コヴェントガーデンのマーケットは凄い人だった。それをするりとは抜けていく。
「待て、待て!」
慌てて手を掴んで止めると、彼女はアーサーに手を掴まれたままするりと上手に人混みから外れた。
やっと人通りの少ないところにやってきて、アーサーはほっとする。
「あっち側に、なんか小さなパンがいっぱい売っているところが見えますよ。」
にょきっと背伸びして、彼女は人混みの向うをのぞき込む。今にも走っていきそうだ。慌てて掴んで
いる手を握りしめる。
「あれはパンじゃなくてケーキだ。」
「そうなんですか。」
物の名前を訂正すると素直に頷いて、は心配そうにアーサーを振り向いた。
「あ、大丈夫ですか?」
が困ったような顔で尋ねる。アーサーは大きく息を吐いて、ずれた帽子をかぶりだした。
日本の街だって結構人が多かったのは事実だが、それでもどうして彼女がこうもするすると人混みを
抜けていけるのか謎だった。目を離せばこの人だ。すぐに小さな彼女の姿など消える。本当なら下々の
人間も出てくるこのような場に彼女を引っ張り出してくるのも反対なのだが、はどうしても市場に
興味があったらしい。出たいとは口が裂けても言わないが、執事やメイドに尋ねて回っていた。
だから、アーサーが連れてきたのだがアーサーもこんな人混みに出るのは久々で、正直疲れていた。
「すごいですね。人がいっぱい。物がいっぱい。」
楽しそうには笑う。両手を握りしめて小躍りしている。そんなに珍しいだろうか、アーサーは思
わず首を傾げた。
「日本にはこういうところねぇのか?」
「お祭り、だけですかね。」
「お祭り・・・カーニバルみたいな?」
「そうです。わたしの実家は神社なので。」
そう言えば教会みたいな所に住んでいたと前には話していた。聖●●祭的なものがあるのかもし
れない。
「まぁ、わたしは担がれる方なので、見てるだけなんですけど。」
は少し俯いて残念そうに言う。
「かつがれる?」
アーサーは思わず男の肩に乗せられて担がれているを想像して思わず眉を寄せたが、の表情
は明るい。
「輿にのせられていろいろなところを回るんですけど、上から見るだけで下から見たことがなかったんで
す。」
だからこんなに楽しそうなのか。アーサーは納得する。人が多いところは知っていても実際に行った
ことはないのだ。
極東の日本という国は豊かで物資もあるが、国力は非常に弱い。まだこれからの国だ。日清戦争は未
だ終わっておらず、どうなるかも未定だ。
国に帰っていない彼女は、菊からおそらく大丈夫大丈夫としか言われていないのだろう。戦争という
物も、正直分かっているとは思えない。世間知らずのお嬢さんだ。まぁ教会(神社)で育ったら仕方が
無いのかもとも思う。
「まぁあんま先先行くなよ。結構危ないんだからな。」
腰に手を当てて言うと、ははっとして表情を曇らせた。どうやら来ている人々の様子から、ワー
キングクラスの人も多いようだ。決して彼らが悪いわけではないが、犯罪者もいる。階級が三つに分か
れていて住む場所も危なさも違うという話は、にもしている。
「すいません。つきあわせてしまって。」
しょんぼりとして、俯く。
アーサーが彼女が行きたがっているのでコヴェントガーデンに連れてきてやったのだが、申し訳なさ
そうに言うは気にしているようだ。執事に強請ったと言うのが、アーサーに聞こえていたというこ
とを。
日本人は慎み深く控えめだと言っていたのは誰だったか。彼女が言い出しにくそうにしていたのでこ
ちらから声を掛けたのだが、その意図もちゃんと分かっていたらしい。
「いや、まぁ、俺も最近行ってみたことなかったし。」
「そうなんですか?」
「最近、俺らは下々の所に出るなって話だったんだ。危ないしな。鉄砲とか飛び道具あるだろ。」
飛び道具があれば、遠く離れたところからでも殺されることがある。身の守り方も少し変わったから
気をつけなければならない。
「え、鉄砲。」
「あぁ、そうだ。って、そういや日本は刀が主流だっけ?」
アーサーが一度訪れた幕末の頃は、大砲や鉄砲もありはしたが、大きくて主流ではなく、刀で斬り合
いをしていた。
「え、あ、はい。」
「そうかー。だったらピストル的な小さいのって縁ないよな。まぁだから気をつけろよ。」
「はい。ごめんなさい。」
はますます落ち込んだようで、俯いてしまう。
「いや、あの、別に、悪いって言ってんじゃねえぞ。俺も、来たことなかったし、な。」
アーサーは耳を赤くしながら言う。は赤くなるアーサーがよくわからないのか首を傾げる。
「ま、ひとまず、あそこのケーキでも食べるか。」
意を決しての手を引っ張って人混みに入り、何とか小さな露店の前に抜ける。露店にはいろいろな
色のカップケーキが置いて有った。
「どれが良い?」
アーサーが尋ねると、は小首を傾げた。
「これ、食べ物ですか?」
「は?」
「だって、ピンク、」
の前にあるのは緑やらピンクやらの蛍光色のケーキで、おもちゃにしか見えない。食べ物なのだ
ろうかと首を傾げる。自然食とは思えない。
「・・・これって、イングランドの文化ですか。」
「は?何が?普通だろ。ピンク。はい。」
アーサーはあっさり露店の主人からケーキを買ってに渡す。
「・・・・・・・・・・・・・・、そう、ですか。」
鮮やかな色をぼんやりと見つめる。これがヨーロッパでは普通なのか。ただどうしても信じられず、
悩みたくなってしまう。はじっとケーキを凝視した。
「うまいぞ。」
アーサーはにこにこしながら食べている。
「はぁ、でも座るところないですし、」
「いいじゃん。小さいケーキだしさ。かぷっと。」
「はい。」
アーサーに勧められて、はしばらくピンク色の物体を眺めたが、かぷっとかぶりつく。
「どうだ?」
「・・・・個性的な味ですね。」
イギリスに来てからご飯に結構苦しんでいるのだが、このケーキは食べられないことはない。だが、
美味しくはない。なんと答えて良いか分からず、は言葉を選んだが、その微妙な含みはアーサーに
は通じなかったようだ。
「だろ?」
嬉しそうに明るく笑われ、は困った気分になった。
もう一度、ピンクの物体を見つめる。スポンジはもの凄く味気ない。クリームはもの凄く甘い。きっ
とそれぞれ単品では食べれそうではないが、まぁ一緒にだったら食べられなくもないのが不思議なとこ
ろだ。ただ、だんだんお腹の方は限界に来つつある。食は非常に乏しい。イギリスという場所はどうに
も食がまずい。が食べられる物が少なすぎて困り果てるくらいには。
寂しさや怖さもあって、最近胃痛も頗る酷かった。
「今度、国際会議にドイツに行くのですよね。」
「あぁ、まぁな。」
アーサーはかりかりと頭を掻く。
今度の国際学会に行くアーサーに、兄の菊とプロイセンのギルベルトに相談の手紙を渡してもらおう
と思った。
何処へ行こうか?(足踏みしたって終わりは待ってくれないよ)