煌帝国から馬車でマグノシュタットに行くには、非常に長い時間がかかる。

 マグノシュタットからシンドリア、レーム帝国へと最終的に向かう表敬団は第三皇子紅覇を筆頭に、第二皇女白慧こと、最高神官のジュダルなどの要人を乗せて、出発することになった。それに伴い多くの従者、神官、貿易商、官吏、宦官、女官も随行する。

 中には当然だが間者や留学のための学生などもおり、他国の内情視察の目的もある。そのため人数は数百人、代表者となっている紅覇の責任は重たそうだった。が行くため、ヴァイス王国から来た外交官で司法庁の魔導士・ファイザルも随行することになっている。

 訪問団を見れば、目立つ“煌”の文字が大きく描かれた旗が、風に揺れている。

 が用意された椅子に腰を下ろして出立の準備を見守っていると、紅炎がやってきての傍に立った。



「退屈そうだな。」

「心躍る光景ではないかな。」




 は素直に答える。

 家族と離れ、重い任務を背負う人々の表情は、決して嬉しそうではない。新たなる国に勉学のために赴く学生たちも、そう言った空気に飲まれて神妙な顔つきをしている。本当は行きたくない人々も、たくさんいるだろう。

 は正直、特別行きたくないわけでも行きたいわけでもなかった。

 ジュダルと紅覇がいるので特別大きな不安はない。他国を訪れることで記憶を取り戻すことへの恐怖は確かにあるが、その恐怖は、明確に二つあったことをは理解した。

 一つ目は、記憶を取り戻すことで自分や周りが変わるのかも知れないと言う恐怖。二つ目は、記憶自体が恐ろしいものである気がするから、恐れる感情。一つ目はジュダルの傍にいて、白瑛や紅覇とふれあい、温もりや優しさを共有するようになって、不思議と消えた。二つ目は、まだ残っている。

 ただし積極的に向き合う気は相変わらず皆無。恐怖をわざわざ自分でえぐるようなことを、はする気がなかったし、ジュダルが認めてくれる限り、その必要性はないと思っていた。




「皇后がおまえにつけた、白慧という名前は、実にふさわしい。」




 紅炎が派遣団に視線をやったまま、呟くように言う。

 第二皇女として封じられるにあたり、は白慧皇女と呼ばれるようになった。それは皇后である玉艶がつけたものだ。

 白慧、白い智慧。もともとという名前は古い言語で“智慧”を意味する。だが、知識欲も勉強するつもりもないに智慧など一番遠いものだと揶揄されることがあった。そのにあえて皇后は白い慧(さと)さ、とした。

 慧とは、心が細かく繊細に働くことを指す。もちろんさかしいという意味合いもあるが、それを白いという形容詞が打ち消す。




「智慧とは、知識のように言われるが、本来、物事の理を悟り、適切に処理する能力で、知識とは完全に一致するものではない。」



 智慧とはあくまで実用的な能力で、知っているという事実とは全く異なる。そういう点では知識を有してはいないが、智慧は有しているのかも知れない。それも、他者とは違う形の「智慧」を。



「この世界を見て、答えを示せ。」



 紅炎は振り返り、その赤くぎらぎら光る目でを睥睨した。

 正直彼が示す意味を正確には読み取ることが出来なかったが、長い旅がにどんな変化をもたらすのか。その答えを紅炎が知りたがっていることだけは理解した。



「かわらないと、思うかな。」



 はいつも通りのゆったりとした声音で、穏やかに返す。



「帰ってきてから、それを示してみろ。」



 紅炎がそれにぴくりと眉を動かし、腕を組んだまま挑戦的に笑った。

 彼はの答えに満足を覚えると同時に、の答えに期待もしている。世界を見て、様々な国の統治者を見て、金属器使いや制度を見て、が出す答えを、求めている。それは彼が同時に、という全く自分と異なる答えを出す存在を、認めている証拠だった。

 紅炎の強硬なやり方は、は好きではない。

 だが、少なくとも彼がを違う存在だと認識しながら認めるように、もまた彼を認めていた。

 は強くジュダルにひかれる。ジュダルの傍にいるのが何より安心するし、彼とともにいると幸せだと思うし、安心できる。何故かという疑問をすべて奪うほどに、は彼に引き寄せられ、そして彼の傍にいる。

