押し入れの中からの視線に、ギルベルトは居心地が悪くて息を吐く。ふっと後ろを振り返ると
小さな影が押し入れに隠れる。ギルベルトが後ろを向くと、また視線が降りかかる。





「おーい、、出てこいよ。怒らねぇから。」



 ギルベルトが業を煮やして言うが、押し入れにいる小さな影は動かない。ギルベルトは正直困
り果てた。

 菊は上司に呼び出されて仕事に行っている。彼はいま開国し、明治時代になって国が落ち着い
たばかりで忙しいのだ。プロイセンからの軍制指南のための将校も来ているからなおさらだ。プ
ロイセンそのものであるギルベルト自体は暇なもので、菊の家でぐーたらしている。

 自動的に国でありながらまだ子供であるも家にいるわけで、隠れて出てこないの視線
は、ギルベルトにとって居心地の悪いものだった。





「あーもうっ!」





 ギルベルトは視線に耐えかねて押し入れに歩み寄り、小さなを引きずり出す。





「ひっ!」





 引き攣れた声を上げては襖にしがみついて押し入れから出るのを嫌がる。それを無理矢理
引っ張り出せば、は泣き始めた。






「えぅ、えぇっ、うぅ!」





 ぼろぼろと泣くに呆れながらギルベルトはあぐらを掻いた自分の膝にをおろす。しば
らくその漆黒のあやすように撫でていると、は潤んだくるくるとした瞳でギルベルトを見上
げてきた。





「なんだってんだ。毎日毎日。」





 毎日押し入れに隠れている彼女は、ギルベルトが来ると気になるのかじっと見てくる。それで
もすぐに隠れる。外国人を怖がっていると菊は言っていた。怖いけれど、家にいるギルベルトが
気になるのだろうか。

 ちょこんと座って小さな手で目元を擦っている小さなにギルベルトは眼を細める。かつて
愛しい人との間に儲けた子供を思い出す。子供は、嫌いじゃない。





「ほら、泣くんじゃねぇ。」





 軽く頭を撫でると、ひぇとまた呻いた。怖がられているようだ。確かに欧米列強は彼女と国で
ある菊に不平等条約を押しつけた。欧米人に酷いことをされる国民を、どこかで彼女は見てしま
ったのかも知れない。






「俺は別におまえにひでぇことする気はねぇよ。な?」






 ギルベルトは子供にしてやったように震える体を抱きしめて、髪をくしゃりと撫でてやった。

 列強諸国同士がしのぎを削り、弱き国は分割の憂き目にあう。近代は恐ろしい程に文化を食い
つぶされたりと、酷い時代だ。ギルベルトが小さい頃より多分ずっと。

 その中には放り出されたのだ。菊に守られているとはいえ、彼女が不安定になるのは仕方
が無いことだろう。





「どっかにチョコレートがあったよな。」






 ギルベルトは軍服のポケットを探して小さな四角いチョコレートを出してくる。それの表紙を
とって茶色の所を出して渡すと、不思議そうな顔をした。どうやら知らないらしい。独特の文化
を持つ日本は、ずいぶんとヨーロッパと文化が違う。





「くってみろ。甘くて美味しいから。」






 茶色の物体を黒くて大きな瞳がじっと見ている。色が食べるのを躊躇わせるのかと、声をかけ
ると、はますます戸惑った目をした。

 ギルベルトはの手にある固まりを軽く割って、自分の口にも放り込む。甘くて濃厚な舌触
り。うん。ドイツから持ってきたから少し古いわけだが、問題なさそうだ。はじっとギルベ ルト
の口元を見ていたが、食べられると思ったのか、小さな固まりを口にした。





「どうだ?」





 ギルベルトはの表情を伺う。

 しばらく口をもごもごさせていたはしばらく口を閉じて、少し眉を寄せた。





「…あまい、」





 一言そう言って、ギルベルトの膝の上からちゃぶ台のお茶に手を伸ばす。ギルベルトは小さく
笑って茶飲みをとってやる。菊が朝にいれていったものだからもう冷えている緑茶を一生懸命飲
んで、は涙目でギルベルトを見た。





「おいしくない、です。」

「そうか?」

「あまい、すぎ。」





 頬を膨らませてみせる彼女は本当に子供だ。ふとみると、彼女の小さな手はチョコレートで茶
色くなっていた。ギルベルトはちゃぶ台の上に置いてあった布巾での手を拭いてやる。




