の長い白銀のお下げが風に揺れる。きらきらと輝くルフが、彼女の肩にとまる。
無人の町並みを食い入るように見つめる少女の背中は小さくて、風にはためくワンピースと長衣の裾が、頼りない。彼女がすっと白い手を、まるで人でもいるかのように宙に伸ばす。いつもとは異なる消えてしまいそうな背中に、ジュダルは酷く恐ろしくなって、彼女に手を伸ばした。
後ろから彼女の腰に手を伸ばし、自分の方に抱き寄せる。上から彼女の表情をのぞき込むと、翡翠の瞳で不思議そうにジュダルを見上げていた。
「なにか、不安かな。」
「違ぇよ。」
ジュダルは素っ気なくそう答えて、彼女の躰を後ろから強く抱きしめる。
「おまえは俺といるよな、」
確認するように吐露した本音。自分の口からあまりにも滑らかに出て、取り戻すことなど出来ない。自分で問うたのに、答えを欲しくなくて抱きしめる腕に力を込めると、その腕をの小さな手が軽く叩いた。
「わたしは、ジュダルといたいかな、」
高い声が、当たり前のように揺るぎなく響く。
言葉によって与えられるいっぱいいっぱいの喜び、頼られることで、一緒にいてもらえることで抱く充足感。腕の中にある温もり。ジュダルが望み続けて、ずっと得られなかった当たり前の感情や営みを、は簡単に与える。
だがそれは、ジュダルに重荷を負わせる。
本来なら世界で3人しかいない、特別なマギであるジュダルは、組織のコマであり、ずっと自由に生きることを許されてこなかった。壊すことはあっても、自分にいっぱいいっぱいで、他人を守る余裕なんてなかったのだ。
それでもの温もりをその腕で抱きしめていたいなら、ジュダルは彼女を守らなければならない。その強さを、持たなくてはならない。
覚悟は、まだない。でも、彼女がいないことを想像すれば、心が絶望で満たされる。
「最近、本当にどうしたの?」
は目尻を少し下げて、心配そうな顔をしていた。
「・・・俺の覚悟がたりなくて煮え切らねぇだけ。」
そう、彼女のことを、命を捨ててでも守るとジュダルが思えれば良いのだ。
どんなにアル=サーメンに逆らってでも、を守る、そのためだったら争うことを厭わないと、強く覚悟を決められれば、こんな気持ちにならないのだろう。だが今まで大切なものを何も持ってこず、同時にアル=サーメンの恐ろしさを誰よりも知っているジュダルには、そんな覚悟はなかなか出来ない。
死と絶望は、何よりも怖い。自分が死ぬことも、を失うことも、同時に恐ろしいのだ。
「ふぅん、わかんないけど、わたし、ここにいるし、いいんじゃないかな。」
いつもの適当な感じで答えて、彼女はまた視線を目の前の光景に向ける。
風がどこからともなく吹いている。翡翠の瞳はまだ無人の廃墟に向けられていたが、迷宮生物たちがを無人の廃墟から遠ざけるように丸い体躯でを押す。
「もう行こうぜ。」
ジュダルは彼女を抱きしめる腕を解いて、代わりに手を引く。は最初動かなかったが、じっと繋がっている手を眺めてから、小さく頷いた。
「うん。そうだね。紅炎お兄さんと紅覇くんを探さなくちゃ。」
「忘れたのかと思ってたぜ。」
「うーん、なんかね。懐かしい気がしたんだ。」
「懐かしい?」
「でも、もっと人がたくさんいた気がする。人・・・?んー、わからないけど。」
がこの迷宮に入ったのは間違いなく初めてだから、自分が攻略した迷宮と重ねているのだろう。だがどちらにしても間違いなく、人などいるまい。いたのは迷宮生物だけのはずだ。後は、この迷宮に入って死んだ人間くらいだろう。
迷宮をジュダルが出現させてそれほど日はたっていないが、入って命を落とした人間は間違いなくたくさんいるはずだ。
「おまえ、まさかと思うけど、死んだヤツの幽霊でも見えんのか?」
ジュダルが真剣な顔で尋ねると、は翡翠の瞳を見開き、首を傾げた。
「え?幽霊って、見たことないかな。そういうのじゃ、ないけど、なんだろう。忘れてる感じ?」
「おまえ、忘れっぽいじゃん。ついでに記憶喪失だろ。」
