お茶会に呼ばれるようになった理由はよくわからない。
極東の一国に興味を持った皇太子妃であったアレクサンドラ妃だった。ヴィクトリア女王の旦那様で
あられるアルバート公が亡くなり彼女はほとんど公の場に出ることはなくなっていた。代わりにアレク
サンドラは宮廷でトップの女性であり、美貌で有名なこともあり、一番華やいでいた。
そんな彼女と出会ったのはアーサーの屋敷だ。彼を訪ねてきていた彼女は小国であるが最近よく噂に
上る日本であるを見つけて声を掛けたのだ。イギリスに来たばかりで屋敷から出かけるのが怖くて
おどおどしていたは、明るい性格で優しいアレクサンドラ妃に言われて茶会に出席するようになっ
た。
最初はアーサーも驚いて一緒に行こうかと尋ねたが、アレクサンドラ妃の「女性の園です。」という
言葉に負けて、を送り出した。
黄色人種であり、様々なところで差別を受けるだが、彼女はこの国で高位の女性であるため、ア
レクサンドラがいれば安心だった。
「貴方がお茶に来てくれて嬉しいわ。」
「あ、ありがとうございます。」
は緊張した面持ちで頭を下げる。何度来ても慣れない。なんと言ってもあの大英帝国の皇太子妃
だ。彼女が気さくな人であることは分かっているが、それでもどうしても緊張した。
「カークランド卿ったら、忙しい忙しいって、ちっとも顔を出してくださらないのだもの。」
「…そうなのですか?」
はアレクサンドラの言葉に首を傾げる。
この間の日曜日も家で黒い物体を作成していたが、彼は忙しかったのだろうか。は本気で考えて
みる。
「きっと貴方が綺麗で可愛らしいからだわ。きっと可愛くて離れられないのよ。」
アレクサンドラはふふっと笑って言う。を困らせる冗談だったようだ。納得して、顔を赤くして
反論した。
「そんなことは、ありません。それにお綺麗な方はたくさんいらっしゃいます。」
「あら、お綺麗な方ってカークランド卿のお知り合い?」
「え?」
そう言う意味で言ったのではなく、イギリスには綺麗な人がたくさんいると言ったつもりだった
は首を傾げる。
「いえ、そう言う訳じゃ。皇太子妃殿下みたいに、えっとおきれいな方は、たくさん。」
「嬉しいことを言ってくれるわね。」
アレクサンドラはますます笑みを深くした。
その笑顔にはどきりとする。アレクサンドラはもう子供のいるような年齢であるし、言ってしま
えばもう良い年なのだが、非常に美しい。女であるですら、この人のように艶やかにほほえめたら
良いなと思ってしまう。きっと一生無理なのだろうが。
「貴方もきっともう少したったら綺麗になるわ。その艶やかな黒髪は非常に美しい。」
漆黒の、まっすぐな黒髪が美しいとほめられることを知ったのは英国でだ。日本では当たり前で、照
宮もそう思っていた。
「カークランド卿が夢中になるわけだわ。」
「夢中、ですか?」
アーサーは相変わらず素っ気ない。その意見の意味がよくわからず首を傾げるとアレクサンドラは本
当に楽しそうに笑った。
「人の恋愛事ほど楽しい物はないの。」
「恋愛事ですか?」
「そうよ。貴方は、お好きな方はいらっしゃらないの?祖国とかに。」
尋ねられて、は考える。
「菊、だけですね。…他は。」
神社で育ったが会う人間は、そもそも明治維新以前はとほんの少しの人々だけで、後はおば
あさまぐらいだった。男の人はたくさんいたが、幼すぎてよく覚えていない。親しく言葉を交したのも
菊と
中国くらいの物だ。中国とはもう昔のことだが。
「菊というのは?」
「お兄さまです、わたしの。」
菊がいつから自分の隣にいたのかは知らないが、ひとまずいつも隣にいた。たまに連れ出されて会わ
ない時期もあったが、ほとんど一緒に育った。
「あらそれは私の楽しい“好き”ではないわね。残念。」
紅茶のカップを優雅に持ち上げて、アレクサンドラは少し口をとがらせる。彼女の意図するところが
