日本との不平等条約の改定された1894年の日英通商航海条約の締結とともに、彼女はイギリスにやってきた。
「こんにちは。」
流ちょうな英語でそう挨拶をした少女は、初めてあった時よりだいぶん背が伸びて、少女らしくなっ
ていた。まぁそれでもアーサーよりは遙かに小さい。肩までだった黒髪も、腰あたりまで伸びている。
昔は日本の菊に縋り付くようにしがみついていたというのに、今回は1人だ。最後に会ったのは岩倉使節
団とともに来た頃だから随分前だ。
兄の菊はと言うと、今や列強の中で駆け引きが出来るほど強くなり、不平等条約を各個撃破していっ
ているのに、彼女の引っ込み思案は治っていないようだ。
と、太陽を司る日本の神の化身でありながら、彼女は月のようだ。菊という太陽にくっつく月。
不安そうな彼女の様子からは、そうとしか伺えない。相変わらず
「兄貴はどうした。」
気のない様子でアーサーが尋ねると、彼女はぎゅっと服の裾を握りしめた。前に見た時は着物姿だっ
たが、今は貴族の子女として遜色ないドレスを着ている。
「おいそがしいのです、」
緊張しているのか、彼女の声は驚くほど震えていた。
なるほど、とアーサーは納得する。隣の中国と戦争をすると言い出しているのを、知っていた。だか
ら早々条約を締結し、恭順の印として彼女を置いていったのだ。アーサーはその恭順の印である彼女が
形ばかりの物でしかないことを知っていた。要するに菊は戦争を彼女に見せたくなかったのだ。内戦以
外では、日本が海外に行ってする戦争は初めてだからだ。
「どちらに転ぶか、みものだな。」
に聞こえないように、ぼそりと呟く。早い英語は、まだには分からないようで、聞き取れず
に彼女は首を傾げた。
清朝は今や病人だ。国内にも国外にも威厳はなくなり、状況は酷い物だ。それは数十年前に戦ったア
ヘン戦争で既に理解している。豊かな国ではあるが、使い方を知らないもったいない政府しか持ってい
ない。列強の敵ではないが、日本にとってはどうだろうと思う。
「お入り、せっかく来たんだ。寒かっただろう。」
1月ともなれば、ロンドンも寒い。屋敷の中にを招き入れる。
「いえ、日本の山はもっと寒いのです、大丈夫です。」
はおずおずと英語で答えた。少し拙いが、綺麗な発音は、あっという間にぺらぺらと流ちょうな
英語を話すようになった菊と似ている。物覚えの良い兄妹だ。たった数十年で自分の国で軍艦を造った
り、国際法を学んだりと、一気に知識をつけている。極東の小国だが、非常に勤勉で賢い国民性を持っ
ている。
前に来た時、もたどたどしい単語の英語しか話せなかったというのに。
「荷物を持とう。」
アーサーは彼女が持っていた大きな固まりに手を伸ばす。鞄と言うには何やら丸っこい。中に入って
いるのは彼女の生活必需品なのだろうが、何だろうかと訝しんでいると、彼女が小首を傾げた。
「どうしましたか?」
「これは、荷物だな。」
「そうです。」
彼女はぱらりと中を開く。それは袋ではなく、一枚の大きな布で荷物を包んだだけだった。風呂敷と
いうそれを知らなかったアーサーは、袋になっていない、持ち手もない包みをよく彼女が解かずに持っ
てきたなと感心した。
中に入っていたのは、いくつかの箱と、僅かな着物だった。
「ほとんどは、恥ずかしくない物を、イギリスで買うようにと、菊に言われました。」
はそう言って、財布よりも大きな袋をぎゅっと握りしめる。そこにはお金が入っているようだっ
た。
日本が恭順の印に彼女を送ってきたのは分かるが、彼女の滞在中の物品を援助すべきはこちらの国。
彼女は要人なのだから。日本の財政から考えれば、彼女に渡したそのお金だって、必死で稼いだ外貨