確かには過去の記憶の一部を失ってはいるが、それを抜きにしても常日頃から彼女は記憶力が悪いし、忘れっぽい。過去の記憶や魔法による、彼女の父親による隠蔽などを視野に入れたとしても、彼女の日頃の忘れっぽさは説明できない。
「そうなんだけど、まあそうかな。」
は自己完結したのか、小さく頷いて、前へと向き直る。
「ねえ、ジュダル。」
「ん?」
「わたしが、記憶を取り戻したら、いや?」
翡翠の瞳が、ジュダルをまっすぐと映す。ジュダルの血を浴びせたような緋色とはまったく異なる、森と空の色を混ぜたような、澄んだ瞳。圧力はなく、柔らかいのに無邪気すぎて、それは嘘をつくことを許さない。
「・・・」
ジュダルは咄嗟に答えられず、唾を飲み込む。
彼女の記憶、それを取り戻しても、取り戻さなくても、本当はに変わりはない。それでもジュダルがあまりそのことを歓迎できないのは、多分二つ理由がある。
一つ目はきっと白瑛も一緒。10年前、政変に巻き込まれ殺されたの実母、そしてこの間亡くなった養父母の死。それを思い出せば、彼女が悲しむのではないかと思うから、記憶を取り戻して欲しくない。
いつも柔らかく弧を描いている翡翠の瞳が悲しみに歪む様は、出来れば見たくない。まるでナイフで刺されているように心が痛むから。
でも、多分、一番浅ましい思いは、彼女に今のままでいて欲しいから、昔を思い出してしまえば、自分よりも大切な人や、思い出をたくさん思い出して、自分から離れて言ってしまうのではないかと恐ろしいからだ。
記憶を取り戻せば、彼女は金属器を使うことが出来るようになるかも知れない。そうすれば自分でアル=サーメンから身を守ることだって、出来るかも知れない。ジュダルが守らなくても、少しは戦えるはずだ。
ただそれを、ジュダルは素直に歓迎できない。
依存して欲しい。自分が彼女しか傍にいないように、彼女にも自分だけであって欲しい。が地位や身分を持つことで守られるのを喜ぶ反面、彼女が何も持っていなくて、ずっと今のままで自分の傍にいるだけの存在であれば良いと思う。
魔法なんて使えなくて良い。何が出来なくても良い。足が悪くて、良かったとすら思っている。
「・・・ごめん、そんな顔、しないで、」
の瞳に映る自分は、いったいどんな顔をしていたのだろう。は目尻を下げて、ジュダルの首に自分の手を回す。
「わたしはここにいるよ。だから、ね、」
縋るように回る彼女の細い腕の力が弱い。それが不安で、ジュダルは彼女を強く抱きしめ返した。温かくて、柔らかくて、知らないはずなのに、酷く懐かしくて、これ以上ないくらいに心が一杯になる。
本当はジュダルも理解している。
ヴァイス王国に行って理解したのは、彼女の実母が、そして彼女がどこまでも愛されていると言うことだ。きっと政変の際に亡くなったという彼女の実母もをいつも抱きしめ、温かい愛情を注いでいたことだろう。
ジュダルがを側に置いて気づいたのは、人の営みの、当たり前の温もりだ。
当たり前のように寄り添って、笑って、つまらないことを、つまらないと嘆きながら愛す。それはジュダルが今まで持ち得なかった感情だったが、同時にきっと何よりも尊いもので、だからこそジュダルは、それを与えるを手放せない。
半年ほどでもそう感じるのだから、彼女の実母はどんな思いで彼女に寄り添っていたのだろうか。確かに終わりは悲しい記憶だったかも知れないけれど、その温かさは本当に死んでしまったからと言って失われても良いものなのか。答えは明白だ。
「怖いんだよ、」
ジュダルが吐露できたのは、たったそれだけだった。
怖い、怖くてたまらない。の持つものがジュダルの全てを変えていく。望んだものを与え、そして同時に恐怖も与えていく。
「大丈夫、」
の声は高いくせに柔らかくて、子守歌のようだと感じる。両親なんて覚えてすらいないのにそう感じた理由を、ジュダルが知るのはずっと後のことだった。
迷宮