プロイセンこと、ギルベルトが日本に来たのは開国後しばらく経った頃だった。と、いうのも、日本
がプロイセン(今はドイツ)の軍制をまねたいと言ってきたからだ。岩倉具視使節団の後、一応正式に
打診を受け、多くの人員をこの極東の日本との友好というか、フランスへのいやがらせというか、ひと
まず出したのだ。


 そのひとりがギルベルトで、日本こと菊の家に滞在することになった。





「へー、なんか部屋の入口小さいな。」





 ギルベルトは頭を下げながら悪態をつく。





「すいません。日本人は比較的小さいもので、」






 菊は恐縮しながらギルベルトを中に招き入れた。紙でできた襖がたくさん並ぶ廊下を通りぬけた一室
に、ギルベルトは通された。どうやらリビングのようなところらしい。丸くて小さいテーブルが一つ置
いてある。





「お茶でも持ってきますので、くつろいでくださいね。」






 菊はのびやかに笑って、部屋から出ていく。縁側からは立派な庭が見えた。ドイツのものとは違うが
どこか整然と並んでいて、それでいて自然のような雰囲気を醸し出している。不思議なところだ。とギ
ルベルトは庭を見ながら思った。

 日本人は非常に礼儀正しくて、列強には結構ひどいことをされているのに殊勝な学びの態度を見せて
くることに、ギルベルトは感心していた。


 少し疲れたな、と、目を細めると、がたっと襖の向こうから音がした。





「なんだぁ?」






 隣の部屋に何かいるのか。そこには襖があるだけだ。襖はカギがないのであけることができるが、ギ
ルベルトは悩んだ。





「それ、押し入れですよ。」





 お茶を持ってきた菊が困ったようにいう。





「押入れ?」

「欧米で言うクローゼットみたいなものです。」





 にこりと笑って菊がギルベルトの前にお茶を置く。不思議な茶色いコップに入れられたお茶はほんわ
りと湯気を立てていた。中を覗き込むと、緑色のお茶だ。匂いは、お茶なのだが、紅茶ではない。





「日本では緑色の茶が普通なのか?」

「そうですね。だいたいは。」





 菊はクッションの上にちょこんと座る。その姿は、昼間にギルベルトが見た日本人形にそっくりだっ
た。おとなしい性格なのか、スキンシップも少なく、非常に落ち着いているのが日本だ。だからこそと
っつきにくい。ギルベルトはため息をついて話題を探した。






「そういやぁ、使節団の時に一緒に付いてきてたがきんちょはどうした?」

「あぁ、ですか?」





 菊はうなずいて、握った手を口元に持っていく。と、また押し入れの中からごそりと音がした。





「なんかいんのか?」

「ねずみじゃ、ないですかね。」





 菊は目をそむけて即答する。日ごろの日本としてはあまりに早い解答だ。何か隠しているようなしら
じらしいその態度に、ギルベルトは胡散臭いなと思って襖に手をかけて、菊が止める間もなくいっきに開いた。

 中は二つに分けられていて、布団が折りたたまれていて、ほかにもいろいろと物が入っている。下の
段の布団の陰に、桃色の着物が見えた。それが小刻みに揺れている。震えているのだ。その布地の模様
には、見覚えがあった。





「すいません、」






 菊は困ったような顔で、ギルベルトの手を止めた。






「そのままにしておいてあげてください。」





 そう言って、ギルベルトの手を襖の取ってから引きはがした。






「ごめんなさいね。。」





 菊が悲しそうに言って、襖を閉める。






、?」






 ギルベルトは首をかしげる、白地に桃色の模様の着物は、確かがヨーロッパに使節団と一緒に来
た時も着用していた着物だ。





「なんで、あんなとこにひきこもってんだ。すねてんのか?」





 さすがにヨーロッパでも物置の中に引きこもるなんてことはない。それにひきこもる、すねていると
いうよりも、どうやら何かに脅えているようだった。ギルベルトが尋ねると、本当に困ったような顔で
菊は「そうなんですけど・・・」と小さい声で言った。