一向に分からず、は首を傾げるしかなかった。
紅茶は美味しいが、相変わらずケーキは少し甘すぎる。紅茶に砂糖を入れた上にまだ甘いケーキは、
日本人のには厳しくて、甘いケーキを砂糖を入れていない紅茶で流し込む。アーサー曰く、砂糖を
入れるのが一般的らしいが。
「そう言えば、日本にもお茶はあるそうね。」
「はい。でも紅茶ではなくて、緑茶です。緑色ですよ。でもヨーロッパは紅茶ですね。プロイセンも、
飲んでいました。」
紅茶のカップの中身をのぞきながら言うと、彼女はふぅんと頷いた。
「そう言えば、貴方。プロイセンとも仲がよろしいそうね。」
「表裏があまりなくて面白い方なので。ただ菊は複雑な顔をしていたのですけど・・・・菊はイギリス
の方が良いみたいです。」
はアレクサンドラの質問もわからぬまま、にこりと笑う。尋ねた彼女の瞳は、閑かな色をしてい
た。本当に閑かな、何かを伺う瞳だった。
「そうなの。私は貴方の国がイギリスと仲良くしてくれるのは嬉しいわ。」
軽く横に首を傾けてアレクサンドラは微笑む。
「もちろんです。」
はすぐに笑ったが、アレクサンドラはそんな簡単な話でないことを知っていた。
それには政治的な意図があった。要するにロシアの南下政策の対抗のために、長年の光栄ある孤
立の政策を撤回し、同じく南下政策を疎ましく思っている日本と同盟を結ぼうというのだ。この間
不平等条約を撤回したばかりの相手と、それも小国と手を組む動きがあることを、本人である彼女
は兄に聞いていないようだ。
彼女は政治に疎い。それどころか、自分の国の状況についても知らない気がする。日清戦争も、勝っ
たと言うことは知っていてもそれで何を得て、何の意味があるのかを彼女は知らない。
アレクサンドラから見てみれば、彼女はあまりに危うかった。は何も知らないのだ。
「何か困ったことはなぁい?欲しい物とかがあったら言って頂戴ね。」
「大丈夫です。カークランド卿がよくしてくださいます。」
「そうかしら。この間、ドレスをぎりぎりになって焦っていなかった?本国に言っていては時間がかか
るものね。」
アレクサンドラが声を掛けると、は顔色を変える。
ドレス一つ作るにも律儀な彼女は兄である日本にお伺いを立てたりする。近くにいるアーサー・カー
クランドには言いにくかったのだろう。ドレス一つも時間がかかるので、お伺いを立てていては、時間
がない。それでこの間焦っていたのだが、彼は気付いているのだろうか。あの男はそう言うところが長
く生きている癖に疎い。
「いや、あの、えっと・・・・その、言いにくくて、」
「でしょう?今度、晩餐会があるのよ。そのドレス、私が選んでよろしくて?」
「その権利はチェスで勝って俺が得たはずですけど。」
にこにことアレクサンドラが問うので、危うくは頷きそうになったが、それを後ろから制する声
が聞こえた。
振り向くと、そこには不機嫌そうな顔のアーサーがたっていた。
「でも、どちらを選ぶかはカークランド卿が選ぶのではなく、が選ぶのではなくて?」
「それじゃ俺がチェスで勝負する意味がないでしょう。」
「あら、貴方がいつまでもおっしゃらないからでしょう?もう2週間もたっているのに。間に合わなくて
恥をかくのは可哀想なですもの。」
悪戯っぽく尋ねて「ねぇ、」とに同意を求めてくるアレクサンドラは、元々彼がいるのを分かっ
ていたようだ。頷いて良いのかわからずアーサーを見上げると、少し耳が赤かった。
「ではこの席はカークランド卿に譲りましょう。」
アレクサンドラはすくっと立ち上がり、アーサーを手で示す。アーサーは突然のため目を丸くした。
「は?」
「言わないつもりなの?私が用意しても良いの?」
「はー、はいはい。」
アレクサンドラの代わりに、アーサーが席に着く。アレクサンドラは楽しそうに笑いながら、アーサ
ーの頬を人差し指でつついて去っていった。
現実に知らぬ振りなど通用しません