で、貴重な物だろう。律儀だなと思う。日本のそういうところが、イギリスは気に入ったわけだが。
「そのお金、送り返してしまえ。」
「え、でも、いろいろ買わなくちゃ。お洋服、たくさん持っていませんから、」
「こちらで賄う。」
「いえ、菊から、言われていますから、」
緊張した面持ちのは律儀にアーサーの申し出を辞退する。
「良いか、この国ではレディーファーストでだな。女がお金を払うもんじゃねぇんだよ。」
「菊のお金です。」
女の自分が払っているのではないと、は一生懸命固持する。
それ以上無理矢理言うことも出来なくて、困ったなとアーサーは思う。世界最強の海軍を持ち、世界
中に植民地を持つ我がイギリスが、極東の小国に金を払わせたなんて、笑いの種だ。イギリスがまるで
彼女の国を見下しているようだがそれが現在の事実。説明はしにくいが、どうすれば良いだろう。
頭を悩ませていると、彼女は泣きそうな顔でアーサーの方を見上げた。アーサーはぎょっとする。
「どうした?」
「・・・国際的には、変な事なんですか?」
不安そうに声を震わせる。
「いや、まぁ、あ、そうだな、うーん」
「……」
なんと言って良いか分からず頭を掻きながら曖昧な答えを返すと、考え込むようには俯いた。
「?」
は答えない。アーサーは彼女の顔をのぞき込むが、途方に暮れたような表情をしていた。当然か
も知れない。初めて海外に住むというのに、頼りの兄は日本にいる上、国が戦争を始めると言うことも
あり、彼女に随行員はついていないのだ。
尋ねようにも手紙を出しても届くまでに3ヶ月。答えが返ってくるまでに極東ではいつまでかかるか分
からない。ましてや戦争を始めようとしている兄に頼るまいと考えているはずだ。
国際的に、と幼い彼女がそれを口にすること自体が、不安の表れなのかも知れない。
「ひとまず来い。その話はあとにしよう。」
アーサーは荷物を適当にまとめて持ち、彼女に手をさしのべる。さしのべられた手にはとってい
いのかわからないという顔をしたが、半ば無理矢理彼女の手をとった。
長い廊下の先には、客室と自室がある。
「そこは俺の部屋だ。その隣がおまえの。食事は好きな時に使用人を呼べばいい。出かける時も、かなら
ず人をつけろよ。」
「…人?」
「あぁ、イギリスでは身分の高い奴の一人歩きはないな。お嬢さんならなおさらな。」
一般常識ではあるが、あえていうのは彼女に何かあっては国際問題だ。特に今はロシアの南下政策も
あるので、日本と手を組んでおくのがイギリスの国益に叶っている。喧嘩するわけにもいくまい。
はすぐに俯いて小さく息を吐いた。この国に来たことは彼女にとっては不本意だったのかも知れ
ない。菊が問答無用で自国が危ないからを安全なイギリスに放り出した気もある。元々祖母の家で
ある神社で、ほとんど人と関わらずに育ったと言うから、すぐに人になれるのは難しいかも知れない。
岩倉使節団と一緒に来た時、彼女が仲良くなって話せたのは何故かプロイセンだけだった。賢い癖に
子供っぽいところのある彼が、何故か彼女の波長にあったらしい。無駄に話していたのを思いだして不
快にすら思った。
そこから妹を介した日本とプロイセンとの会話が花開き、当然だが軍制度の話になり、日本はプロ
イセン式の徴兵制を1873年に敷くことになったというのは、数奇な話だ。その制度は今も続いている。
引っ込み思案なは、いつも菊にしがみついていた。
「どうせ長く暮らすことになるんだ。そうそう緊張していたら、いつかストレスで死ぬぞ。」
ちゃかすようにアーサーはいったが、彼女はびくりと肩を震わせた。
きづいたときには はじまっていた