港には黒い固まりが二つ停泊していた。見たこともないような黒くて大きな固まりは、白い筒から湯
気を絶えず噴き出し、大きな音を鳴らす。黒光りする小さめの筒は大砲のようだ。
「きく、あれはなぁにですか?」
隣で複雑な表情で固まりを睨んでいる兄に尋ねると、困ったような顔をした。
最近、菊はとても怖い顔をしている。海外から人がやってきたと聞いてから、崩れかけていた幕府は
崩壊への歩みを初め、国はぐちゃぐちゃになっていた。
「、あれは、船ですよ。」
「おふね?」
港の端にはたくさんの漁船が止まっている。けれどそれらはすべて木で作られていて、どう見ても黒
い物と同じ機能を持っているとは思えなかった。
黒いお船が来ると、お国が壊れると言っていたのは、お隣の清朝のお兄さんだったか。それとも台湾
のお姉さんだったか。忘れてしまったけれど、海外との関わりを極力絶ってきた日本も、そう言う訳に
はいかなくなった。時代が変わったのだと、人々は言っていた。
菊は険しい顔ばかりするようになって、遊んでくれる時間も減った。そして菊が迎えに来て、祖母は
に菊と行く様に言った。すべてから遠ざけられ、穏やかに過ぎていた時間は、終わってしまったの
だ。それを幼いでも感じていた。
船から人が下りてくる。たくさんの人。
彼らの容姿に、幼いは不気味さを感じ、菊の手を握りしめた。
この国の人々は一様に黒い瞳と黒い髪をしている。肌は白いが、赤みを帯びるほど白くはない。国の
象徴たる自分達も国民と同じように黒い髪、黒い瞳をしている。はそれ以外の髪を持つ人を見たこ
とがなかった。
なのに、下りてきた人々は色素の薄い髪の色をしていて、肌は赤みを帯びている。自分達が着ている
ような着物でなく、金の縁取りの入った服を着ていて、頭には大きな“何か”がのっかっている。それを
“帽子”というと知るのは ずっと後のこと。
士官とおぼしき男達が頭を下げると、船からもう1人、背の高い男が出てきた。
きらきら光る髪に、芽生えを待つ翡翠の瞳。白い肌。目鼻立ちのはっきりした、眉の濃い彼は、船の
一団を代表するようにと菊に歩み寄った。足が長いので歩幅が大きい。
幼いは大きなその人が怖くて、菊に縋り付くように抱きつく。
「How are you? 」
男はが聞いたこともないような異国の言葉で菊に話しかけた。
「Fine…Thank you.」
菊も異国の言葉を話したが、ぎこちない。
仕方ないことだ。彼はこの間から英語を学び始めただけで、上手であるはずもない。通訳が菊と
に彼の話す言葉を伝える。
通訳曰く、彼の名前はアーサー・カークランドというのだそうだ。聞いたこともない響きに戸惑う。
見たこともない容姿の人達が怖いから、菊にしがみつく。菊は毅然とした態度示していたが、顔色は
良くなかった。
兄と男のやりとりを、はぼんやりと見つめる。
日本が直接やりとりをしたことがあるのは中国と朝鮮だけだ。が見たことがあるのも、長らく国
の政治には関わらずにいたから、遠い日の中国だけ。目の前の男も、国だという。遠く海の向うの国。
じっと男を見ていると、男の翡翠の瞳と目があった。
は慌てて下を向いて菊の手を握りしめる。菊は男の視線に気付いて、を守るように抱きしめ
た。男はを手で示して、2,3通訳に言葉を発する。
彼女は何だと聞いているようだ。
確かに国同士の会談に同席するのは、国か、それに類するものでなくてはならない。日本にしては、
はあまりに小さすぎた。
「この子は、これから大きくなる思想であり、古くからいる神様なのです。」
日本にはなくてはならないものだと、菊は縋るように説明する。男は通訳を通して菊の主張を聞くと
ふむと顎を引いた。
我らが母、よ、と。
たまにを呼ぶ人々がいる。その声は大きくなっている。いつしかそれは反幕府派の原動力となっ
てどんどん広がっている。それを感じるからは自分が怖い。もう我らがおばあさまはいないのに、
本当の意味を知らずに自分をあがめる人々が。
男は通訳を通して聞いた『』の存在に、一応納得したらしい。少し意地悪く唇の端を上げて、こ
ちらに手を伸ばしてきた。大きな手だ。おばあさまの手しか知らなくて、大きな手が怖くて目を瞑った
が、予想に反してくしゃりと頭をなでられただけだった。綺麗に切りそろえられた髪の毛が少しだけ乱
れる。
「Lovely Little Kitten、」
言われた言葉はよくわからなかった。通訳の方を見上げると、「可愛いといっておられます」と笑っ
た。
乱れた髪の毛をなでつけながら、きょとんとする。日本の人たちだって、いつもいつも、をよい
子だと、可愛いという。目の前の男も、同じことを思っているのか。当たり前のことなのに、そのとき
のにはとても不思議に思えた。相手を、同じ人間とはまだ認められていなかったから。
男はの前にひざを着くと、の小さな手をとる。ほとんどを神社の中で育ったから、あまり男
の人と触れ合うことはなかった。男はの小さな手に口付けて、言った。
「Lady. I wish you be glory.」
男の言った言葉は、ちっともわからなかった。だからもう一度通訳に視線をやると、困ったような顔
をされた。
「ぐろーり?」
最後の言葉だけが聞き取れた。でも意味は知らない。菊を見上げても、やはり知らないようだった。
男は静かに離れていく。その背中をじっと見ていると、菊が神妙な顔つきで言った。
「列強の中の列強ですね。」
「れっきょう?」
「彼は強いのです。中国さんが、偉い目にあいましたから。」
聞き返すと切羽詰った声で菊が言った。
も、お話だけはおばあさまに聞かせてもらったことがあった。『アヘン』というお名前の人をお
かしくさせる薬をインドから輸出させていたという話。国民が狂っていくのが嫌で、アヘンをほうり
捨
てたら、インドの主人である国が、おこってきた。中国は負けて、たくさんの痛みを支払わされたと
いう。
「なんというおなまえなの?」
「イギリスです。」
菊が厳しい声音で言った。
「、よく見ておきなさい。あの男は今最強の海軍を誇る最強の国です。」
不穏な、空気が感じられた。
国が国に食われる。思想が思想に食われる。そういったことが、遠い昔にあったという話は祖母から
聞いたけれど、実際にあったのをみたことはなかった。
祖母は、国である菊が新しくなるために、が必要だといった。国の中間をなす思想のために。そ
の役目がいったい何であるのか、にはわからない。多分、誰にも分からないだろう。きっと菊にす
ら、どこに行くかは分からない。
菊が思うだけでさまざまなことが決まっていた国は、終わってしまったのだ。ほかとの関係を模索し
なければならない。
「菊、」
ぎゅっと、は彼の手を握り締めた。
寄り添う二人の未来には何が待っているのだろう。今までの穏やかで暖かな調和の生活ではなく、波
乱なのだろうか。食われてしまうのだろうか。
先ほど見た大きい人を思い出す。大きいのに、小さいのは飲み込まれてしまうのかな。不安になって
菊に抱きつくと、彼は強く自分を抱き返してくれた。
「大丈夫。は私が守りますから。」
菊がひどく苦しそうな声音で言った。
海は少し荒れていて、小さな船たちはあわあわして帆を張る。なのに、黒い船はゆるぎなく進む。そ
れはどうしてなのだろうか。
先は、見えない。
それでも、自分の世界が大きく変わったことを、はどこかで理解していた。
無垢もまた無知なり