とジュダルが与えられた部屋は、大きなバルコニーがついた、随分と開けた部屋だ。廊下から控えの間へと繋がり、そして敷布のたくさん敷かれた広間に入る。壁にも色鮮やかに織られた壁掛けが垂らされている。夜にはすこし床より高くなった寝台のある部屋へと下がる。

 にはトゥーボー王国の伝統などわからないが、文様や色合いは煌帝国とも、ヴァイス王国とも異なる。食べ物もそうだ。

 王太子のソロンが指をくわえて眠っているのを確認し、は廊下に出る。

 石造りの廊下は窓はあるが格子や硝子はないため、皮で蓋がされている。廊下を照らすのは獣脂のみで薄暗い。はその照らし出された闇をぼんやりと見つめる。



 ―――――――――ててさま、たたさま、へん、みな、へん、



 暗い中、ねえ、と誰かに呼びかけるけれど、答えはない。温もりはそこにあるのに、誰も答えてはくれない。皆、なにかにとらわれてしまったまま。とても暗くて怖いものにとらわれて、周りが見えない。どちらも傷ついたまま、そこにいる。




「ひとりに、」




 しないで、と高い声が勝手に震える。無意識に口にした声は、後ろからの衝撃にかき消された。背中を押されたと思ったら、腰に手が回る。



、」



 高い声で、ソロンがを呼ぶ。



「あれれ、起きたの?」

「ん。」




 ぎゅうっと手を回され、は少し驚いた。



「どうしたのかな。」



 少し躰を離してソロンを抱き上げる。もう3歳を過ぎているため、決して軽くはない。ずっしりと重いからこそ、生きているとわかる。



「ひとり、いや、」



 ソロンはの首に細い腕を回し、縋り付く。



 夏とはいえ、トゥーボー王国の夕方はとても寒い。山の中に城があるからだろう。どうしても冷えるので、心許なくなる。幼い子供の体温は少し大人よりも高いから、抱いているとゆっくりと心が落ち着いてくるような心地がして、は笑ってしまった。

 こんなに、子供の体温というのは安心できるものなのだ。




 ――――――――――わたし、わたしがんばるわ。ソロモンの代わりに貴方のために、この子のために、



 がんばるから、と強く抱きしめられ、誰かの涙声が頭に響く。

 縋り付くように抱きしめられていたのは、なのか、それともまだ見ぬ弟だったのか、幼いにはわからない。わかっているのは、全てが変わってしまったこと。そして抱きしめてくるその人の温かい腕だけ。

 いつも抱きしめてくれなかった人が、を抱きしめる。




「だいじょうぶ、だよ、」



 はソロンの背中を優しく叩きながら、言う。



は、ここにいるよ、」



 誰がいなくなっても、誰がどこかに行ってしまっても、自分はここに留まり続ける。みんなが戻ってくるのをずっと、ずっと待ってる。幼かったはどちらも憎いとは思えなかったし、どちらが悪いとも思えなかった。ただそこで、は待っていた。

 でも、それがきっと、ダメだった。本当は。



「・・・は、」



 獣脂の不安定な灯りが石の壁をゆらゆらと不気味に照らし出す。揺れる、心とともに記憶と全てが揺れる。だが、それはすぐに現実の声にかき消された。




「人も付けずに何やってんだよ。」



 廊下の向こうから、アギスとともに外に出ていたはずのジュダルが戻ってくる。後ろには武官でファナリスのアルスランもいた。長い漆黒のお下げが揺れている。



「あ、ジュダル。」

「あ、じゃねぇよ。いつも言ってんだろ。ひとりになんなよ。」



 ジュダルは呆れたようにそう言うが、宮廷で人に傅かれて育ったジュダルと違い、は辺境の村で育っている。足が悪かったのでひとりで動くことは少なかったように思うが、魔法が使えるようになった今では、ひとりでふらふらするようになっていた。

