朝は驚くほど早い決まった時間に起きて量は少ないけれど朝食を食べ、お昼ご飯を食べて、おやつを
食べて、夕飯を食べ、早く寝る。誰もが驚くほど否の付け所もない生活をしているのが、彼女だ。普通
の女のように夜会に出かけることも、遊んで買い物をすることもない。
イギリスに来てから2週間。彼女は屋敷から一歩も出なかった。
「・・・・、退屈しないか?」
アーサーはたまりかねて、ある昼時に尋ねた。
今日もアーサーは朝昼兼用ご飯だ。彼女はきちんと朝ご飯も食べたという。イギリスに来たばかりの
頃から食事が合わないと言っていたが、今はどうにか果物で乗り切っている。それでも食事の量は少な
いので、執事と料理人の悩みの種だった。だから食事の一つでも彼女が行くならついて行っておごって
やろうと思ったのだが、彼女は全く出かけようとはしなかった。
「大丈夫です。退屈はしていません。本、読んでますから。」
最近アーサーの書斎を借りて彼女は読書に勤しんでいる。閉じこもり状態だ。それもアーサーの心配
の元だった。一日中書斎に籠もっているのだ。酸欠になりそうだと自分ならば思う。
「本が好きなのか?」
「そう、ですね。ただ日本ではあまり本を読めないので、」
「読めない?」
「女の本読みはよくないと言われるのです。」
困ったようには小首を傾げる。男尊女卑って奴かとふぅんと頷くと、心配そうな顔をした。
「もしかして、イギリスでもよくないですか?」
「いや、本を読むのは教養があるって事だろ。悪くない。」
「女の人もですか?」
「そうだな。別にそれほど問題にされないんじゃねぇの?」
流石に大学教授になりたいとか、働きたいと言い出せば話は別だが、家で本を読んでいるくらい良い
と思う。少し変ではあるが。
とはいえ国そのものであるアーサーに聞いても、あてにならないかもしれない。
「おまえ、夜会とか出ようって気はないのか?」
アーサーは紅茶のカップを持ったまま彼女に尋ねる。
年頃の女となれば早く社交界デビューしたいと願う。は外見年齢はだいたい13,4歳と言ったとこ
ろだ。少し早いけれどそう言う事に興味を持ってもおかしくない年齢ではある。
「やかい、ですか?」
よく知らないのか、は口元に手をもっていって考え込む。
あぁそうかとアーサーは納得した。彼女はまだヨーロッパの文化を何も知らないのだから、彼女が知
らないのも仕方が無い。噂では聞いている。その程度だろう。それを教えるのもアーサーの仕事だ。
「人が集まるところだよ。貴族とか王族とかが綺麗な服を着て、たくさん集まる。まぁ小さいのも大き
いのもあるけどな。」
「アーサーさんの帰りがいつも遅いのはそのせいですか?」
痛いところを突いてきたな。アーサーはばつが悪くて少し眉を寄せて息を吐く。
「そんなとこかな。市場とかも、人が多いぞ。」
曖昧に答えたが、やっぱりはよくわからないらしくて、不思議そうな顔をするばかりだった。
女同士のつきあいくらいには出した方が良いのかも知れないと思うが、彼女は極東の小国だ。自分が
つれて行けば彼女が何を言われるのか分かった物では無い。誰か角の立たない人間はいないかと迷うが
、いまいち思い当たらなかった。
今まで適当にあってきた人間の女などに任せれば、彼女に何をされるか分かった物では無いし。
「まぁ来週ドイツで国際会議があるから、そこでもパーティーはあるんだろうな。」
日本も確か呼ばれているはずだ。アーサーは目を細める。
日本は不平等条約を撃破し、日清戦争の勝敗はまだだが、一応列強の国に格下とはいえ認められつ
つある。列強の仲間入りをしたという意味ではなく、ただ単に平等条約を撃破しただけだが。まだまだ
対等としてみられるには時間がかかる。
