が久々にジュダルとともに玉艶に会ったのは、迷宮に行く前日だった。
「良いこと?迷宮はとても危ないの。大丈夫だとは思うけれど、絶対にジュダルから離れては駄目よ。」
いつものゆったりとした優雅な口調で、に言い聞かせる。
「はーい・・・」
はというと、いつも通りジュダルの隣に座って与えられた蒸し菓子を貪っていた。
「なあ、ぜってーこいつ聞いてねぇぜ?」
言うまでもないことだが、は基本的に人の話を右から左に聞き流すのが得意だ。口元を袖で隠した玉艶は、目だけ弧を描いた表情を貼り付けて、を見下ろしていた。
彼女はというと蒸し菓子を一つ食べ終えると、手についた蜜をぺろりと舐めとる。白い指を舐める赤い舌は、ぞくりとするほど妖艶で、ジュダルは少し疼くものを感じて視線をそらす。はというと知ってか知らずか、蒸し菓子にまた手を伸ばした。
しかし、玉艶が蒸し菓子の皿を自分の方に引く。
「え?」
が初めて顔を上げて、玉艶の方を見た。
「聞きなさい。」
玉艶が満面の笑みとともにに言う。普通なら皇后の言葉に震え上がったことだろうが、彼女はというと、僅かに首を傾げて、もう一度更に手を伸ばした。当然玉艶が蒸し菓子を与えるはずもなく、その手は空気を掴んだだけだった。
「おまえ、本当に恐れ知らずだよな。怖いとかねぇわけ?」
ジュダルは机に頬杖をついて、隣のを眺める。
アル=サーメンの魔性。ジュダルですらも玉艶を心底恐れているというのに、にとって玉艶は別に恐怖を抱く対象ではないらしい。
「怖い?玉艶さんが?」
は残念そうに手を引っ込めてから、改めて玉艶を見上げる。
漆黒の瞳に、漆黒の髪。年齢の割に異様なほどに若く美しい容姿。漆黒のルフを纏う彼女だが、怖いかと聞かれれば、にとっては怖い相手ではない。
「玉艶さん、わたしに意地悪するの?」
「ふふふ、そんなことしないわ。」
玉艶はクスクスと笑って、「でもこれは意地悪かしら、」と自分が手に持っている蒸し菓子の皿を軽く持ち上げて見せた。
ただ、ジュダルは玉艶の動向を注意深く見つめる。彼女がいかに残酷で、計算高く、そして自分の血の繋がった子供ですらも利用する。殺す。今、例えを可愛がっていたとしても、いつかそうなるかもしれない。
その時、ジュダルが命を賭けたとしてもを守れるのか、むしろジュダルを縛るための手段なのか。
玉艶はジュダルの視線に気づいてか、ゆったりとジュダルに向き直り、微笑む。
「安心なさい。ジュダル。私はこの子を傷つけたりしないし、神官たちにもそう命じているわ。」
「・・・」
「信用できないって顔ね。まあ、当然かしら。」
生まれた時から組織に囲い込み、ジュダルから全てを奪い、堕転させた。ジュダルの運命の全てを操った玉艶を信用できないのは当然だ。玉艶自身でも十分に納得できるだけの理由があった。
「どちらに転んだとしても、が望む限り、そしてが納得してジュダルから離れない限り、私たちには止められないわ。」
玉艶は目を伏せる。
「わたしが、望む限り?」
が玉艶の言葉を反芻する。玉艶は視線を上げて、漆黒の瞳でを映す。
「そう、貴方が望む限り。でも、ジュダルが望む限り、貴方はジュダルから逃げられない。」
玉艶はを止めることは出来ない。だからが望む限りは、彼女がジュダルとともにいることを止められない。そして、殺すにも危険がつきまとうため、躊躇いを覚える。
だが同時に、もう一つの事実がある。
が仮にジュダルから逃げたいと考えても、ジュダルが望み続ける限りは逃げられない。アル=サーメンはジュダルを管理下に置いている。仮にを殺して危険を増やすより、管理下にあるジュダルを通じてを支配する方がよほど安全だ。
「わたしは、ジュダルが好きだから、ジュダルから逃げたりしないよ。」
は玉艶の言っていることがわからず、翡翠の瞳を何度か瞬く。
「そうかもしれないわね。貴方は逃げないものね。いつも。」
