「スールマーズ家か・・・」



 たくさんの髭を携えた顎を撫でながら、老人は部下の魔導士の報告に小さく頷く。

 スールマーズはトラン語で“朽ちない花”を意味する。かつて大帝国を治めたマギを輩出した、魔導士の名門だ。現在でも各国に宮廷魔導士の家系を形成しているが、その本流は煌帝国の北に位置するヴァイス王国にある。

 そのためスールマーズ家の者自体は、老人がこの学院を開いてからも、開く前にも、珍しくはなかった。老人が若い頃にも、一人のスールマーズ家の男に出会ったことがある。



 ―――――――――じゃあ、おまえが国を作れば良いじゃん。



 明るく、屈託ない笑顔とともに黒髪のお下げの男は、翡翠の瞳で若き老人を映した。

 あれ以来、彼と出会ったことはない。だが、彼の言葉は悩み続けた若き日に終止符を打った。もちろんその理想は変わってしまったが、国は実際にこうして老人の手にある。



「はい。スールマーズ家本家の出身者のようで、マフシード様をおぼえていらっしゃいますか?」

「あぁ、覚えているさ。銀髪の・・・。」



 この学院でたくさんの魔導士を育ててきたが、彼女のことを忘れるはずもない。ヤムライハが卒業するまで、学院始まって以来の天才と言われた少女だ。そして何よりも美しい少女だった。

 そつなく整った美しい顔立ち。長くまっすぐの淡い光を放つ白銀の髪に、聡明なその正確を表したように澄んだ青い瞳。柔らかく弧を描く唇は桃色で、北方系の出身らしい白い肌は、その桃色の唇を少し艶やかに見せた。

 美しく、同時に学業も当時の首席で卒業した。まさに才媛。

 10代前半でこの学院を卒業していった後、彼女はヴァイス王国の首席魔導士として司法権を司る存在となり、優れた統治者となった。何度か、老人も同じく統治者として政治の場で顔を合わせたことがある。

 彼女は10年ほど前、政変に巻き込まれる形で国王に殺されてしまった。娘もまた、その時に殺されたと聞いていたが、どうやら生きていたようだ。



「今回煌帝国の第二皇女に封じられたのは、彼女の娘です。よく似ているとか。その皇女の魔法教育をしたいと。」



 報告に来た若い魔導士は、少し困ったような顔をしていた。

 煌帝国は非魔導士の治める国である。また急速にここ数年で勢力を拡大している国家であり、その表敬団の来訪も、決して歓迎できるものではない。だが、魔導士であり、かつて学院で学んだ少女の娘は、歓迎すべき存在だ。



「どちらにしても我々は、魔導士を守るために存在するのだ。」



 老人は魔導士の肩を叩き、柔らかに微笑む。



「彼女が魔導士である限り、彼女は私の娘も同然だ。」



 彼の志は昔も今も変わっていない。この学院も、この国も魔導士のためにある。例え敵であっても、魔導士であれば歓迎し、分け隔てなくその力の使い方を教える。それがこの国のあり方であり、老人の愛そのものだった。
















「あー、目を覚ましてしまったんだね。」



 ゆったりと東に目を向け、帽子を僅かにあげて空を見やる。

 夜。恐ろしい程の漆黒の闇と、白銀の丸い月。それはかつて隣り合っていた二人の魔導士を思わせるほど、美しい色合いだった。それが僅かにまがまがしく思えるのは、彼が彼女の運命を誰よりも知るが故だろう。

 金色のルフの流れが、たくさんの情報を彼に与える。




「・・・かわいそうに。」




 彼女がそれを望んだわけではないだろう。だが運命はやはりそれを許さなかった。彼女に従い、彼女を慕い、彼女を愛したが故に死んでしまった人々の悲しみと憎しみのルフは、今なおあの少女にまとわりつき、離れない。

 とはいえ、悲しみも憎しみも、彼女に向けられたものではない。ただ、彼女を愛したが故。



「会いに、行ってみようかな。」



 彼は空を見上げて、月に向かって柔らかく微笑む。それは誰もいない場所でさすらう彼にとって、心弾む思いつきだった。

 強い意志のない、足も悪い、弱い少女。

 彼女を迷宮に導き、力を与えたのは、自分自身だった。だからこそ、見届ける責任があると彼は感じている。




 ―――――――――――かわいそうにな



 初めて会った時は、男は彼にそう言った。

 闇に溶けてしまいそうなほどの漆黒の髪。長い長い旅は男の心すら荒ませ、マギとしてのつとめにすらも背を向けさせた。だが、朽ちない花を意味する家に生まれた月光の名を持つ少女が、男に最後の穏やかな時間を与えた。それすらも、運命は彼から奪ったのだけれど。

 生まれた幼子は、男の最後の絶望になり、同時に希望になった。



 ―――――――――――、みんなしあわせなら



 幼い口調でそう言った、あの子。消えてしまってはいけない。そう思って、彼は力を与えた。でもそれがきっと裏目に出てしまった。

 弓のように細い魔法の杖を強く持ち、彼は目を閉じる。夏だというのに少し夜は寒い。風が優しく、彼を慰めるように頬を撫でる。少女のためにと思う人間は、増えていく。そして同時に減っていく。彼女がその運命を知ろうが、知るまいが、そうして彼女は生きている。

