「雪雁(せつがん)皇女なぁ、覚えてねぇなぁ。」



 ジュダルは寝台の上でトゥーボー王国の基本情報が書かれた巻物を開きながら、ため息をついた。




「なんのお話かな?」



 が枕を顎の下に敷いたまま、同じように巻物をのぞき込んでくる。



「おまえが会う王さまの、妃の話だよ。煌帝国から嫁いでいったヤツだからな。」



 はトゥーボー王国の国王と謁見することになっている。

 そのため基本情報くらいは確認しておこうとジュダルは思ったが、はそうでもないらしい。いつもは一つに束ねて三つ編みにしている長い銀色の髪を褥の上に滑らせながらゆっくりと身を起こして、近くに立てかけてあった竪琴を手に取った。

 細くて白い指が弦に触れれば軽やかな音があたりに響き渡る。少しすれば高い声音が混ざり、一つの詩を紡ぎ出す。




「私だけがどうして、これまでの生活を変え、ひらりひらりと飛ぶ燕のように、遠く西の異国へ行かねばならぬのか。山は高くそびえ、川はゆったりと流れている。父上、母上よ、会いたくてもその道のりは遙かに遠く、嗚呼、なんとかなしきことか。心は悲しみに憂い、張り裂けんばかりだ。」




 それは宮廷で育った人間ならよく知っている。とある女性の物語。



「あぁ、それもだっけ?」



 ジュダルは聞き慣れた歌に耳を傾けながら、ありふれた話だと小さく笑った。

 煌帝国でなくとも、東を治める帝国において、異民族に嫁いだ皇女や女性の話は数知れない。文化的に劣っているとされる西に嫁がされることは、東の人々にとっては苦難を意味する。その悲劇を歌う詩は、ありふれていた。

 が歌って見せたのも、蛮族に嫁がされた宮女の嘆きを歌ったものだ。

 トゥーボー王国も西に位置する異民族の国であり、そこに嫁がされるというのは、皇族の中でも身分や重要性が低かったことを意味する。



「まあ、そうだよな。」


 雪雁皇女、なんてよく言ったものだ。雪雁は白雁。白雁は遠つ人を枕詞としている。遠方にいる人を待つ意。恐らく雪雁なんて名前、嫁ぐ時に皇帝から与えられたのだろう。

 彼女がトゥーボー王国に嫁がされたのは10年前、トゥーボー王国の当時の王と、金属器を保持していた王太子が、煌帝国の領地の一部を占領し、皇女の降嫁を強要したからだ。他国との戦争を多数抱えていた煌帝国はこれを認め、戦利品のような形で皇女を嫁がせた。

 煌帝国の初代皇帝白徳帝の妹であった雪雁皇女だ。彼女は身分の低い宮女の娘であり、適齢の女性がいなかったこともあって、王太子に嫁いだ。に謁見を求めた現在の国王というのは、当時の王太子である。

 蛮族に嫁がされた皇女を、皆が哀れに思った。



「ジュダルは覚えてない人なの?」

「覚えてねぇなぁ。・・・祭りとかは、ちょっと覚えてるけど、」



 10年前、ジュダルは四,五歳である。ましてや蛮族に嫁がされるような身分の低い皇女など親しく話す機会などなかった。ただ、噂では馬にも乗れ、弓矢も扱う、少し変わった女性だとは聞いていたから、それが原因で嫁がされたのだろう。

 嫁ぐ際の都での式典などは、何となく記憶にある。華やかな嫁入り道具や従者たちに囲まれ、酷く緊張した硬い面持ちをした、馬に乗った少女。そのこわばった、白い顔が、戦争の敗北の衝撃さめやらぬ都に、ひっそりとした嘆きと悲しみをもたらした。

 彼女が祖国である煌帝国に帰ったことは、あれから一度もない。

 獣脂の油は安定性が低いのか、ゆらゆらと揺れる。岩をくりぬいたようなこの城の部屋がなんだか突然不気味になって、ジュダルは巻物を近くの机へと放り出した。

 もう夏だというのに、この城は酷く冷たい。

 後ろ盾があっても、明確な地位があっても、そして数週間もすればここをたつとわかっていても、無機質な石造りの城が、酷く寂しく、冷たく感じるのだ。ここで一生を暮らせと命じられた皇女は、どれほど不安であっただろう。



