菊はが滞在するヴィラを出て、すぐに国際会議に行った。忙しかったのだろう。申し訳ないな
思う反面とても嬉しかった。
だが、会ってしまうとまた寂しくて、帰りたくなる。
「はぁ、」
は息を吐いて長いすに転がった。
日本に帰りたいと泣いて菊に訴えられればどれだけ良かっただろう。しかし将校達もいうように、照
宮は一応国家の顔で、政治的な要員でこのイギリスに来ているのだから、勝手に帰ることは出来ない。
それは分かっているのだけれど、願わずにはいられなかった。
「ぅう、」
クッションを抱きしめて長いすに横たわると、勝手に涙が溢れる。強くクッションを抱きしめて、照
宮は顔をクッションに押しつけた。
こんな顔をしていたら、アーサーに心配されてしまう。ましてや使用人に見つかれば、日本が侮られ
てしまうかも知れない。そうなれば菊にまで迷惑がかかってしまう。涙よとまれと念じてみるがなかな
か止まらなくて、はますます焦った。
「帰ったぞ―」
アーサーの声が遠く響く。は顔色を変えた。タイミングが悪い、悪すぎる。ごしごしと袖で顔を
拭くけれど、隣にあった大きな姿見に映った自分は完全に、泣いた顔だった。
「ど、どうしよう、」
クッションを抱きしめて焦るが、何も変わらない。あわあわとあちこちを見たが、駄目だった。
足音が近づいてくる。なんだか足音が多い気がする。
「うぅ、」
焦りでまた涙が流れてくる。仕方なく自分の顔をクッションで隠した。
「−、兄貴を連れてきたぞ。」
アーサーは言って近くにいた執事に帽子とコートを預ける。
「俺様もいるんだが、」
「勝手に着いてきただけだろ。」
ギルベルトがアーサーは反論するが意に介さない。一応此処はギルベルトの家のヴィラなのでギルベ
ルトにも入る権利はあるが、それでもアーサーにとって彼が来るのは不快だった。
「お邪魔しますね。」
菊が穏やかに言って、同じようにコートと上着を使用人に預ける。
「何やってんだおまえ、クッション抱えて、」
ギルベルトは長い足で長いすに座っているに近づく。
声を出したら泣いていたことがばれてしまうし、クッションを外しても顔が見えてばれてしまうし、
どうしようとわたわた考えて、目だけをのぞかせていると菊と目が合ってしまった。は肩を震わせ
てぎゅっと俯く。
「もう限界ですか。」
菊はが座る長いすの前に膝をつくと、クッションを取り上げることなく言う。
「は?」
ギルベルトがの前に膝をつく菊を見下ろし、それからの方を見る。綺麗な放射線状に広がる
つむじしか見えないが、はたと気づき、後ろのアーサーに哀れみの視線を送る。
「本当に貴方は、気を張りすぎですよ。」
菊はクッションで顔を隠すの頭をそっとなでつける。
「ち、違います、あの、ちょっと、不安、じゃなくて、えっと、」
は少しクッションから顔を出す、擦ったのか目元がまっ赤になって、すぐに泣いていたのが分か
った。ギルベルトが仕方ないなとため息をつく。アーサーは目を丸くした。
「、わかっています。なかなか気質がイギリスさんにあわないのも、はっきり言えないのも、わか
ってはいるんです。寂しいのも。だから、隠さなくて良いんですよ。」
菊が言うと、はぽろぽろと涙をこぼしてこくこくと何度も頷いた。涙すらしみてしまいそうなほど目元
がまっ赤で可哀想だ。菊はを傷つけないようにそっとハンカチでの頬の涙を拾う。
言わなければ知らないの気質の大きなイギリスでは、のようなはっきり言えない性格は置いて行
かれてしまう。海外も初めてで、しかも主張も出来ないはアーサーにとっては理解しがたいし、
もで厚かましく思われないかとどうして良いか分からない。
完全な文化の違いである。
「そんなの、わかるかよ。」
アーサーがぼそりと零す。だが、はその言葉にくしゃりとまた表情を歪めたので、慌てて弁解し
た。
「いや、別に、おまえが悪いって訳じゃ、でもこっちとしても…わか」
「それが文化の違いって奴だろ。馬鹿。」
