「レームさんの、林檎美味しいねぇ。」
紅炎から講義の最中にもらった林檎を寝台の上でかじりながら、は嬉しそうに呟いた。
「…」
ジュダルは無言で彼女に呆れた視線を送るが、どうやら伝わらないようだ。
元々理数系の得意なは、紅炎が食べ物で彼女を釣り、食べ物に中心を置いて歴史を話すようになると、あっという間に優秀な生徒に早変わりした。食べ物に関わることに関しては覚える気があるらしい。
ただしこの教え方には深い歴史と文化の知識が必要であるため、ほぼは紅炎に歴史など文系の授業を教わることとなった。紅炎は各国の歴史と文化に関しては、これ以上ないほどの知識を持ち合わせているからだ。
もともとは紅炎の強硬なやり方をあまり好ましく思っていない。また、紅炎はよりも年上で、難しい話ばかりをしていたため、知識の足りない彼女にとって紅炎の話はつまらないもののようだった。
だが、紅炎が食べ物に主眼を置いて話をするようになると、は彼の話をよく聞くようになった。紅炎が恐らく、の興味を持つポイントをうまく押さえるようになったからだろう。
ジュダルとしては、と紅炎が仲良くしているのは、面白くない。
「おまえ、寝台に汁落とすんじゃねぇぞって、言ってる傍から落としてんじゃねぇか!!服!!」
「え?あぁ、あららららら、」
「あららじゃねぇよ!!」
「ごめん、」
は真っ白の寝間着に落ちた果汁をそのあたりに置いてあった手ぬぐいでこする。
「乾いたもんで拭いても仕方ねぇだろ、」
ジュダルは手ぬぐいを水で濡らして彼女の服の汚れを拭う。だが林檎の果汁は目立たず、いまいちどこに落ちたのかがわからなかった。
「ねえ、ジュダル、わたしも紅炎お兄さんと一緒に、迷宮に行くんだよね。」
は少し寝台の上で躰をずらし、戯れるようにジュダルに抱きついて背中に手を回し、ジュダルを見上げる。ジュダルは少し驚いたが、最近彼女が自分に躰を寄せてくることはよくあるので、温かいし、手ぬぐいを放り出して彼女の躰を受け止める。
「覚えてないけど、わたしも迷宮に入ったんだよね。」
はその身に金属器を二つ持っている。
ただし6年前以前の記憶を彼女は失っているため、基本的に何故彼女が迷宮に入ったのか、どんな気持ちで、何を目指し、王の資格を手に入れたのか、彼女は覚えていない。その記憶は、彼女の実母の死とともに、失われた。
従兄のフィルーズの話では、迷宮に幼い彼女が入ったのは、彼女を殺そうとした国王が彼女を突き落としたからで、彼女はまだ4,5才だったという。それが本当なら彼女は恐らく、最年少で金属器を手に入れたことになる。
その不自由な足とともに。
「わたしは迷宮で、何を見つけて、何を見たのかな。」
の金属器のジンは、ジュダルの求めにも応じない。ただし、赤い眼球を持ち、山羊の頭、鳥の体を持った、黄金の蜘蛛。ジュダルの求めにも応じず、名前もわからない。出てきたのは玉艶が現れた時と、の父親が彼女の躰をのっとり、ヴァイス王国の首都の結界を破ったと時、その二度だけだ。
元来魔導士としての力を持たなかった彼女は、次期首席魔導士に指名されていても、全く役立たずな存在だったはずだ。しかし、迷宮で力を見つけ、は名実ともに金属器使いとして、重要な存在となった。
ある意味で、国王派との争いの始まり。
「さぁな。」
ジュダルは答えに窮し、適当な相づちを打った。
迷宮に無理矢理落とされた彼女を助けに入ったのが、シンドバッドだというから、ジュダルはあまりに彼に関わって欲しくなかった。
シンドバッドと会い、昔の記憶を取り戻せば、広い世界を思い出せば、はここを出て行ってしまうかも知れない。ひとりで狭い箱庭で閉じ込められている自分など振り返らないかも知れない。だから、思い出して欲しくないのだ。