「きく、みたい、です。」





 は伺うようにギルベルトを見て言った。確かにそうかも知れないとギルベルトは苦笑する。


 菊はにやりすぎだと思うくらいに世話を焼く。それは妹を大切に思う故だ。小さなものを
慈しむ感情を、ギルベルトもよく知っている。弟がいるから、なおさら。






「そうだな。おまえの兄貴みたく、おまえと仲良くできると俺は嬉しいぜ。」

「きく、と、おなじ?」

「あぁ、しばらく日本にいるんだしな。」






 の背中を優しく撫でてやると、ぱふっとはギルベルトの胸に倒れ込んで力を抜いた。





「きく、」





 少しだけ目尻にまた涙がたまって、ぎゅっと服を握りしめてくる。その目には、明確な寂しさ
があった。

 菊は忙しくて、幼いにあまり構えない。軍人やら政治家が報告にと最初のうちはの元
にやってくることもあったが、幼いは全く理解できず、結局全ての仕事は菊へと流れること に
なった。いつも穏やかな菊が険しい顔をすることが多くなったのを、ギルベルトですら感じる のだ
から、生まれてからずっと菊と一緒に居たはよくわかっている。






「寂しいな。」






 寂しいと口に出さず、押し入れに隠れて、ひとり泣いているのかも知れない。そのいじらしさ
に気づき、ギルベルトは笑ってしまった。

 はその夜闇と同じ漆黒の大きな瞳でギルベルトを見上げて、その瞳に子供らしからぬ光を
宿す。






「ぎりゅべゆさんも、さみし?」






 問われて、心を見透かされた気がした。

 ここには弟のルートヴィヒはいない。大切な人を失ってしまった後自分を支える術でもあった
弟と離れてしまったことは、少なからずギルベルトの心に空虚感を生み出していた。






「そうだな。ちょっとな…って、ぎりゅべゆって誰だ。」







 黄昏れて言いかけたが、ふと留まる。





「…ぎりゅ、う?」





 は小首を傾げる。そう言えばに一応使節団が欧米にやってきた時に名前は名乗ったが
日本に来たギルベルトに彼女が声をかけたことは一度もない。名前を呼んだことも、当然。





「おいおい、俺はギルベルトだ、」

「ぎりゅ、べる、とぅ?」





 発音がもの凄く拙くて舌が回っていない。自分の名前が意味の分からないものに早変わりだ。






「うーん。おまえ耳しっかりしてるか?」






 ギルベルトは軽くの小さな耳を引っ張る。するとはくすぐったかったのか、ころころ
と鈴のような笑いを漏らした。

 どうやらギルベルトを怖がる感情は消えてきたらしい。

 わんっ、と縁側から小さな犬がとギルベルトに向かって声を上げる。仲良くなったふたり
をうらやむように尻尾を振っている。遊べと言うことらしい。






「ぽちくん!」





 が笑ってギルベルトの膝の上から手を伸ばす。すると主の許可をもらったと思った犬は縁
側から畳の部屋に勝手に入ってきて、に飛びついた。もぎゅっと犬を抱きしめる。

 少し小さなもしゃもしゃした毛並みのその犬は、ぽちくんという菊の飼い犬だった。






「ちょっと行儀の悪い犬だな、」





 飛びつくなんてと思ったが、は舐められたり抱きついたりしてじゃれ合っている。どちら
も子犬のように、ギルベルトの膝の上で体勢を変えながら喉を鳴らしている。





「そうだな。一緒に散歩に行くか?」






 ギルベルトがを自分の膝からおろして、立ち上がる。





「うぅ、」






 身長差が広がったせいか、は見下ろされるのが苦手なようで、また押し入れに駆け込もう
とするから、ギルベルトはを自分の方に抱き上げた。慌てて彼女がギルベルトの頭に掴まっ
て体勢を整える。頬に当たる小さな手がくすぐったい。






「こうすればいろんなところがみえんだろ?」






 ギルベルトは笑って、の体を片手で支えながら、ぽちの散歩用紐を棚から見つけ出す。照
宮は驚いたようだったが、少しだけ頬を染めてこくりと頷いた。









 


なんて柔らかなひかり