迷宮から出てみると二ヶ月の時が既にたっていた。

 2週間後から紅炎は本来ならば、レーム帝国へと外遊に向かう予定だったらしく、その予定の訂正のため、すぐに部下たちにつれて行かれ、仕事詰めの毎日を送ることになった。

 だが、ジュダルとには別段関係はない。



「ふぅん、第三皇子が攻略したの。」



 茉莉花茶の入った茶器に優雅な仕草で口を付けてから、玉艶は軽く首を傾げる。



「そぅ、浮気者はいらないって言ってたけど、紅覇くんがよかったみたい。」



 はヴァイス王国から届いたバームクーヘンをもきゅもきゅという効果音が正しい勢いで食べながら、小さく頷いてみせた。




「そうかぁ?紅炎に他のジンがついってっから、紅覇にしたって感じだっただろ?」



 ジュダルは机に肘をついてを眺めながら、口を差し挟む。


 の認識では、迷宮のジンであるレラージュが進んで紅覇を選んだような言い方だが、ジュダルは単に紅炎に他のジンが既についていたから、たまたま王の資格を持っていた紅覇を王にしたのだと考えていた。

 紅炎は、王の器としてはシンドバッドに次ぐほどたぐいまれなるものがある。紅覇と紅炎を並べれば、紅覇が見劣りするのは当然のことだ。

 ただに王の器に上下の認識はないらしい。




「そんなことないよ。紅覇君は紅炎お兄さんとは違うけど、ちゃんと王さまとして強くなりたいとか思ってるよ。」

「おまえ、仲の良いヤツなら誰でもいいんじゃねぇの?白瑛も好きだろ。」

「好きだよ。」

「認めんなよぉ〜、そしたら私情ってことになんだろ。」



 ジュダルが肘をつき、の手からバームクーヘンを取り上げる。するとは一瞬硬直して、翡翠の瞳でジュダルを凝視した。



「なんだよ。」

「私情じゃない意見ってあるのかな。」

「それ言い出したら、何の話にもなんねぇだろうが。」




 今までの会話を一瞬にして無駄にしてくれるに呆れを通り超して、脱力する。だがは相変わらず、よくわからなかったのか再び首を傾げてから、どうでも良くなったのだろう。皿から今度は蒸し菓子を皿に取り、食べ始めた。

 玉艶への報告。という名の下の、ただのお茶会だ。

 が来てから、玉艶も、恐らくその管理下にある程度はあるアル=サーメンの幹部たちも、あまりジュダルを利用しようとしない。恐らく、が最近はジュダルにべったりで、離れたがらないからだろう。

 だから、ジュダルが玉艶に会う回数も、全体としては減った訳だし、同時にこんなくだらないお茶などでのんびりと日常のことを話すことなどなかった。




「そういえば、黒い蛇を捕まえたそうね。」





 唐突に玉艶が話を変える。

 黒い蛇、それは噛まれれば躰に住み着き、人の憎しみを増幅する。自発的な堕転を促す魔法の秘められた蛇。は迷宮に入る直前、それを捕らえ、何らかの形でその魔法を解いた。だが、ジュダルにとって解いたことに関心があるのではなく、誰がそれを向かわせたのか、だ。