「あんまりに海外にいじめられるもので、海外恐怖症なんです。」

「はぁ?」

「使節団から帰ってきてからというもの、皆さんは一生懸命欧米列強に追いつこうと頑張っているので
すが、は完全に怯えてしまって、大きい人は怖い、って、泣いてひきこもっちゃったんです。」






 不平等条約に、列強の中国進出。列強の帝国主義への危惧は、日本にも確かに存在する。それに
は完全に怯え、怖気づいて、もう海外などと付き合いたくない。見たくないと引きこもってしまったの
だ。

 しかし、実状として、ひきこもったところで意味がないことを、菊は理解している。そんなふうに引
きこもろうにも船は来るし、海外に学ばなければ負けていくばかりだ。隣の中国のように、

 それでも、幼いに変化は受け入れがたかった。





「引きずり出さねぇのかよ。」

「仕方ないんですよ。私もひきこもってばかりで、頼りない兄だったわけですし。」




 菊はかりかりと頭をかく。彼はどちらの現状も理解していた。

 そもそも鎖国していたから文化も技術も遅れたわけで、その決断も菊がしたものだ。その責任は菊に
あるし、彼女にあるわけではない。幼い彼女がこの状況を恐ろしく思うのは仕方がないことだ。まだ抵
抗の手段すらもないのだから。






「だから、こうしてギルベルトさんに来てもらって、強くなろうって頑張っているんですよ。」





 さまざまな国から技術を学ぶのに必死なのは、この幼いのためでもあるのだ。彼女が怖がらずに
いられるように。早く押し入れから出てこられるように、下地を作ろうとしている。






「おまえの精神性についてはほめてやる。」





 ギルベルトは偉そうに言った。





「でも、それはそれ、これはこれだろ。」






 襖に手をかけ、一気に開く、






「だめです。だめですよー!」





 ギルベルトを細身の菊が必死で止める。それはギルベルトの意図を理解したからだ。





「だーめーだ!出て来い。」






 がしりとギルベルトはの着物の裾をつかむ。が逃げようとしているのが分かったが、そんな
の構いやしない。菊が止める力も、幼いの抵抗も、きちんと鍛えている軍人のギルベルトには些細
なことだった。

 菊の殊勝な考えに感心すると共に国である菊が頑張っているのに心であるが付いてこないの
が、何となく許せなかった。





「ぅ、ふぇ、う、」





 引きずり出されたはびーびーと泣き出す。

 小さい体は押し入れの中にいたせいかほこりまみれで汚れていた。菊はあわてての頭を安心させ
るように撫で、近くにあったふきんでの頬の汚れを落とす。その手すらも振り払って、は泣き
じゃくった。






「何が怖いだ。相手をみねぇ方が怖いだろが」






 泣くの前に膝をついて、ギルベルトは言った。ふつりとの泣き声が止まって、ギルベルトの
ほうを見上げる。漆黒の瞳が、くるりと丸くギルベルトを映す。





「怖いって思うんだったら武器もって相手をしばいてみろよ。相手も同じ国だぜ。」






 強いとかいっても、同じ国家である。国同士の関係において強さがすべてだというのならば、強くな
れば同じだ。こちらも武器を整え、しばき返せば、条件は同じである。





「何もしねぇで、良くなることなんて、ありゃしねぇよ。」





 ひきこもっていては、よくはならない。悪くはなるかもしれないが、状況が好転するチャンスを失っ
てしまう。もしかしたら相手のすきをつけるかもしれない。相手が弱いかもしれないのに、相手を見な
ければ、それすらも見つけられない。





「菊がひとりじゃ遅いだろ。馬鹿。」





 ギルベルトはぐしゃぐしゃとの頭を手でかきまわす。

 その手は乱暴ではあったけれど、いつも撫でてくれる菊の手と同じで温かかった。




  すくいをもとめては いけない