 残酷な運命がそこにある。




「忘れてしまったままで、良かったのに、ね」



 すべてを忘れ、辺境の村で生きることが出来たら、世界の異変すら知らず、彼女は幸せに生を終えられたのかも知れない。それを、彼女を大切に思っていた者たちは、願っていただろう。

 だが、もう彼女は逃げられない。



「悲しいけれど、同時に嬉しくもある。」



 もういない、遠い日の友人に、彼は微笑んで語りかける。誰が望んでも、望まなくても、やはり彼女を愛おしく思う気持ちは、自分自身も変わりない。



「会えるのが、楽しみだよ、、」




 月と夜が、ただ彼を見下ろしていた。



























 もう20年近く前の話だ。金色の髪の少女の姿をした賢者は白銀の魔導士と黒髪の賢者に厳かに告げた。



 ――――――運命が守れば汝が子は繁栄をもたらす、運命から逃げれば子は滅びを連れてくる


 高らかに歌われたその予言に、人々は慌てふためいた。ヴァイス王国において政治を司る国王はともかく、今まで司法権を司る主席魔導士が世襲されたことなどなかったからだ。その上、ともに与えられたのは不吉すぎる予言だ。

 戸惑い、困惑する面々とは裏腹に、黒の賢者は金色の賢者に笑った。



 ――――――馬鹿じゃねぇの。俺は真摯に向き合ってるつもりだぜ。



 彼は、運命に背を向けた。

 己が誰であるかに背を向け、ただの魔導士として、時には傭兵として、長い時を生きてきた彼は、賢者の資格を持ちながら賢者としての力をその生で振るったことは一度しかなかった。彼は己の力で生き抜き最期まで人間であることにこだわった。

 それは一見逃げているように見えるかもしれない。だが彼自身が自分の役目を知っていたからこそ、選んだ道であったのかもしれない。



 ――――――運命から逃げてんのはおまえだろ。



 レーム帝国を自ら作り、王の選定者でありながら王となった自分を、彼はそう嘲った。最後の瞬間まで運命に逆らい続けた男は、人として、一人の男として、一人の父親として死んだ。



「・・・目覚めなければ幸せだったでしょうに。」



 彼女はゆっくりと瞼を上げて、空を見上げる。

 金色のルフがふわりと流れて、遠くから飛んでくる。その流れが告げているのはまごうことない北からの、変化の知らせだ。

 シェヘラザードは重い腰を上げて、静かに息を吐く。



「これも運命というものなのかしら。」



 数奇に巡るそれを回すものを、誰も知らない。その鎖を解き放つ方法も、世界を壊す以外にないのかもしれない。それでもこの運命の中で、己は果たすべき役目がある。そのために、シェヘラザードは間違いなく生まれてきたのだ。彼女もまたそうあるべきなのだと思う。

 だからこそ、彼女は遙か彼方にある煌帝国の方へと目を向けた。






 南国の美しく、鮮やかな国では、戸惑いと大きな期待が溢れていた。




「煌帝国がの派遣に同意したぁ?」




 極北の異民族である巨体の男は、眼を丸くして自らの国王を見る。すると白髪の従者が、首を横に振った。



「今は正式にヴァイス王国の首席魔導士であり、煌帝国の第二皇女です。」



 彼女は政治的に大きな重要性を持つ存在だ。



「それに、条件として第三皇子紅覇と、神官の随行をこちらも同意しました。」

「おいおい、そりゃマギのジュダルってことかよ。」

「その通りです。残念ですが、」



 従者は小さなため息をついた。

 は記憶こそなくとも古き友人であり、その彼女をどういう形であれ自分たちの国に迎えることが出来るのは歓迎すべきことだ。しかし、ジュダルはこの国の宿敵であり、政治的な配慮があるとは言え、受け入れがたいのは当然だった。



「噂では、第二皇女は最高神官と皇后の一番のお気に入りだとか。」



 最高神官とは、ジュダルのことを指す。この度第二皇女に封じられた少女は最高神官と皇后のお気に入りで、もちろんヴァイス王国の首席魔導士という重要性もあるが、同時に皇女に遇せられたのは神官のお手つきだからだと言われていた。

 神官である限り、寵姫というのは色々とまずい。要するに第二皇女というのも、最高の神官であるジュダルが囲っていても問題ない地位と言うことを意味していた。




「・・・は何も望んでいないだろうにな。」




 青年は静かに目を伏せ、銀色の髪の少女を思い出す。

 幼い頃から全く変わらぬ無邪気で、無垢な翡翠の瞳。成長しても、地位を手に入れて、彼女は変わらず昔と同じように笑っていた。



「俺は、あの子にどううつるんだろうな。」



 変わってしまった自分、そして変わらない彼女。変わってしまった世界を、人々を見て、少女は何を願い何を思うのか。それは誰にもわからない。

 彼女を思い浮かべて、彼は目を伏せることしか出来なかった。




遠き日の夜空を見上げて