の腕の傷は窓枠ですっただけだったが、白い肌には痛々しい真っ赤な痕が出来てしまっていた。
「おまえ、気をつけろって言っただろうが!」
ジュダルは軽くの頭を叩いて彼女を睨んだ。彼女はというと、王に受け止めてもらったことは素直に悪いと思っていたらしく、翡翠の瞳を潤ませ、目尻を下げて真剣な面持ちで「ごめん、」と謝った。ただし、この流れはいつもである。
「すぐに治るでしょうから、魔術で治すのはやめておきましょう。」
トゥーボー王国の魔導士は魔術師と呼ばれているらしい。老齢の彼は医者であり、の傷を見てそう言った。は塗り薬がしみたのか表情を歪める。それを見ていた彼女の女官のヒューリャが口を開いた。
「痛みを感じられているのなら、治すのが当然ではありませんか。」
言葉は淡々としていたが、それがなおさら酷くとげとげしく響く。
「この怪我はあなた方の責任でもあるのです。魔法で治すのが当然でしょう。」
ヒューリャの言いたいことは、ジュダルにも十分にわかった。
確かに文化的な違いはあるが、部屋の構造上、人が通れるほど大きな窓に格子も何もはまっておらず、幕をたらしているだけというのはあまりに危険だ。子供の随行者はいないが、なにかの拍子に窓から落ちると言うことは十分にあり得るし、警備の面からも良くない。
かりに危険があるのならば、先にそれをこちらにも提示するべきだ。
が落ちたのは偶然だが、その責任はのみが負うべきではない。来訪者の安全、ましてや皇族の安全を守るのは今回、トゥーボー王国の国王の義務である。本来であれば、が王に受け止めてもらったことを、悪く思う必要はないのだ。
目をつり上げるヒューリャの言葉に、老齢の医者はにっこりと微笑んだ。
「確かに、申し訳ないことをいたしました。しかし、様はどう思われますか。」
「え?」
は突然話を振られて少し驚いたようだった。どうやらヒューリャが怒っていることはわかっていたが、その理由を理解していなかったらしい。
「傷を魔法で治した方がよろしいですかな。」
「この擦り傷を?それは大げさかな。わたしは魔法であんまり全部をするのは好きじゃないから。」
「でしょうね。」
医者はの答えに満足したように、何度も頷く。は翡翠の瞳を何度か瞬いて、ゆっくりと首を傾げた。まるでの答えを予想していたような口ぶりだ。
「王がそうご指示をなさいましたので、」
彼は塗り薬を箱に片付けながら小さく笑う。
「えっと、わたし、王さまと会ったことがあるの?」
「あまり覚えておられませんかな。王は10年ほど前に政変が起こってマフシード様がお亡くなりになるまではよく、ヴァイス王国に行っておられました。」
「あぁ、そうなんだ。」
はさらっと返したが、ジュダルはそれであの王の親しげで、ある意味無礼な態度に納得する。
には実母のマフシードが知る以前の記憶がない。ただ彼女が覚えていないだけで、ヴァイス王国の首席魔導士の娘だとわかってから、彼女を知る人間は他国の宮廷によくいる。トゥーボー王国は隣国であり、ヴァイス王国の宮廷にいたを知っていたとしても何らおかしくない。
が魔法で怪我を治さないことに好意的であるため、女官のヒューリャは不満そうながらも唇を噛んで黙り込んだ。
「本当に痛くないのか?」
ジュダルが確認すると、は「うん。あんまり痛くないかな。」と軽い調子だった。ひとまず怪我がなかったことに安堵する。
「あまりに膿んだりしているようなら、お申し付けください。」
老齢の医者はにっこりと笑ってから、頭を下げて部屋を辞した。それと交代で、幕を上げて入ってきたのは、色鮮やかな文様の服を着た40代くらいだった。
「おまえは?」
基本的に理由がない限り、侍女や女官が自ら高位の者に声をかけることは出来ないため、ジュダルが尋ねる。すると彼女は深々と頭を下げた。
「私はトゥーボー王国の王妃の女官長アマランダと申します。この度は私たちの配慮不足からおけがをさせてしまい、申し訳ありませんでした。」
「あ、えっと、ごめんなさい。」