だが、長年大国の癖に不平等条約を改定することも出来ない中国よりは将来性があるだろう。まぁ、
その中国を食い物にしたイギリスの言うことではないが。
「こくさい、かいぎ?」
「あれ?聞いてないのか。基本はみんな参加だ。っておまえは行かないのか?」
アーサーは目を丸くしてを見る。ハンガリーなど女であっても来ている奴は多いし、普通だ。
特に今話題の日本の妹となれば欲しがる国も多いし普通なら顔を出して当然だが、どうやら菊から連
絡を受けてはいないらしい。
「仕方ないです。あの、日本では、あまり女性は・・・そういう会議には出席しないんです。この間は
使節団だったから、行っていたんですけど。だから、菊は、」
は俯きながらぽつぽつと話す。前に一度国際会議に菊はを連れてきていたが、それも岩倉使
節団と一緒に見聞を広げるためにたまたまを連れていたからであって、あえてだそうと思ったわけ
ではない。
「えー、きっと楽しいぜ。」
「はい。プロイセン、あ、今はドイツですね。ギルベルトさんにはお世話になりましたから…直接、お
礼、言いたいんですけど。」
日本は軍制についてはプロイセンの物を用いた。憲法に関してもだ。なので、プロイセンは何度か日
本を訪れたらしい。子供に受けそうではないのに、何故かはギルベルトと仲が良かった。
「いろいろお話、聞かせて頂いたので、お礼したいので、行きたいと言えば行きたいんですけど。菊、
忙しいし、許可、とらないと、」
「は?許可なんて別に良いだろ?連れってやるよ。」
「いえ、あの。迷惑になるので、良いです。それよりも、市場について聞きたいです。日本では、女性
はあまり外に出ないんです。だから、よく、わかりませんが、」
「そうか。不便だな。市場は、結構面白いぜ。」
「本当、ですか?」
興味があるのか、口元に手を当てて少しだけ身を乗り出してくる。控えめだけれど興味を隠しきれな
い。その仕草が、兄であるという菊とよく似ていた。
「そうだ。確かコヴェント・ガーデンに食品の市場があると聞いているが、」
実際に出かけたことはアーサーもない。下々の行くところなので、軽々しく出かけても危ないのだ。
と、説明しようとしたが、彼女は目を輝かせていた。
「行きたいのか?」
「い、いえ、良いです。」
は質問すると慌てて首を振ったが、少しだけしゅんとしていた。
「行きたいのか?」
もう一度尋ねても、彼女は首を振る。日本人は謙遜深い。そう言っていたのはアルフレッドだったか
、ギルベルトだったか。ひとまずは意志をはっきりしないところがある。
この間執事が困っていたのは、ある時メイドが彼女が体調が悪そうだったので食事をどうするかと尋
ねたところ、は「どうしましょうか?」と返したらしい。メイドはどうすれば良いか分からず焦って
執事に指示を仰ぎに来たのだ。普通は主人の命令に従うのだが、主人が命令を発することの出来ない
人間だったらどうするか。難問である。
困った執事は結局アーサーに質問しに来た。アーサーはに質問するのだが、答えは得られず、食
事は食べないことになった。で、メイドが食事を運ばなかったわけだが、次の朝食もメイドは運び忘れ
た。こちらは明らかにメイドのミスだったのだが、夜までそれはわからなかった。は何も言わなか
ったし、何も聞かなかったのだ。ちなみにはその日、書斎でうずくまっていた。執事がメイドを叱
って、執事とメイドが揃って倒れたに謝りに来たのだが、普通怒っても良いのに彼女はあっさりと
メイドを許してしまった。
普通ならクビである。
「理解しがたいな。」
優しいのもわかるが、物をはっきり言わなさすぎる。
絶対いつか損をするぞとアーサーは常々彼女を見ながら思っていた。
この馬鹿は救いようのない悪意にだって平等に優しさを傾けるような奴なんだよ