「まるのっと?」
は眉間に皺を寄せ、その翡翠の瞳を細めて耳の遠い老人のように聞き返す。
「マグノシュタットだ。」
紅炎が深い深い皺を眉間に刻んで、の言葉を淡々と訂正した。
「ま、・・・そこが、何って。」
は結局聞き返したが、やはり聞き取れなかったらしい。長椅子に座ったまま、紅炎から隠れるように、長椅子の背もたれとジュダルの間に頭を突っ込む。動物のような行動だが、背中に頭を突っ込まれてはジュダルとしてはたまったものではない。
「おいおい、邪魔だって。」
「だって、また紅炎お兄さんの話が難しい。」
食べ物の話以外の話はつまらない。それがの常の主張だ。いつもは歴史学や他の国の話も食べ物に絡めて教える紅炎だが、今回は正式な外遊の旅程確認。そんなこといちいちしていられない。
「おまえが行くんだぞ。」
「ジュダルが覚えてくれるかな。」
は背もたれとジュダルの間に隠れることが出来ないとわかると、ジュダルの腕に額を押しつけて紅炎の方に視線すら向けない。
「なんで俺が覚えなくちゃなんねぇんだよ。それに基本情報くらい知ってるって。」
「まるのっとの?」
「マグノシュタットだって。」
既に基本情報どころか国名すら間違っているに、ジュダルとしては説明する気がもう起きない。どうせわかっていてもいなくても、行くのだから良いだろう。そうジュダルは結論づけたが、紅炎はそうではないようだった。
「ひとまずマグノシュタットからアクティアを通ってシンドリアに入って、最終的にレームにつけば良いんだな。」
ジュダルは大きな予定だけを確認する。すると紅炎は鷹揚に頷いた。
「そうだ。紅覇も随行する。後は神官や従者たちに聞け。」
「僕も行くよぉ〜」
近くの椅子にふんぞり返って座っている紅覇が言う。
今回金属器を手に入れたことで、第三皇子である紅覇の価値は飛躍的に上がった。まだ年齢は若いが、この度は紅覇の見聞を広げるためのものでもある。
第二皇女として遇され、ヴァイス王国の首席魔導士であるの価値は、金属器を持つが故に同じように高い。また当然、最高位の神官であるジュダルの地位も高い。しかしながら今回は、紅覇が一団の最高責任者と言うことになっていた。
「で、外遊にあたって、おまえの周囲から魔力をもらえるというそれは、おかしすぎる。」
紅炎はの目の前に南国の果物を出し、注意を引いてから言う。案の定興味のなかったは、それをしっかりと目で追う。
は煌帝国において基本、禁城の奥にあるジュダルの部屋から出ない。ジュダルにべったりで、いつも長椅子に座って、何かを食べているだけだ。常は絨毯に乗って動いており、魔法を使うこともよほどでないとない。
そのため、の特殊性の一つである、マギのように周囲からルフを集め、自分の魔力に変換するという能力は、魔導士の中でも異常なもの。ましてや魔導士の国、マグノシュタットを訪れることとなれば、気づくものもいるはずだ。
それは無用な争いを産むだろう。
「んー、ん?」
は話を聞いているのかいないのか、適当な相づちをする。紅炎はますます眉間に深い皺を溝になるほどに寄せていたが、彼女は気づかない。重々しい紅炎のため息が響く。
「で、これだ。」
紅炎はの目の前に一つの宝石を置く。それは菱形で、サイズは子供の掌くらいで、色は赤、不思議な文様が表面に刻まれていた。
「なにかな。」
「魔力の流れを、一方方向に押さえるためのものだ。」
「え?」
よくわからない、と聞かずともの表情が言っている。ただその説明は、してもにはわからないだろう。
「肌に埋め込んで使うものだ。マグノシュタットの途上はまぁ良い、だが、マグの主たっとんはいる前には、足かどこかにうめこんでおけ。」
一言言われては銀色のそれを見つめる。
は寒いヴァイス王国から帰ってきてから、だいたい薄い白地のノースリーブのワンピースに、腰には文様の描かれた青と緑の帯。寒くないように自分の瞳と同じ、翡翠の色合いのショールを肩からかけている。
腕は見える可能性があるだろうが、ワンピースの裾は長く、は足が悪いため浮遊魔法以外では動かない。足に埋め込めば、誰にもわからないだろう。
「・・・え、」
は途端に珍しく、嫌そうな反応を返した。
