ジュダルが魔法である程度の障害物や迷宮生物を排除してくれるため、迷宮を進むのはそれほど難しくはなかった。
は前を歩いている彼の揺れる三つ編みを眺める。
歩みは順調。それでも閉鎖された空間は人の心を沈ませるらしい。ジュダルは珍しくいつものふてぶてしさはなく、この間からずっと、少し落ち込んでいるようだ。心配だが、あまり理由を聞き出すのもよくないのだろう。
が煌帝国の第二皇女になってから、皆が少し怖い顔をするようになった。
「もうやめちゃいたいかな。」
はジュダルに聞こえないようにぽつりと呟く。
一番近くにいるジュダルは、まごうことなくにとって一番大切な人だ。もちろん養父母だって大切だし、白瑛や紅炎のことも好きだが、なんだかんだ言って今一番好きなのも、傍にいたいのも、大切なのも当然、ジュダルだ。
多分、記憶を取り戻したとしても、は何ら変わらず同じ生活を続けると思う。辺境の村の娘から、遊郭で芸妓になった時も、遊郭から宮廷に買われた時も、宮廷からジュダルに見初められた時も、そしてただの芸妓から第二皇女になっても、は何も変わっていない。
美味しいものを食べて、眠って、周りに大切な人たちがいて、幸せで、それで良い。それだけで良いのだ。
だから、ジュダルが怖い顔をするなら、第二皇女なんてならなくて良かった。
「でも紅炎お兄さんも、玉艶さんも良いって言わなそう。」
には政治的なことはわからないし、視野に入れることすら出来ない。ただ、仮に第二皇女をやめると言い出したとして、それが政治的な内容を抜きにしたとしても、紅炎と玉艶によって許されないことをは何となく理解していた。
紅炎はを存外傍に置きたがっている。それは贈り物を贈ってくる人々とは違う意味で、の何かを認めているからだ。
玉艶もまたを管理下に置きたがっている。多分それは、彼女がを酷く心配していることと、何か別に思うところがあるのだろう。それは彼女が前に言っていた、同郷だからと言う理由なのか、他の何かなのか、そこまではわからない。
ただ、は紅炎や玉艶の元にいたいと思ったことはない。ならば、どうすべきか。
は浮遊魔法で彼の近くまで行くと、ジュダルの手を両手で掴んだ。彼は少し驚いた顔をして振り返り、その緋色の瞳で自分を映した。振り返った拍子に、とは全く異なる、漆黒のお下げがふわりと揺れる。
「紅炎お兄さん、いないね。」
はいつもと同じようにジュダルに言う。
「あ?まあ、行き着く先は一緒だから良いんじゃねぇの?」
ジュダルはいつも通り素っ気ない調子で返して見せたが、手を振り払うことはない。は彼の右手に自分の左手をしっかりつなげ、それをぶんっと振る。
「でも、紅覇くん、大丈夫かな。」
「おまえよか大丈夫じゃね?」
「え?わたしはジュダルがいるから大丈夫かな。」
「・・・おまえの頭が大丈夫じゃねぇよ。」
気楽な調子に呆れたのか、ジュダルはため息をついての手を握り返してくれた。
温かい、自分より少し大きな骨張った手。大きさは違うけれど、少し実父の手に似ている。そう、似ている。はジュダルと、実父以外のマギにあったことはないけれど、皆こんなふうに温かくて、安心できるのだろうか。
がジュダルとともにいて抱くのは、彼の不安定さに影響されることはあっても、やはり安心感や、充足感だ。
最近はジュダルも優しいし、生活面も全く困っていない。の最近の心配事はジュダルの不安が解消されるかどうかと、それに自分が関わっているらしいからなにか出来ないかという、些細なそれだけだった。
「大きな扉があるね。」
はジュダルと手を繋いだまま、大きな広間のような場所にある扉の前に立つ。きらきらと輝く水晶に覆われた扉は、扉の向こうにある光が透けて見えて、荘厳であり、どこまでも美しい。そこをとジュダルが開き、中へと入ったところで、後ろから声が聞こえた。
「!」
低い、雷のような声が後ろから響く。肩をびくっとさせて後ろを振り向けば、そこにいたのは紅炎だった。その後ろに紅覇や、従者たちもいる。
「!無事だったぁ?」
紅覇が背中に大きな剣を構えたまま、に尋ねる。は剣を持っているのを少しだけ不思議に思ったが、彼が武人としても優れているのを思い出して小さく頷いた。
「うん。ジュダルがいたから大丈夫だったかな。」
迷宮生物に襲われたりしたが、だいたい大丈夫だった、と思う。だが紅炎と紅覇の方はそうでもなかったらしい。彼らの従者の数は、明らかに前よりも少なくなっていた。が僅かに眉を寄せたのに気づいたのだろう。紅炎はに近づいてくると、ぽんっと肩を叩いた。
「多少の犠牲は仕方がない。」
「・・・そういうふうには思えない、かな。」
は彼にはっきりとそう返した。
「貴様っ、」
紅炎の部下であろう、蛇のような髪の毛をした男が、紅炎に対するあまりに無礼な言動をしたに詰め寄ろうとする。だが、紅炎はそれを目で制した。
「ただのくそ生意気な妹だ。」
唇をつり上げての皮肉。どうにもそういうものの言い方をするところが、が紅炎をあまり好ましく思えない理由なのかも知れない。ただそれも、恐らく彼なりの愛情表現というか、親愛の表現なのだろうと何となくは理解していた。
「大丈夫かな?」
はジュダルの隣から離れ、紅炎の隣を素通りして彼の部下たちの方へと浮遊魔法で飛んでいく。
「え、は、はい!!」
部下たちは咄嗟に皆、こくこくと大きく頷いたが、実際には多くの者たちが怪我をしていた。身分が高い人間に突然尋ねられたため、驚いて頷いてしまったようだ。
それを理解して、はにっこりと笑う。
「せっかくだから、」
最初にそう前置きをして、ゆっくりと息を吸い込む。
慎重に音を紡ぐべく、高い声を放つ。柔らかなで高い旋律は煌帝国ではよく知られる、トランの民に古くから伝わっていたものだが、それに乗せて歌うのは、この迷宮にトラン語で刻まれていた叙事詩だ。治癒の力を持つ幼子が、傷ついた人々を助ける。そして助けられた人々は感謝とともに勇猛果敢な大王へとその身を捧げる。
それとともに金色のルフが一般人の目にも見えるほどに集まり、人々を満たしていく。
の太ももに埋め込まれた金属器を通じて行われるそれは、人の目にはただの奇跡だろうが、ジュダル曰くれっきとした魔法なのだという。そして、自分に使える魔法が、人を助けるもので良かったと心から思う。
高い声音に、広間の空間が呼応するように震える。
次の瞬間、水晶で作られていた床が抜けるような透明を浮かべ、力を持つようにあたりの光景が一瞬にして変わった。
迷宮