 でもたまに、少しだけ、紅炎に引かれる瞬間がある。その強さに引きつけられるのは、彼が王としての資格を持つ故なのか、もしくは違うものがを呼ぶのか。


 同時に、はふと紫がかった髪をした男を思い出した。




「・・・」



 紅炎とシンドバッドは少し似ている。たぐいまれなる王の器。シンドバッドとは昔会ったらしいが、にその記憶はない。紅炎はヴァイス王国の行政権を持ち、形式上はヴァイス王国をとともに治める身だ。

 それを強く意識して、は姿勢を正す。



「しばらく、ヴァイス王国をよろしく、かな。」




 彼をまっすぐ見上げて告げると、紅炎は少し驚いた顔をした。

 と紅炎は国のあり方に対する意見が違う。はこれから派遣団として出向く限り、しばらくヴァイス王国に干渉するのに時間を要する立場になる。その間に紅炎がヴァイス王国に強硬な圧力をかける可能性は、なくはなかった。

 しかし、は彼がそれをしないと確信している。少なくともの意思を守った形での統治を行うことを、疑っていなかった。その信頼に、紅炎は少し驚いたようだったが、満足げに頷く。




「あぁ、おまえも、・・・」





 紅炎の瞳に一瞬揺らぎとともに、懸念の色合いが浮かんだ。

 どうやら彼は存外の事を心配してくれているらしい。そして同時に、が世界を回り、自分と同じ答えを見いだすことを望みながら、反面に変わって欲しくないと願っているようだった。



「わたしはきっと変わらないかな。ずっと変わらなかったから、」



 記憶がなくなっても、全てを失っても、そして地位や身分を取り戻しても、の幸せや願いはあまり変わらない。心に、魂に刻まれたそれが長い旅を経て、大きく変わるとは思えなかった。



「記憶がなくても、あっても、何を見ても、多分変わらないんだと思う。」



 高らかに歌うような声音は、金色のルフを纏う。



 例え力が使えなくても、ルフはとともにあり、を運命へと流していく。それでも、どんなに運命が過酷に彼女に押し寄せたのだとしても、にはの思いがあり、彼女が変わることはない。


 そして、




「だから、私は貴方が心配なのだけれど。」



 落ち着いた、女性の声。紅炎が横に避けて道を空ける。そこにいたのは、皇后としての華やかな装いを身に纏う玉艶だった。彼女は椅子に座るの元までやってくると、にっこりと微笑み、近くの神官たちに目を向ける。



「用意は出来てる?」

「はい。」



 皇后からの直接の下問に神官たちは青い顔で頭を下げた。

 玉艶はその答えに満足げに頷いてから、に視線を向け、の前に膝をつき、そろえたの手をその両手で包み込む。血に汚れているにもかかわらず、綺麗すぎるほど白い手が、同じように白い手を包む。




「何かあれば、必ず神官に言いなさい。ヒューリャを、付けておくわ。貴方の女官よ、」




 玉艶が示した先には、20才過ぎくらいに見える女性がいた。

 神官なのか、亜麻色の髪を白いかぶり物で隠し、口元もまた白い布で覆われている。木で出来た長い杖を持っており、落ち着いた静かに亜麻色の瞳でを見つめ、恭しく頭を下げた。ただの目は、僅かに揺れる漆黒のルフを見逃さない。



「・・・うーん。」



 別にジュダルも黒いルフを纏っていることがあるので、特別それに嫌な感情はないが、何故か心がざわつく。あまり歓迎していないことが重なった手の緊張からわかったのか、玉艶は「いや?」とに問うてきた。

 ただその質問をした途端、ヒューリャの顔色が変わり、酷く悲しそうになったのを見て、は慌てて首を振る。




「そ、そんなことないかな。」

「そう?」




 玉艶はの手を何度か撫でて、自分の額にそれを押し当てる。



「神は我らとともにあり、」



 願うような言葉が、頭に酷く残る。記憶にはない、でも、どこかで聞いたような言葉だった。は音もなく唇だけでその言葉を反芻する。

 それはかつて、遠い日の、習慣そのものだった。






神よ娘を守り給え