はヴィラで滞在していた。アーサーに国際会議の会場であるドイツのベルリンまでは連れてきて
もらったが、どうしても気が引けて、国際会議に顔を出す気にはなれなかったのだ。アーサーに手紙は
預けているが、届いただろうかと思う。

 皆国際会議で忙しいだろうから、会えるかどうかについては望んでいない。それぞれ事情があるはず
だ。





「寂しい、」






 イギリスに来て、何も知らない中でヨーロッパに放り出されて、とても寂しい。

 書斎に閉じこもりながら泣いてしまうくらい寂しいし、1人は嫌だし、帰りたいけれど、国のメンツが
あるので帰れない。元々引きこもり気質のあるはどうしても今の状況に順応できない。アーサーに
は表面上は取り繕っているが、優しくされると泣いてしまいそうになる。多分ギルベルトか菊にあった
ら、本当に泣いてしまうだろう。





『貴方は国の心なのですよ!どうしてそのように泣き叫んで誇りも威厳もないような振る舞いをなさる
のですか!!』




 行きの船で、ある将校に怒鳴りつけられた。人に怒鳴りつけられたのは初めてで目が点になったし、
怒鳴った彼のことは一緒に居たギルベルトが殴ってくれたが、それでも彼の言うことは当然だったと思
う。

 国の象徴であるが泣いて外に出たくない、行きたくないと泣いているところを見れば、他の国だ
って日本を弱いと思うだろう。菊がせっかく頑張っているのを台無しにしてしまうのだ。将校が
叱りつけたのも、行く相手国がイギリスだったというのもある。

 イギリスは今一番の大国で、機嫌を損ねればあっという間に日本は食べられてしまう。その危惧もあ
るからこそ、将校はいつもは崇めるを怒鳴りつけるという所業をしたのだ。子供であって子供では
ない。それがだ。ヨーロッパで泣き叫ぶことはしてはならないのだ。だから、アーサーが言うこと
には従った。行けというなら行くし、我慢しろと言われれば我慢する。


 それが、日本のため、しいては菊のためだから。でも、






「しんどいよぅ。」






 菊とギルベルトを見ると、泣いてしまいそうだ。やっぱりしんどい。

 本当はギルベルトに帰りたいなんて手紙を書いても仕方がない。彼は他国の人で、やさしいけれど、
本当は頼ってはいけないはずだが、それでもどうして誰かに言いたかったし、日本はあまりにヨーロッ
パに遠くて、菊が日清戦争で忙しいのもわかっているから、わがままは言いたくなかった。そう考える
と結局知り合いはギルベルト以外ヨーロッパにはいなかったというわけだ。

 ちなみに菊には元気にやっていますという手紙を書いておいた。

 そもそも別にアーサーに不満があるわけではないのだ。ただ夜会に行ってしまうために朝も遅く時間
帯も規則正しい生活を心がけているには合わないので、あまり話さないし、文化も違っていろいろ
なことも言いにくいというそれだけだ。





「はー、」






 長椅子にもたれかかるようにして横向きに倒れる。クッションがふかふかだが、かたい畳が恋しかっ
た。我ながらどうかしている。本当はこんなコルセットでウェストを締め上げたくない。帯はもうちょ
っとゆるい。





「おうちに、帰りたい、」





 はぽつりとつぶやく。それは人前では絶対にできないつぶやきだった。





「レディ、失礼ですが、御来客が、」






 使用人の声が響く。は首をかしげた。

 アーサーは留守だ。そのことは使用人だって知っているはずだ。





「アーサーさんはお出かけしていますが・・・」

「いえ、レディに来客です。」





 はますます意味が分からずますます首をかしげていると、ドアが開いた。そこにいた人物に
は目を丸くする。





「菊!」






 自分とそっくりの兄に、はあわてて長椅子から立ち上がり、思い切り抱きつく。はしたないとは
分かっていたけれど、久方ぶりすぎて涙が出そうだった。白いスーツ姿の菊は妹のの様子に怒るこ
とはなかったが、驚いたようだった。