その理由を知るのはジュダルのみだ。彼女の太ももには直接二つの金属器が埋め込まれており、そのことを彼女はあまり好ましく思っていないらしく、ジュダルが抱く時、触るのも嫌がる。その上にまだ埋め込めと言われているのだ。嫌がるのは当然だろう。
「ひとまず、隠れるところに付けてりゃ良いんだろ?」
ジュダルは確認する。別に埋め込む必要はない。見えないところに、付けていれば良いのだ。
「外れないところだぞ。」
「が暴れるかよ。」
「よく長椅子からは落ちているようだがな。」
紅炎はため息交じりに言って、ひとまずバレないことが大切だと続けた。
魔力の流れを一方方向に押さえる魔法道具は、が周囲から魔力を取り入れるのを抑える。それは同時に彼女の魔力のみで魔法を使う必要があることを示していた。要するに身の安全を自分で測る方法が限られると言うことだ。
「うーん。」
はひとまずそれを二の腕の裏側に埋め込む。そして突然硬直した。
「なんだよ。体調でも悪くなったのか?」
「・・・ち、違うけど。わたし、魔法、使えないかも。」
「はぁ?」
ジュダルは隣に座っているを見下ろす。はそもそもあまり魔法がうまくはないが、それでも全く使えないと言うことはない。
「おいおいおい、ボルグは出るんだよなぁ?」
「うん。出ると思う。だけど、他は全然ダメかな。」
は近くに置いてあった白銀の杖を構え、魔法式を作りだす。だがいつものように、移動する魔法が使えそうではなかった。
最初の頃こそ、は魔法が全く使えなかったが、今ではだいたいジュダルと似たような系統のものならば、使えるようになっていた。この宝石で外部からの魔力の流入を押さえれば、自身の魔力では、ほとんど魔法を使うことは出来ないようだった。
要するに、最初の魔法が使えなかった頃に逆戻りである。
ジュダルは一瞬それは困るかも知れないと思ったが、少し考えて、そうでもないなと、思い直した。
「ま、良いんじゃねぇの。よく考えたら、おまえが使う魔法ってどうせ、治癒魔法と、浮遊魔法だけだろ。」
治癒魔法は金属器を使用として魔法であるため使えるし、困るのは浮遊魔法だけだが、別にジュダルがおんぶするなりして運べば良いのだ。今でも結構そうしているので、それで問題はないはずだ。己の魔力消費に関しては、周囲から魔力を取り入れられない限り、気をつけなければならないだろうが。
「そうかな。・・・そうかも。」
はあっさりと納得して、「ん?」と首を傾げる。
「そのまるぐのっとは、なんだっけ?」
「・・・なんかちょっと近くなったんじゃね?マグノシュタットな?」
ジュダルはどうせ覚えないであろうことを理解しながらも、訂正はする。
「国だよ国ぃ。魔導士の国ぃ。」
紅覇が端的で一般的な評価を口にした。
レーム帝国と煌帝国の間に存在する国家。マグノシュタット。魔導士が作った魔導士のための国。魔導士が統べる、唯一の魔導士の国。
「まどうしの、国?」
「そ。」
「それって、他の国と何が違うの?」
王さまが治める国。その王さまが魔導士だと言うだけで、その特殊性がにはよくわからない。
「まぁ、僕も行くのは初めてだからぁ、わかんないけどねぇ。ちなみに、人間は大嫌いらしいよぉ。」
紅覇も肩をすくめて言ってみせる。
ただし一般的な知識としてマグノシュタットのことを知っていたとしても、実際の内情を知っているのは、あくまで魔導士としてマグノシュタットを訪れた、魔導士のみだ。当然紅覇も紅炎も、実情を知るわけではない。
だから情報はあくまで一般的な知識と、噂だけだ。
「ジュダルは、行ったことあるのかな。」
「ねぇよ。んな訳わかんねぇ国。」
「じゃあ、みんな初めてだね。」
楽しそうにが両手をそろえて言うが、それで紅炎はふと気づいた。
紅覇とジュダルは同じく10代半ば。何をさせるにも微妙な年頃だ。がそこよりも二つ上程度。正し年齢的に上でも全く当てにならない脳みそしか持っていない。紅覇はそれほど短絡的ではないが、戦うのは好きだ。ジュダルは相当短絡的で戦闘狂。はただの馬鹿。
「・・・この外遊。」
存外やばいんじゃないか、なんて今更気づいても、用意をしてしまっているため、紅炎にもどうしようもなかった。
外遊