「国出るのは寂しいけど、案外行ってみたら良い場所で、幸せかも知れないかな。わたしみたいに。」



 はジュダルの心境を知ってか、知らずか、随分と楽天的なことを言ってみせる。ジュダルが少し驚いて彼女に視線をやると、当たり前のように竪琴を近くにおいて、いつも通りにこにこ笑っていた。その表情には憂いはない。

 もまた、ヴァイス王国から、煌帝国にやってきた。

 事情はあったとはいえ、両親から商人に売られたのだ。どこに連れて行かれるのか、自分がどうなるのかわからず、平民だけに皇女などのように身分の保障もされないので、不安だったことだろう。だがは今この生活に満足しているし、幸せだという。

 そんな風に、最初は不安でもいつの間にか幸福を手に入れていると言うことも、あるのではないか。

 あまりにも楽天的な希望だったし、歌は悲劇しか紡いでいない。でもそれは異国に嫁いだ人々の、今を知らないからだ。

 人からどう見えても、本人が幸せならば、なんの問題もない。



「幸せな。おまえ、食いもん食えてたら幸せだもんな。」



 ジュダルはわざと軽い調子で言って、を自分の方へと抱き寄せて寝台を転がる。そのまま彼女の細い体を組み敷けば、「重いかな」と悪態をつかれた。




「ジュダルもいるからかな。」

「かなってなんだよ、かなって。」





 の軽口に不機嫌を装う。だが内心ではやはり嬉しくて、こみ上げてくる笑みを隠しきれなかった。それを誤魔化すように、彼女の体を強く抱きしめる。



「そういや、この国の王も、金属器使いなんだよな。」



 ジュダルはふと思い出して、に言う。



「おまえと、同時期だな。」



 がヴァイス王国において迷宮を攻略し、金属器を手に入れたのは、10年と少し前。初めての迷宮攻略者であるシンドバッドが金属器を持ったのと、あまり変わらない時期だ。トゥーボー王国はヴァイス王国の隣にあり、王が金属器を手に入れたのも同時期である。

 ジュダルはその件に関わっていない。レームのマギもだ。ヴァイス王国とトゥーボー王国の立地が近いことからも、様々な可能性が考えられる。少なくともトゥーボー王国の王は、ヴァイス王国の首席魔導士であったの実母マフシードと、幼い頃のを間違いなく知っているだろう。



「そっか。いい人だと良いね。」




 は相変わらずわかっているのかわかっていないのか、あっさりと返す。



「おまえ、ちっともわかってねぇよな。」




 政治的なこと、外交的なこと、利害や様々な理由で、敵対しあう。そう言った人々の動きを、は理解していない。ただ自分の視線で、自分の視点でものをみて、決断していく。それが他人からするとあまりに安易で、単純なのだが、的を射ているのだ。



「このお城、なんか暗くて、お墓みたいだけど、ご飯は美味しかったから、他に良いところがたくさんあるかもしれないかな。」

「おまえ、それたいがい失礼だぞ。おまえの国も石とかで家作ってんじゃん。」

「あれはちゃんと大理石だし、普通のおうちは煉瓦かな。こんな洞窟みたいなところじゃないかな。ジュダルだって思ったでしょう?」

「・・・まあな。」



 ジュダルも最初、この城を見た時、陵墓のようだと思ったのは本当だ。



「会っても言うんじゃねえぞ?」

「でもやっぱりそこは聞いてみた方が良いんじゃないかな。」

「なんて?」

「え?お城がお墓みたいに暗いんですけど、明るい所はないですかって。」

「馬鹿じゃねぇの!?ぜってーやめろよ!」

「どうして?」

「どうしても!!」




 ジュダルは言い切ったがはあまり納得できていないのか、少し不満そうな顔でジュダルの背中に手を回してくる。



「勘弁しろよ。」

「そうかな」



 わかっているのかいないのか、ひとまず適当な返事をしてくるの背中をたたいて、ジュダルは疲れたので眠ることにした。

 もうあまり、石造りの部屋も気にならなかった。



ささやかなる不穏