は両手をあわせて恥ずかしそうに謝る。自分の失敗がまずいことだったという認識があったのかとジュダルは少し驚きながら、アマランダの言葉は当然だと思った。
「お手数ですが、お部屋をお移りいただければと思います。」
アマランダの申し出は、ジュダルの予想通りのものだった。
それぞれの部屋の振り分けはもともと王たちが采配を振るう前に、この地を治める領主たちが勝手に決めたこと。問題があればすぐに部屋を入れ替えるのが当然だ。
「今からか?」
「いえ。王がおふたりと夕食をともにされたいと言うことです。」
要するに王とジュダルやが食事をしている間に、部屋を入れ替えておいてくれるつもりのようだ。その方がばたばたしないですむし、手間も少ない。
「別に、良いよ。部屋かわらなくても。」
はジュダルの袖を引く。
「まあ、半分以上おまえの不注意だけどな。そういうわけにはいかねぇんだよ。」
彼女がどう思っているかではなく、対応しなければ煌帝国の訪問団を迎えているトゥーボー王国側が、煌帝国を軽んじていると判断されるのだ。
ジュダルの言葉から何となく大人の事情を理解したのか、はすぐに口を噤んだ。
「夕食、ですか?」
ヒューリャが眉を寄せ、難色を示す。
部屋を移ることは問題ないが、王との夕食となればそれは本来正式な謁見と言うことになる。外交問題もあるため、本来なら突然の謁見は避けるべきだ。だがにそんな一般的な理論は理解の範疇の外にある。
「あの王さま、お話しやすそうな人だった。」
はにこにこ笑って、夕食をともにすることに好意的な意見を返した。
「良いのかよ。相手は国王だぜ?」
「え?だめなの?だって、もしかしたら、美味しいご飯の場所を教えてくれるかも知れないし。」
「おまえなぁ、飯だけ食いに来てんじゃねぇんだぞ。」
ジュダルは食べ物のことにしか興味のないに心底呆れたが、もう慣れているので、代わりに隣に座るの頭を軽く叩いた。
「ここらへん、あんま安全じゃねぇんだぜ。」
トゥーボー王国は多くの部族を王が統合しているに過ぎず、それぞれの部族の領地では王の権力はまだ限定的だ。煌帝国から来て事情のわからないジュダルたちが、食事が美味しそうだからと言う理由だけで物事をするのは危険だ。
「でもご飯。」
は人差し指を加えて、お預けと言われた子供のように翡翠の瞳を下げて見せる。アマランダはこみ上げてくる笑みを消すためなのか、口元を袖で隠した。
「恐れながら様、事前に食事会など・・・」
ヒューリャがに頭を下げ、意見する。それは随分と出過ぎた助言だったが、は少し戸惑った顔をした。
確かに、政治的なことを考えるなら、あまり褒められた行為ではない。
「王妃様と王太子も同席なさいます。内輪だけの気楽なものと思って欲しいとのことです。」
アマランダがヒューリャの意見を退けるように言った。
王妃が夕食の席に同席することはあるが、王太子は見たところまだ5歳前後。本来であれば他国の要人との食事に同席するような年頃ではない。要するに、正式な晩餐ではなく、幼い王太子が同席するほど、気楽で個人的な夕食の席に誘っていると言うことになる。
を受け止めたときの様子からも、王は幼い頃のの事をよく知っているのだろう。
「だめ?」
はジュダルに甘えるように自分の手を重ね、高い声音で尋ねてくる。
ヴァイス王国の首席魔導士にして、第二皇女。彼女が明確な身分と地位を保持しているため、世界でたった三人のマギであり、最高位の神官の地位を持つジュダルとの地位の上下というのは、本来であればなかなかに問題だった。
しかし、いつもはジュダルに決定を委ねるため、誰もが結局ジュダルの采配を待つことになるのだ。
「良いんじゃねぇの?」
ジュダルが言うと、の表情が花開くように明るくなり、翡翠の瞳が輝きを増す。それを見るとジュダルもまた、彼女のお願いをなおさらにまた聞きたくなってしまうのだ。
「わーい。おいしいご飯だ。」
「なんか、理不尽だよな。」
ジュダルはご飯に喜ぶを見て満足している自分に目眩を感じて、頭を抱える。結局最終的にはそういうことだった。