はその翡翠の瞳でジュダルを映して、きゅっとジュダルの背中の服を握りしめる。
「ジュダルは、わたしの昔の話をするの、いや?」
ジュダルの反応から、理解したのだろう。まっすぐの問いに、ジュダルは何も言うことが出来ない。
に記憶を取り戻して欲しくない理由が、口に出すのが憚られるほどに酷く自分勝手で浅ましいものであることを、ジュダルは承知していた。
「うん。わたしも、嫌じゃないけど、やっぱり怖い、かな。」
はジュダルの態度で答えを知り、ジュダルの胸に頬を寄せる。
ヴァイス王国に行って、自分に期待している人々を見た。必死で戦って、答えを見つけようとしている人々を見たけれど、自分の記憶に向き合うのは、やはり怖い。思い出してはいけないと、誰かが言っている気がするから。
「でも、ジュダルはわたしの傍にいてくれるもんね。」
「どういう意味だよ。」
「ひとりじゃ心細いからかな。」
ぎゅっとジュダルの背中にまわされている腕が力を込める。細い腕の力はそれほどではなかったが、縋り付かれてる感じが何故か心地良い。
「ジュダルがいるから、迷宮も大丈夫だよね。」
は不安を抱きながらも、ジュダルに頼る。その無邪気さに不安を覚えながらも、ジュダルは心一杯に広がる温もりに、彼女の躰を抱き返した。
幼い頃から抱きしめられることもなく、また他の命を抱きしめることもなかった。許されなかった。そんなジュダルに唯一許された存在。それが例え玉艶やアル・サーメンが何か意図があってしたことだったとしても、彼女には何の悪意もない。
ただ自分を慕ってくれる。
「あぁ、大丈夫さ。」
本当は守れっこない。アル・サーメンにジュダルは勝てないし、玉艶に対しても同じだ。本当は、彼女を守れるほどに強いわけでもない。心の中にある不安は大きすぎて、どうしたらよいのかわからない。だが、ジュダルは彼女には、自分と同じような不安や悲しみを抱いて欲しくないから、守りたいのだ。
「でもなぁ、おまえ、すぐ俺から離れるじゃん。この間も、勝手にシンドバッドのヤツに会ってるしよぉ、」
「あれは、ジュダルがわたしが寝てる間にいなくなるからだめなのかな、」
「あぁ?俺が悪いってかぁ?」
「そう、かな。」
「言うようになったじゃねぇか。」
離れがたいので彼女を抱きしめながら、片手で彼女の背中に流れている長い銀色のお下げを引っ張る。すると、彼女もジュダルの黒いお下げをがしっと掴んだ。
「…やるじゃねぇか。」
「まだひっぱってないから、してないかな。」
が少し不機嫌そうな声音で言う。だが二人で顔を見合わせ、同時に小さく笑った。
「わたしはジュダルが一緒なら、ご飯のおいしくないところに行ってもよいかな、」
「迷宮に飯なんてねぇよ。」
「え、ないの?どうやって生きてるの?」
「んな絶望的な顔すんなよ。」
ジュダルは心底呆れて彼女を見下ろす。
紅炎との勉強でも思ったことだが、食い意地が張りすぎだろう。食べ物のためになら、誰にでもついて行きそうだ。その誰でもというところが、ジュダルを苛々させるし、同時に不安にもさせる。
「おまえ食いもんくれるヤツにほいほいついてくなよ。」
「ジュダルが止めたら良いんだよ。」
はさらりと言う。
出会った頃はまだ遠慮があったのに、最近の彼女はしっかりジュダルに口答えもするし、かなり勝手なことをするようになってきている。同時にジュダルもまた彼女に多くのことを許容するようになっている。
関係が、ゆっくりと変わる。そして、同時に、確かに、ゆっくりとなにかが動き出していた。
馬鹿と勉強