですね。」



 紅明はが先ほど行ったテストを見て、頭を抱える。

 辺境の村で育っている割に、は文盲というわけではない。普通の書物の読み書きをはじめ、貴族や皇族しか読めないトラン語までちゃんと読めるし、字もジュダルなどよりよほど綺麗だ。にもかかわらず、本は読まない。頭に入れない。

 それに対して科学や算術と言った、数字や図式の問題には恐ろしく強く、科選の難解な問題まで全て解いてみせる。要するに彼女は、理数に才能はあるが、文系に関しては触れたくもないらしかった。



「貴方ね、やればできるでしょ。算術出来るんですから、どうしてやらないんですか?」

「だって、面白くないし、眠たいんだもの。」



 は臆面もなくそう言って、歴史の本を遠ざける。文字が多い本は彼女にとっては全く面白くないらしく、学ぶ気も見る気もない。むしろ普通の人間にはつまらない魔法式や、数式を見て過ごす方が、ずっと楽しそうだった。




「変わった趣味してんなぁ。」




 ジュダルは心底呆れてそう言ったが、はあまり気にしていないらしく、近くの机に置いてあった桃に手を伸ばす。ジュダルは軽そうな彼女の頭を軽く馬鹿にするように小突くが、全く彼女は気にしない。

 何となくそれがむかついて、が剥いていた桃をとりあげる。



「それ、わたしのだよ。」

「良いじゃねぇか、もう一個剥けよ。」

「半分頂戴、」



 ジュダルの服を引っ張って強請る。ジュダルは少しうざそうな顔をしたが、仕方なくかじった桃をに返した。



「…正直、途方に暮れるのですが、」



 紅明はこんなに出来の悪い生徒を見たことがなかったらしく、試験を放り出す。




、おまえ何故そんなに興味がない。」



 紅炎は眉間に皺を寄せてに問うた。



「だって、紙に書いてあることなんて、なぁんにもイメージ出来ないもの。」



 は唇をとがらせた。

 本を読んだところで何も想像出来ない。文字を映像化出来ないのだ。だからにとって本は面白くないし、頭に入らない。



「もう良い、時間の無駄だ。…絵本でも用意しろ。もしくは行かせろ。」



 紅炎は潔く、こんなことを続けても時間の無駄だと理解したのだろう。低い声で腕組みをして紅明に命じる。



「おいおい、そりゃ駄目だって。」



 の管理権はジュダルにある。ジュダルなしにが動くことはない。そう言外に告げると、紅炎はジュダルを鬱陶しそうに一瞥し、「おまえも行け、」と一言命じた。



「はぁ?んな面倒くせぇ。」

「外遊と偵察だ。シンドリアが、を食客として受け入れたいそうだ。」



 ジュダルはその緋色の瞳を丸くする。



「まじで?」



 食客とは、要するにシンドリアでは招かれた賓客のことを言う。要するにを食客として、国賓のひとりとして招きたいと言っているのだ。

 皇子や皇女を勉学のために外国に行かせたり、人質とすることはよくある話だ。しかしながら、は第二皇女とは言え、ヴァイス王国の首席魔導士であり、その存在には政治的な意味が多分に含まれる。彼女を招きたいという限り、意図があるはずだ。



「おいおい、こいつ、昔、シンドバッドに会ったことがあるんだぜ?覚えてないとは言え、」

「そうだな。」



 ジュダルの懸念に、紅炎はすました顔で言った。それで、この一件がある程度決まっていることをジュダルは理解する。

 にはヴァイス王国で、首席魔導士だった実母と育った記憶がない。それは彼女が何故金属器を保持するのか、何故彼女が特別だったのか、そういったことが全て含まれる。はあまり記憶が戻ることをよく思っていないし、怖いとすら考えている。ジュダルも彼女が離れていかないのならそれで良いと思っている。

 それに対して紅炎はもともとは記憶を取り戻し、その力と能力を持つ義務を果たすべきだと考えていた。

 そのために、の幼い頃を知るシンドバッドと関わらせようとしたのだ。



「どうりで離宮にあいつがいたわけだ。」



 ジュダルは紅炎を睨む。

 彼は当然、離宮での遠乗りの際、国賓としてシンドバッドが訪れていること、元々何度かに贈り物をしていて、それが食品であることを知っていたのだ。



「おまえだって行きたいだろう?」



 紅炎は退屈そうに机に突っ伏しているに視線を向ける。



「え?なに?どこ?」

「シンドリアだ。」

「シン?なにそれ、」

「おまえ、会ったんだろう?」

「シン?」

「そいつの国だ。」

「本当!?ご飯美味しいんでしょ?」



 ががばっと机から顔を上げた。先ほどから勉学については何を言っても駄目だったため、その食いつきの良さに紅明はぎょっとする。



「おまえは、飯のことにしか…」



 興味がないのか、と口にしようとしてから紅炎は少し考えるようなそぶりを見せ、近くにあった果物を手に取り、に見せつけるようにした。はそれをじっと目で追う。紅炎が手を動かせば、彼女の視線もその頭ごとそれを追う。



「この果物は知ってるか?」

「まごー?」

「マンゴーだ。これは今はシンドリアの特産物だが、昔はパルティアでしかない果物だった。」

「んー…」



 途端、興味がなさげになる。ただし紅炎はの目の前で挑発するように橙の実を揺らせば、はまたそれを目で追う。



「食いたいな。」

「うん。」



 即答。



「ところがこれが突然なくなった。」



 マンゴーを紅炎は自分の袖の中に隠す。が目尻を下げ、眉間に皺を寄せて、酷く衝撃を受けた悲しそうな顔をした。



「嫌だな。」

「うん。すっごく悲しい…」

「何でだと思う?」

「作れなくなっちゃったの…?」

「そうだ。戦争があったから作れなくなった。」

「なんで戦争するの?」

「それはだな…」



 紅炎は至極真面目な顔で淡々と話す。相づちを打つ、これ以上ないほど高く、恐ろしく悲しそうな声音に、見ている紅明とジュダルの心の方が震える。だが、内容が内容だけに、すぐにお互いに吹き出してしまった。

 ひとまずは人の話を聞くと言うことを覚えたらしい。それが例え果物を前にした時だけのものだったとしても、新たなやり方に紅明も少し目を丸くしながらも、納得した。





馬鹿と勉強