玉艶は柔らかな表情で、湯飲みを持ち上げる。そこに沈んでいるのは、美しい形をした赤い花弁の茉莉花だ。
別に、犠牲にするつもりはなかった。しかしながら彼女は逃げず、結果的に全てを背負い、美しいままに沈んでしまった。その命を拾い上げたのは、確かにソロモンであったかも知れないし、同時にウーゴであったのかもしれない。
そして玉艶も、アル=サーメンですらもまた、それを拾いたいと思ってしまった。
彼女が本当に何をしようとしていたのか、知っている。そして誰もが、それを間違っていると思い、行動を起こし、しかし結果的に彼女を失った。
「だから、ジュダルも覚えていなさい。」
玉艶は蒸し菓子をに渡す。彼女がそれを食べ始めたのを確認してから、ジュダルをまっすぐ見据えた。
「を殺そうとするなら、誰であろうと許さないわ。」
漆黒の瞳が僅かに見ひらかれ、狂気を帯びる。ぞっとするほどの威圧感に、背筋を冷たいものが通り抜けるのを感じ、ジュダルはゴクリと唾を飲み込んだ。
「いつか、貴方はこの子を恨むかも知れない。でも、殺すことは許さないわ。覚えておきなさい。」
ジュダルの恐怖を理解してか、玉艶は唇の端を妖艶につり上げて、蒸し菓子を食べるのに夢中のへと目を向ける。
「運命が守れば、汝らが子は繁栄をもたらす、運命から逃げれば子は滅びを連れてくる。」
玉艶が口にするのは、予言。それはかつてが生まれる前に、レームの賢者がに与えたの道しるべとなるべき、予言だ。それは誰が運命を守ることを必要としているのか、運命から逃れるとは、堕転を示しているのか、何もわからない。
そして同時に、玉艶が彼女の運命を守っているのか、運命から逃しているのか、それすらも終わりにならねばわからないだろう。
ただ、わかることがある。
「ひとまず、迷宮ではジュダルから離れず、お利口にするんですよ。」
玉艶は蒸し菓子を食べているの頭を撫でながら、子供に言い聞かせるような口調に戻る。だがやはりは何も聞いていなさそうだった。
「あとジュダル、イスナーンに目を配っておいてね。」
玉艶は若干諦めたのか、ジュダルに視線をやる。
「あいつ、をどうしたいんだよ。」
「さぁ、わからないわ。私とは意見が違うもの。」
過激派の玉艶に比べれば、自主的に堕転を推し進めるイスナーンは穏健だ。元々考え方が違う。
「それに、この子に魔法を教えるなど、無意味よ。今とてどうせ、ジュダル、貴方の得意な魔法しか使えないのでしょう?一般常識は必要だけれど、それ以上の勉強など経験学問以外に無理でしょうに。」
玉艶はしたり顔で湯飲みに口を付ける。ジュダルも玉艶の意見に全力で同意だった。
イスナーンはに関わって魔法を教えようとしていたが、彼女の性格からして恐らく、教えるだけ無駄だ。ほとんど人の話など聞いていまい。それに元々争いごとを好まぬ質であるため、なおさら覚える気すらないだろう。
ジュダルと系統が同じで、得意な魔法が似ているため、ジュダルが出来る魔法はだいたい小規模なら出来るが、日頃移動に必要な浮遊魔法以外ろくに魔法を使ったのを見たことがない。後は勝手に出るボルグくらいのものだ。
玉艶はくすくすと笑いながら立ち上がり、机に手をついて身を乗り出してジュダルの耳元に唇を寄せる。
「気をつけて見ておいて頂戴。私はその子を堕転させるつもりも、殺す気もないの。」
神官たちには言ってあるけれど、心許ないから、
そういう玉艶はに自分が与えられるだけの地位を与え、国を与えた。それは一体彼女のどんな運命と末路に繋がっているのだろう。そして彼女は何を願っているのか。本当に、の無事を願っているのか。
「まあ、信用しなくてもどちらでも良いけど、の事についてなら、何でも言ってきなさい。の望み通りにしてあげる。」
ジュダルの望み通りに、とは玉艶は言わなかった。にこにこと笑いながら、三つ目の蒸し菓子を食べているを見つめるその眼差しを眺めながら、ジュダルはため息をついた。
遠い日のやりなおし