ギルベルトが腕組みをしたまま憮然と言い放つ。
「なんだよ!てめぇだって日本に行った時は同じ失敗したんじゃねぇのかよ!!」
「俺はしてねぇよ。」
自信満々にギルベルトが言うから、アーサーは相手を睨みながらも疑問に思う。意外なことにアーサ
ーに対して好意的に答えたのはの頭を撫でていた菊だった。
「アーサーさんは紳士的ですからね。」
「どういうことだ?」
「そのままの意味ですよ。ギルベルトさんは小さくなるを引きずり出して、弱音を揺すって泣かし
て無理矢理聞き出したんです。」
菊にしては珍しいとげのある言い方だ。少し怒っているらしい。
ギルベルトは遠慮などないから、意味が分からない行動をするを引っ張り出して、無理矢理不安
も理由も何もかも泣きながら言うまでしつこく聞き、問いただしたのだ。女にそこまでやったギルベル
トにアーサーはちょっとひく。
「何だよ。文句あんのか?そのぐれぇしねぇと、こいつ話さねぇじゃん。訳わかんねぇよ。」
結局ヨーロッパ系という意味ではギルベルトも同類である。彼はその性格故に解決策を早めに打ち出
せただけだ。ただこのやり方はアーサーには非常にやりづらい。少なくとも今は紳士的を装っているア
ーサーにとってはちょっと難しい。
「日本では特に女性はあまり声高に意見を主張をするのが好まれせんし、男性の決定に従うのが普通で
すから、が物をはっきり言えと突然言われても、難しいのです。」
菊はの弁明をしてから、の頭をまた撫でる。
「気付いて上げないと駄目なんですよね。よしよし、」
「その甘やかしが問題じゃね?」
ギルベルトは呆れたようにそっぽを向いた。は相変わらずクッションを抱きしめたまま、俯いて
いる。
「あの・・・・・、」
「そもそもプロイセンさんは乱暴なんですよ。は大人しいんですから、粗暴に扱えば泣いてしまう
でしょう?」
「はぁ?そんなこと言ってっからが苦労するんだろ?」
「苦労しないようにするのが私の仕事です。」
「それが甘やかしてるって言ってんだよ。過保護だからこういうことになるんだろ?手助けは必要だが
過度の保護は逆効果だ。」
「保護せず傷ついたときにどうするんですか?安全な道をつけてからでないと困るのはです。」
目の前で始まった喧嘩に、はどうしようと顔を上げて2人に視線を送る。だが口論がやまないため
あわあわと2人の間で迷う表情をする。どうすれば良いのかわからないようだ。口を開いては閉じ、口を
開いては閉じを繰り返している。終いにはぼろぼろとまた泣きだした。
アーサーから見れば、はっきりいえば良いのにと言うのが本音だが、彼女は言えないようだ。全てが
こういう事なのだろう。やりたいことも言いたいこともある。でも言わない、言えない。それが彼女の
本質なのかも知れない。
「やめろよ。・・・が困ってんだろ。」
大きく大きく息を吐いて、の代わりにアーサーが2人を止める。
「うるせぇよ。ってか、をどうするんだよ。菊はすぐに帰るんだろ?」
アーサーに一言言ってから、ギルベルトが菊を睨む。
日清戦争をしている菊はすぐにとんぼ返りしなければならない。この会議だってそもそもは来る予定
ではなかったが、を心配してきたのだ。
「ぁ、あの、わたし、」
が何かを言おうとするが、言葉がでない。何を言うのだろうとアーサーは見ていたが、先に菊が
決断を下した。
「戦争はもう終わるでしょう。ただロシアさんがドイツさんも含めてちょっぴしうざい状況になってる
ので、の処遇についてはそれが片付いてから決めます。」
「それまではどうするんだ?」
アーサーはを横目に尋ねる。すると菊は柔らかに微笑んだ。なんだか黒い笑みだ。
「をベルリンのイギリス大使館に滞在させてください。」
あっさりと出た言葉は、元々考えていたような口ぶりだった。ギルベルトがにやりと笑う。があ
からさまにほっとした顔をする。
その姿を見ながら、アーサーは反論のしようがなかったが、菊は閑かな目でアーサーを見ていた。
抱きしめて優しく愛して