「蛇?」

「ほら、迷宮に入る前だって。」

「あぁ、黒いの。」



 は思い出したのか、蒸し菓子を食べて汚れた指先を赤い舌で舐め取る。




「うん。へびじゃなかったし、やな感じだったから、捕まえちゃったかな。そしたら、なんか、黒いのに戻っちゃった。」




 やな、感じ。

 彼女にはそれが堕転を誘発する魔法であると言うことはわからなかったが、嫌な感じがするというのは理解していたようだ。



「・・・ねぇ、貴方には、誰の黒いのか、わかるかしら?」




 玉艶はの話を聞いて少し考えてから、彼女に問う。は翡翠の瞳を何度か瞬いた。恐らく、誰のかなどと考えたことがなかったのだろう。



「え?えっと・・・」



 は玉艶の表情を見て、ふと言葉を止める。



「誰なんだよ。」



 ジュダルが続きを促す。だがは玉艶をその瞳に映したまま動かなかったが、しばらくすると、再び口を開いた。



「玉艶さん、すごく怒ってる、かな。」




 少し躊躇うような口調だった。ジュダルはの言葉に改めて玉艶を見る。

 淡いほほえみを相変わらず刻む表情、そこには優しさしかない。漆黒の瞳にも、ジュダルが見る限りはどんな感情の色も見えない。いつも玉艶は美しく微笑み、優雅に振る舞い、誰よりも残酷に、そして残虐に人を見捨てる。

 その彼女が、怒っているとは言う。




「どうして、そう思うの?」




 一見するなら、の意見は間違いにしか見えないだろう。玉艶はそれくらいゆったりと、声音すらも変えずにに問いかける。



「なんとなく、かな。」



 全く、質問の何の答えにもならない答え。いつも彼女の答えは、そうだ。



「でも、わたしは大丈夫。」



 それが重要な答えであることは、わかる人間にしかわからない。

 玉艶の抱いた怒り。それはが無事戻ってこないかも知れないと言う危惧。堕転してしまうかも知れないと言う懸念。その答えは、「大丈夫」というもので、間違いないのだ。

 玉艶は僅かに瞠目してから、ゆったりと微笑む。



「困った子ね。」



 細い指先をに伸ばし、彼女の口元についた蒸し菓子の屑を下に落とす。はぽろぽろと膝の上に落ちていく屑を目で追って、落ちた屑を下へと払った。



「紅炎が、貴方を外遊に連れて行きたいと言うの」



 玉艶の話がまた飛んだ。ただ玉艶の中では繋がっているだろう。を紅炎の申し出通り外遊に出すとすると、玉艶の手から離れる。それはイスナーンがに手を出すことの出来る可能性を示唆していた。



「ぎゃーゆ?」

「要するに他の国に行くってことだ。」 




 紅炎は迷宮攻略が終われば、すぐに外遊に出る予定だ。当然だが、それに、紅覇もともに赴く。



「紅炎は貴方に世界を見せてあげたいのですって。」




 玉艶は茶器に手を戻し、水面をぼんやりと見つめる。



「まず、紅覇とともにマグノシュタットまで行って、シンドリアへ。その後、レーム帝国で紅炎と合流する、ということになるわ。シンドリアは食客として、是非貴方を招きたいというの。」

「え、ジュダルは?」

「もちろん、一緒で良いとのことよ。」



 がジュダルと一緒でないと動かないことは、紅炎もわかっている。中庭で話したときに、恐らくシンドバッドも理解したはずだ。だから、絶対に受け入れたくないであろうジュダルすらも、シンドリアは受け入れるつもりなのだ。

 シンドバッドが何を考えているかはわからない。それは紅炎もわかっているだろう。

 結論としては、紅炎とともに外遊に行くというわけではなく、ひとまず煌帝国の外にを出したいという考えのようだ。もちろん完全にを信用しているわけでもないし、同時に身の安全のことを考え、金属器使いとなった紅覇を付けている、といったところだろう。




「まあ、ジュダルと一緒なら、良いかな。」



 はあっさりとした様子で、隣のジュダルを見てにっこりと笑う。その笑顔の曇りのなさに、ジュダルは目を伏せる。

 まだを守れるという確信も、命を賭けて守るという覚悟もない。




「本当に、困った子。」



 玉艶はのんびりした口調で言って、何もわかっていないを見つめる。

 ジュダルの葛藤も、玉艶の懸念も、イスナーンの意図も、そして紅炎やシンドバッドの思惑も、何も知らない。知らずにあの日と同じ、無邪気で無垢な瞳のままに笑う彼女に、玉艶は小さなため息をついてしまった。



かわらないことを願いつつ 退屈