 ただし地位も持つため、護衛は必要だ。そのためすぐジュダルに怒られていた。



「まあ、良いわ。入るぞ。」



 ジュダルはソロンを抱えているの背中を軽く叩く。もそれに促されて与えられた部屋の中に引っ込むことにした。控えの間を通って、バルコニーに面した広間に入る。夏とは言え夕刻にも成れば少し風が冷たいので、広間から通じた部屋へと引っ込むことにした。

 が敷布の上にある座布団に腰を下ろすと、腕の中にいたソロンが立ち上がってジュダルに危なっかしい足取りで歩み寄る。ジュダルはすぐにの隣に腰を下ろした。

 この部屋は足が悪いが座っていても寒くないように、そしておしりが痛くならないように特別柔らかく、毛の長い敷布が敷き詰めてある。ただそれがまだ3歳のソロンにとって柔らかく毛の長い敷布は少し歩きにくいようだ。



「おかえりー」



 ソロンが高い声でジュダルに言う。



「・・・お、おう、」



 少しジュダルは恥ずかしそうにそっぽを向いて答えた。ソロンはそれが満足だったのか、ジュダルの隣に座るとにっこりと笑って頭を彼の膝にもたせかける。いつもがそうしているせいか、ジュダルは自然とソロンに手を伸ばし、髪を撫でてやっていた。

 すぐにソロンはうとうとし始める。ジュダルはそれを確認してから隣に座るに視線を向ける。



「おまえら何やってたんだよ。」

「え?落書きかな。ソロン賢いの。字が書けるんだよ?」



 王太子とはいえ、3歳で字の書ける子供は少ない。は勉強嫌いだったこともあり、3歳で文字など書けなかったし、今も字は綺麗だが間違いが多いと紅炎から怒られている。その点、ソロンは将来優秀だと言えた。



「そうか?俺も書けたと思うぜ?宮廷ではやるしな。普通に」

「じゃあ、ジュダルも賢い子供だったのかな。」

「かなじゃねぇよ。少なくともおまえよかな。」



 ジュダルはそう言って、またソロンを見下ろした。彼の緋色の瞳はいつもぎらぎらしているのに、今は優しい色合いを帯びている。は彼の横顔をじっと眺めて、小さな笑みを浮かべる。彼は視界にそれを捉えていたのか、顔を近づけてきた。

 唇が柔らかに重なる。軽く舐めるようにして、もう一度重ねたが、ふと視線を感じて、下をも下ろす。

 ジュダルの膝に頭を預けたまま、じぃっとソロンが深緑色の瞳を丸くしてこちらに向けていた。ジュダルが恥ずかしくなってばっと離れる。も少し恥ずかしくて、ジュダルの肩に熱くなった頬を押しつけた。

 ただ、子供のソロンにはよくわからなかったらしく、「いっしょね。」と高い声で言った。




「何がだよ、」



 恥ずかし紛れなのか、酷く素っ気ない声音でジュダルは尋ねる。



「かあさまとー、とーさま!」



 それは国王であるアギスと、王妃である雪雁のことだろう。明るい声からは何の恥じらいも、後ろめたさもない。が染まった頬を手で押さえて顔を上げると、ソロンの深緑色の目はきらきら輝いていた。




「なかよしのしょーこって、いってた!」


 女官か誰かが言ったのだろう。ソロンが自慢するようにあまりに楽しそうに言うから、は思わず頬を押さえたまま、ジュダルを見上げた。



「こっち見んなって、」



 ジュダルは片方の手で口元を押さえ、もう片方をが自分の方を見ることを拒絶するように払って見せる。彼の耳が赤い。そう思えば、子供に指摘されたことがも恥ずかしくて、近くにあったクッションを抱きしめた。



「どーしたの?しないの?」



 ソロンは不思議そうにジュダルとを交互に見る。



「うー・・・」



 は唸ったまま、小さくなる。子供の前でもこういうことが出来るようになるまで、もう少し時間がかかりそうだった。
暗殺未遂