「欧米式に大胆になりましたね。」






 菊は困ったように言っての頭をよしよしと撫でる。二人きりの兄妹だ。再会できてうれしくない
はずはない。





「アーサーさんがを連れてくるからと言っていたので、会議前に会いに来たのですよ。」

「そうなんですか?わたし、菊に会えないと思ってアーサーさんに手紙を渡してしまいました。」





 会いに来てくれるとわかっていれば、手紙など書かなかったのに。とはいえ、別に当たり障りのない
内容しか、菊への手紙には書いていない。戦争で忙しい兄に迷惑をかけたくなかったのだ。のこと
にかまっていられるほど、今の日本は豊かではない。国民を最優先に考えるべきだ。






「それは二度手間をとらせましたね。忙しくて連絡もできなかったのでぜひ会っておこうと思ったんで
すよ。」 






 菊は昔と変わらぬやさしい手つきでの目じりをぬぐう。気づかぬうちに、目じりに涙がたまって
いたようだ。はあわててドレスの袖で拭く。






「これこれ、汚れてしまいますよ。」





 ハンカチを出して、菊がの涙をぬぐった。






「あなた、船の上で怒られたそうですね。」

「あ、えっと、」






 は恥ずかしさにうつむく。あまりにも行きの船でさみしくて泣きすぎて、日本軍の将校に怒ら
れたという話を、ギルベルトが菊にしてしまったのだろう。黙っておいてくれればいいのにと、顔を赤く
するが、菊の表情は穏やかだった。





「すいませんね。こちらは戦争で危ないもので、さみしい思いをさせてしまって、」





 泣いたのは寂しさがあるからだと、菊も理解している。菊は一人の時期があったが、はおばあさ
まと常に一緒で、神社から出てからはずっと菊と一緒だった。明治維新後は離れることが多くなってし
まって寂しい思いをさせているだろう。菊の言葉には首を振った。





「いえ、お忙しいのに、来てくれてとてもうれしいです。」




 は素直に答える。国際会議の場であれば、菊はほかにもたくさん会う人がいるだろう。なのに一
番にに会いに来てくれた。それだけでにとっては満たされることだ。だから泣いてしまうのは
もったいないと、は涙をふく。

 菊の前ではわがままを言わないのが、の良いところであり、悪いところでもあった。





「アーサーさんはよくしてくださいますか?」

「あ、はい。とても。本もたくさんあって。」

「あなた、本ばかり読んでいるのですか?困ったものですね。しっかりお手伝いをしなさい。」





 菊は困ったように淡く笑ってを諌める。

 いつもそうだ。菊は怒らない。声を荒げることもあまりない。幼かった頃、がわがままを言って
も、泣いても、ちっとも怒らずに接してくれた。大切な妹だからと言って笑うから、はいつもわが
ままが言えなくなってしまう。





「この国では、使用人がいるから、あまりお手伝いはしないんです。」

「そうなのですか。では何をやって過ごしているのですか?」

「ひたすら本を読んでいます。」






 が言うと、菊は首をかしげた。変なことを言ってしまっただろうか、心配していると菊はくしゃ
りとの頭を撫でた。






「お外には、出ていないのですか?」





 その言葉に、はドキリとする。





「え、あ、はい。あまり、出ないので、」

「ヨーロッパの方は、家に閉じこもらないと聞きましたが、は大丈夫ですか?」






 心配するように菊は尋ねる。

 外に出ていないことがばれてしまった。出たいけれど、怖くて出られないし、危ないとも言われたの
で、アーサーに迷惑をかけたくないので、ほとんど出ていない。





「い、市場には、出かけましたよ。」





 はごまかすように言う。これは嘘ではない。ただ3週間以上滞在していて、一度だけの外出だが。
は弁解するようにひどく饒舌になって、出来事を話した。

 半ばうつむいて話していたため、それを悲しそうな目で見つめている菊を知らなかった。











 
綺麗なものしか受け入れない少女の時間は 残酷で